年間指導計画の役割


 「図画工作の評価に困ります」「言語活動をどうすればいいですか」など、よくある質問のほとんどは「年間」という視点を持つことで解消します。今回は、年間指導計画の役割について考えてみましょう。

1.はじめに

 子どもには得手不得手があります。平面は得意だけど立体は苦手、大胆に筆を動かすのは好きだけど精密な描写は嫌いなどです。先生も同じです。どんな題材でも授業がうまくいくわけではありません。絵の指導は得意だけど、工作の指導に困ってしまうという人はいるでしょう(※1)。
 それでいいのです。それが人間です。だから、1年間で絵や立体、工作、造形遊び(※2)など、いろんな題材が経験できるようになっているのです。一つの題材だけで図画工作を語ってはいけません。うまくいったり、いかなかったり、でも年間通せば、案外うまくいっているものです。「1年間で図画工作科」そうとらえることがはじまりです(※3)。

2.評価を年間で考える

 「みんなよく頑張ったから全員Aでもいいですか?」
 気持ちは理解できますが、ちょっと短絡的です。4観点で分析的に評価するのが現行の制度です。
 でも、一つの題材で、全ての観点を評価するのは難しいことです。例えば、2時間で終了する題材の場合、すべてを見ようとすると4観点×40人=160の個別データが必要となります。まず、物理的に不可能です。また、一つの題材で全ての能力を伸ばせる「万能題材」はありません。「発想や構想の能力」に重点をおく題材、「創造的な技能」が活性化する題材など、それぞれに特徴があるのです。
 そこで「1年間かけましょう(※4)」「いろいろな題材を関連付けながら、能力を伸ばしましょう」となります。「ある題材ではB、でも次にはA」などのように、継続的に子どもを見つめ、評価していくことも必要でしょう。それを担保するのが年間指導計画です。

3.手立てを年間で考える

 「相互鑑賞は、本時のどこに入れればいいですか?ワークシートに書かせなくていいですか?」
 なぜ1時間だけで考えようとするのかなと思います。そもそも題材は2時間、4時間、6時間などのまとまりで出来ています。その全体を通して、発想や構想、鑑賞の能力などを育てます。相互鑑賞や書く活動などの手立ては、題材の中で、それが最も効果的なタイミングや方法があるはずです。1時間単位で手立てを考えるのではなく、題材全体を見通して位置付けることが適切でしょう(※5)。
 それでも、単独で見れば題材の手立ては不完全です。相互鑑賞の必要がない題材、話し合う活動が必要な題材など、それぞれに特徴があります。そこで、題材同士を関連させ、手立てをバランスよく配置する必要がでてきます。それを実現しているのが年間指導計画なのです。

4.おわりに

 どの時間、題材でも「最善を尽くす」のは当たり前です。でも、「あーダメだったなあ、」「あー意欲なくしているなあ」が実際です。「全部成功させる」「子どもに万能を求める」のは無理なのです。でも、年間指導計画が私たちを支えてくれるでしょう。「よし!次は先生頑張る」「次はいい顔見せてくれるはず」そう考えれば楽になりませんか?
 年間指導計画は、様々なノウハウを個人ではなく組織やまとまりとして維持・保全する優れた方法です(※6)。それは、先生や子どもの能力の違い、評価活動が本来持つ不十分さ、手立てのバランスなどを補ってくれます。1年かけて子どもを伸ばすという視点をもって、安心して目前の題材に取り組みたいものです。

 

※1:「国語の物語文は好きだけど作文指導は苦手」「算数の図形は得意だけど計算指導が苦手」と同じだろう。
※2:平成20年の指導要領の改訂で「造形遊び」は正式な用語となった。教科書でも明示してほしい。
※3:「造形遊びが分からないからしない」「絵が好きだから工作を減らす」はやめてほしい。
※4:そもそも「関心・意欲・態度」は1学期や複数の題材など、ある程度の幅を持って評価する観点である。
※5:国語や算数でも「全単元で毎回計算練習が入る」「判で押したように作文を書く」はない。
※6:端的に具現化しているのは教科書だ。日本の教科書は、何もかも詰め込んだ海外の教科書とは異なり、年間の指導を上手く体現している。

感性の理由

 小中一貫校に関わって6・3制や教育課程の弾力化や法改正が話題になっています。小学校と中学校の、教科や免許の関係が検討されるようです。以前よりも変化のスピードが速い感じがします。このようなとき、私たちはどのように報道や情報に接すればよいのでしょうか。このことについて学習指導要領の「感性」という用語から考えてみましょう。

学習指導要領の用語

 学習指導要領で使われる用語は最大公約数的な性格を持っています。一般に用いられている以上でも以下でもありません。特殊な使われ方もしません。もし、特殊な意味を持たせ、用法を限定したら、学習指導要領として役に立たないでしょう。素直に「あ、感性ね」という感じで使われることが前提です。
 でも、「感性」という言葉は、使う人や場面などでかなり意味が異なる言葉です。感覚という意味で使われたり、感情や感受性、あるいは直感という意味でも用いられたりします。「よく分からない」「説明できないけど大事」というような場面でも使われますから、状況的で幅のある言葉です。
 では、「『感性』とは何ぞや」と突き詰めたほうがいいのでしょうか。いいえ、それは学者さんたちの仕事です。現場で取り組んでも、哲学論議に陥るだけで、生産的ではありません。大事なのは、その言葉を用いた理由です。

平成10年改訂の「感性」

 図画工作・美術で「感性」が議論されたのは平成10年です。教科の改善の基本方針に「感性を育てる」という文言が入っています。でも、学習指導要領の目標に入ったのは中学校だけでした。なぜでしょう。
 当時主催した研究大会での「感性」に関するパネルディスカッションを紹介しましょう。小学校のパネラーは「感性は好ましくない」と述べ、中学校のパネラーは「感性は必要だ」と述べ、すっかり対立しました。
 小学校の理由は、「感性」を言いすぎると、感性VS知性となり、子どもの造形活動の知的側面が無視され、子どもの造形活動が曖昧な世界に押し込められるというものでした。それに「感性を育てる」と言うと、そこに「大人の思う感性」が忍び込み、それを押し付け、子どもの感覚や感じ方を阻害するというわけです。
 中学校の理由は、子どもは道具を用いるとき、全身を道具化させ、その動きや知覚、思考などを働かせながらつくっており、それは「感性」と呼ぶのがふさわしいというものでした。また、私たちには他国にない「日本人の感性」などもある、文化を学ぶという意味で「感性」は必要だというわけです。
おそらく、平成10年当時、同じような議論が行われたはずです。でも議論は熟せず、小学校に「感性」を入れることは見送られたのでしょう。

平成20年改訂と「感性」

 当時、中教審では「図画工作や美術の時間は必要か」「ものづくりは大事だ」「時間を削減してはどうか」「日本人としての感性や伝統や文化はどうする」などの議論が行われていました。一方、一部の現場では、子どもの感覚や感じ方、あるいは思いを無視して、先生の思い通りに絵を描かせる実践が行われていました。「感性」は再び、図画工作・美術で重要な問題として浮上していたのです。
 協力者会議や教科調査官同士、何度も議論しました。「『感性』を指導内容としてとらえるのか」「『感性』を指導できるのか」「『感性』は能力か」「いや、働きとして表れる」など、いろいろな検討が行われました。そして、最終的に、小学校と中学校の発達の特性の違いを踏まえて「感性」を設定したのです。主な理由は以下です。

 小学生は、まだ文化に染まりきっていません。子どもは、その子らしい感情や感覚、直感などをもとに、友達や周囲の環境とかかわり合い、学習活動を展開しています。そこで有意に働いているのが「感性」であり、指導内容というよりも、「子どもの感性」と呼んだ方が適切な、能力とも文化とも言い切れぬ「何か」です。そこで、小学校では目標を「表現及び鑑賞の活動を通して,感性を働かせながら,つくりだす喜びを味わうようにするとともに,造形的な創造活動の基礎的な能力を培い,豊かな情操を養う」とし、働きを重視した設定を行いました。そして、解説で「児童の感覚や感じ方,表現の思いなど,自分の感性を十分に働かせる」と述べ、子ども自身の感性が働くような学習を目指そうとしました。

 しかし、中学生ともなれば、メタ認知も確立し、自分をもう一人の自分から見つめ直す「自我像(※1)」を描いたり、何気ない風景から光を見つけ出し、そこに感情や命を描き出したりします(※2)。歴史や社会の知識をもとに、自分や他者、文化などに潜む「感性」を操って学習を展開することも可能です。そこで、中学校では目標における設定は変更せず、解説で「感性」を「様々な対象・事象からよさや美しさなどの価値や心情などを感じ取る力であり,知性と一体化して人間性や創造性の根幹をなすもの」として「感性」が単に働くだけでなく、それ自体が能力であり、これを育て、高めることが重要であることを明確にしました。また「感性はその時代,国や地域などに見られる美意識や価値観,文化などの影響を受けながら育成される」と文化的な側面もおさえています。

改訂の向う

 「感性」という学習指導要領の文言を取り上げて、改訂の背景を検討しました。そこには、時代や社会の要求や、子どもの実態や発達などがありました。何より、小学校ではもっと子どもたちの「感性」を働かせてほしい、それを踏まえて中学校では文化に関わりながら「感性」を自らの力としてほしいという願いがありました。「感性」は、教育現場の実践を改善する有効なツールとして送り出されたメッセージだったのです。
 これから教育課程の改善や法改正などが、ますます議論されるでしょう。その中の、どんなささやかな変更にも、何らかの意図や願いがあります。流れてくるニュースや情報に対して、感情的に反応するのではなく、そこにどんな意味があるのか考えたり、現場で何が起きるのかなどを想像したりするのも一つの方法です。そこからの冷静な議論が、世論形成につながると思います。

 

※1:「自我」を表す自画像。自分とは何かを見つめて、そこから表現方法を考えて自分を描く題材。一見して顔と分からないものから、写実的な表現まで様々な表現が生まれる。
※2:学び!と美術 <Vol.11>「描写のできること」(2013.7)の注の9を参照してほしい。

初中の季節(※1)

 中教審への諮問や指導要領改訂のスケジュールが発表されて、なんだか喧しくなってきました。初等・中等教育に関する世論がじわりと高まってきた感じです。このような時期になると、様々な場で教科の必要性に関する議論が行われます。本稿でも考えてみましょう。

 まず、わかりやすくするために、あえて単純化してみます(※2)。

■Aさん~「美術が大事」派
「芸術家の活動や作品は、多くの人々に役立っています。美術がないと、生活も味気なくなります。映画もポスターも街も食品も、全て美術が関わっています。色や形を道具とする美術は、生活に欠かせないのです。それを学校で教えないのは、美しい社会や優れた消費者を生み出すことを妨げます」

■Bさん~「教科より学力」派
「そもそも育てたい学力がまずあって、そのために各教科等があります。教科の目標も内容も指導方法も評価も、その集合体としての教育課程も、すべて子どもの資質や能力を高めるために行われる実践です。美術が大事と叫ぶのではなく、資質能力を育てるために美術が必要であり、学力に貢献できると主張するべきです」

■Cさん~「子どもの支持」派
「教科より子どもです。子どもの姿から訴えるべきです。美術の時間では、子どもたちは感性を働かせながら、豊かな発想をします。何より子どもたち自身が大好きで、勉強に追われる子どもたちにとって憩いの場です。子どもたち自身が『美術の時間がこれ以上減るのはいやだ』と言っているのですから、それを奪うべきではありません」

■Dさん~「現実的な対応」派
「前回の改訂の評判がよいのだから、今回はそれをより進める方向になるでしょう。それは、今の日本の課題と直結するもので、おそらくグローバルな視野をもったものになるはずです。東京オリンピックも明確なターゲットです。文化的なニーズを取り込みながら、美術文化の必要性を主張していくのがよいと思います」

 このように並べてみると、どれも一長一短であることが分かります。

 Aさんの言う美術の社会的な大切さはその通りだと思います。日本人の感性を美術の実践が支えてきたことも事実だと思います。でも、この論理は、国語や音楽など、どの教科にも当てはまります。美術関係者は同意するでしょうが、その他多くの賛同は得られにくいでしょう。

 Bさんの意見は、学校教育法や教育制度にそった妥当なものです。確かに、教科は学力を実現するための道具です。でも、少し学力至上主義の感じがします。教科と学力は、本来切り離して語れるものではありません。例えば、学力を可視化しているのは教科です(※3)。教科の歴史や実践も大切にしたいものです(※4)。

 Cさんの意見は、現場で子どもを見つめてきた視点からでしょう。子どもから語ることは大事なことです。発想、構想、技能等々、授業の中で子どもはすばらしい姿を見せます。でも、後半は都合が良すぎます。子どもの憩いや好みというだけでは、大勢の人々の賛同は得られません。

 Dさんの意見は現実的です。行政的な施策を進めるうえでは有効な方法だと思います。でも、世論形成を図るには弱く、その具現化には政治力が必要になるので、一般的とは言えないでしょう。また、進め方や方法を一つ間違うと、教科が埋没してしまう危険性もあります。

 要は、美術、学力、子どもなど、何か一つだけを取り出して、お互いの関係性を切り離して語る限り、どう言っても切り返されてしまうのです。では、どうすればよいのでしょうか。実は、私も答えを持っていません。「自分のできること」を「自分のできる場」で「精一杯やる」それだけです。ただ、その際、AさんからDさんのような実体論にならないように気を付けながら、多くの資源を関係付けてとらえ、その都度、その状況で効果的な主張や実践をしていくことが大事だと思っています。

 

※1:文部科学省では、初等・中等教育局が幼稚園、小学校、中学校、高等学校の教育を担当している。初中局や初中など、略称で呼ぶことが多い。
※2:幼稚園の表現、図画工作も含む。本稿では分かりやすくするために美術とした。
※3:美術科がないと、創造力や独創性といった資質や能力は見えにくくなる。
※4:ただ、国の調査を別として、学力に関して具体的なデータや証拠を集められていないのは事実だ。

発見の喜び

 楽しみにしているネット上の情報の中に、子育て真っ最中のお父さんの記録があります。「丸をうまく描くのとおしゃべりの始まりは影響し合う」「ひらがなを書き出した頃にアンパンマンを描く」など、我が子の成長からいろいろな発見をしています。これが実に勉強になるのです。本稿ではその例を挙げながら、図画工作や美術の役割まで広げて考えてみましょう。

1.子どもの発見

 まず、Aちゃんの発見です。写真1についていたコメントは「ピグマックスとプロッキーを手に取り、じっとみて『いっしょや』」です。これのどこが発見なのでしょう。

写真1

 Aちゃんは、二本のペンを手に持ってじっと見つめています。それは二本を比較、検討していることを示しています。「いっしょや」とは、当初「二本は違う」という意識があったということです。つまり、二本のペンを比べ、考えて、その上で「いっしょ」=「同じ」という結論に達したのでしょう。さらに興味深いのは、Aちゃんが「紫」と言ってないことです。「紫」という色を知っていて、そこに二本を当てはめたのではないということです。子どもは、大人と異なり、全ての色や音などがそのまま入ってくると言われています(※1)。そこから見方や感じ方を身に付けたり、何かに焦点化する方法を学んだりしていきます。その代表が「言葉」です。「言葉」を用いることで、私たちは混沌とした世界を「明確」にとらえます。「色」という概念も、その一つです。国や地域の文化に応じて、世界を「赤」や「青」などに分けています。おそらくAちゃんは、この「色」という概念から目の前の二本のペンを同じ仲間として分類したのでしょう(※2)。その瞬間をお父さんはとらえたというわけです。それは、子どもの発見という育ちを見逃さない温かい親のまなざしだと思います。そんなまなざしで毎日見つめられてるなんてAちゃんは幸せですね。

2.親の発見

 次は、お父さんが子どもの絵から発想の仕組みを発見した事例です。
 ある日、Bちゃんが写真2のような絵を描きます。お父さんは「手の表現が変わったな」と思い、「これは?」と聞きました。Bちゃんは「それ羽根やで」と答えました。お父さんは「なぜだろう?」と思い、「描いた順番」をたどりました 。以下お父さんの分析です。

写真2

 家族4人のバランスが安定していないので、おそらく真ん中の赤い花から描いたのでしょう。次に、ペンを持ち替えて茎と葉。それから左の雲をペンでクルクルと描きます。右にいくにつれ、次第にリズムが出てきています。その後、左から二番目のB子を、顔、髪、髪飾り、服、ヒラヒラの順に描きます。ここで、さっき描いた花の葉っぱが目に入り、じーっと見たのではないかと思います。そして、「あっ」と思ったのではないでしょうか。「これ、羽根の形に似てるわ!」。そこでペンを持ち替え、手の部分に青い羽根を書いたのでしょう。そして、同じ描き方で右隣に花をよけながら「かあちゃん」、そして「とうちゃん」。最後にB子の左の隙間を埋めるように、妹のC子を描いたのだと思います(※3)。
 お見事です。絵を描いた順番をたどることで、Bちゃんが羽根を描いた理由を解明しています(※4)。子どもは描きながら発想し、それをすぐに応用し、また描きます。この連鎖が造形活動です。後から見ると絵や工作なのですが、その最中はその子なりの試行錯誤や相互行為の連続です。お父さんは、その仕組みを何気ない絵から発見したのです。子どもの成長が分かってうれしかったでしょうね。子どもの成長や能力に関わる発見は、親が味わえる最上の喜びだと思います 。

3.発見の喜びと図画工作・美術

 本稿のような発見は、図画工作や美術の時間によく見られるように思います。もちろん、図画工作や美術は教科であり、絵と言葉やリズムなどが一体になっている子どもの世界と対応しているわけではありません。でも、現在の教育課程の中では、子どもの一体性や主体性などが存分に発揮されている教科でしょう。そこに関わる人々が、発見の喜びを感じることが多い教科だと思うのです。

 

※1:胎児や0才の段階からフランス語と日本語を聞き分けるという研究もある。
※2:学習の資源としては、少なくとも8色~12色の二種類のカラーペンのセットがあり、それを自在に使いながら絵を描ける環境がデザインされているのだろう。色は、親や兄弟と一緒に描きながら「赤を取って」「青いお花だね」などの対話の中で学習していると思われる。教師としては、この子を有能な子として成立させている資源のネットワークまで考えたい。
※3:この後、本人に聞いたら順番はほぼ同じだったそうだ。でも「妹は『泣いてるねん』。確かに表情が違っている」、う~ん、なるほど。
※4:奥村高明『子どもの絵の見方~子どもの世界を鑑賞するまなざし~』を参考にしている。

研究授業の参観のコツ(3)

 学習は、人や材料などの多種多様な資源の組み合わせによって成り立っています。そして、その環境の中で子どもは学んでいます。図画工作でいえば、資源は、先生や友達、材料や用具、ワークシート、机、材料置き場など様々です(※1)。子どもはそれを取り入れたり、用いたりしながら、造形活動を続けています。

写真1

写真2

写真3

写真4

 授業研究会は、この“学習の資源”の妥当性を見極める実践です。どれが効果的で、何と何の組み合わせが有効なのか、先生の役割、材料の性質、机の並びは適切かなどを確かめます。また、資源の有効性を一番分かっているのは、資源を用いて造形活動をしている当の子ども自身ですから、先生よりも子どもを観察する必要があります(※2)。

 このような見方で授業を見ていると、先生の意図していなかった資源が、子どもの造形活動を決定的に左右していることに気付かされることがあります。本稿では、その具体例として「紙の大きさ」を取り上げてみましょう。

 「紙の大きさ」とはサイズという意味ではありません。子どもの身体と紙の比率という意味です。例えば、四つ切りは、大人には作品展の定番でしょう。しかし、写真1を見れば分かるように、大人にとっての四つ切りが、子どもにとっての八つ切りです。ということは、子供にとっての四つ切りは、大人にとってはその二倍、ほぼ模造紙の半分くらいになります。その紙を前に「さあ、そこにお母さんの顔を書こうね」と言われたら…多くの大人はぞっとするでしょう。身体の比率と学習内容を十分に考慮した上で、紙の大きさを検討してほしいものです。

 紙と体の動きの関係を考えることも重要です。例えば、写真2は「液体粘土を使って体全体を働かせて描く」という内容です。指先で丁寧に描いています。授業のねらいとは違っていますが、賢明な判断だと思います。なぜなら、肘を起点に手を動かせば、画用紙のサイズ以上の動きになるからです。写真3のように、となりの男子はしっかり紙からはみ出してしまっています。この活動で八つ切りは小さすぎるのです。先生は何度も「手を使って大きくかこう!体全体で!」と言いますが、いや、はみ出すでしょう…。ねらいのような造形活動をしたいのであれば、机いっぱいの大きさで、グループで触発し合いながらの実践が妥当だっただろうと思います。

 紙と他の資源をどう配置するかも大切です。ロール画用紙を廊下に長く広げ、ローラーを使って造形活動を行うという授業がありました。絵の具やローラーなどの材料や用具、ロール画用紙、子どもはそれぞれ図のような配置です。紙は、自分の身体よりはるかに大きいサイズです。そのため、子どもはまず“自分の描く場所”を決めます。そして、材料や用具と紙の間を行き来しながら描きます。自然に画用紙手前のヘリが下(地)、画用紙の向こう側が上(天)になります。結果的に子どもの活動はその天地に制限されたものになりました。先生の意図は、写真4のように色や線が自在に重なり合うイメージだったようです。しかし、それには「紙が模造紙大」「子どもたちが四方向からアプローチできる」「絵の具とローラーがすぐ脇にある」という資源の配置が必要です。紙の大きさは、他の資源との関係ではじめて有効性を発揮するのです。

 図画工作は、子どもが自らの判断で動くことの多い教科です。子ども自身が主体的に学習することよって、教科目標を達成しようとする教科です。教育課程上は、ずいぶん「まれ」な存在だと思います。だからこそ、発達や描画材、題材、材料や用具など、様々な資源を掛け合わせるように考え、そこで子どもを活躍させたいものです。「学習を成立させている資源は何で、それはどう配置されているか」「そこで子どもはどのように学んでいるのか」そんな視点で授業参観してはいかがでしょうか(※3)。

 

※1:広くは学校制度や教育課程なども入ってきますが、学習者自身が意識することは少ないので、授業研究会ではあえて学習者が実感できる資源に限定して見ています。
※2:授業研究会では、学習者の立場から授業をとらえることが重要です。
※3:授業者側は「子どもはこう動くだろうなぁ」「じゃあ、ここにこんなものを用意しておこうかなぁ」となります。

研究授業の参観のコツ(2)

 前回の続きです。授業参観で子どもを見たとして、そこからどう指導の改善につなげるかという話です。結論からいえば「その子から、教育の資源をたどれば分かる」です。一つの事例を見ながら考えてみましょう。

 ある鑑賞の授業でした。教室前面には大きな絵が掲示してあります(上図参照)。子どもたちは四人グループをつくっています。私が見ていたのはA子です。例によって教室入口からすぐに見える子でした。授業は六つの質問をもとに作品を鑑賞するもので、先生は最初の三つの質問を全体で軽く検討した後「今度はグループで話し合おう」と指示し、ワークシートを一人一人に配布しました。そして、子どもたちは一斉にワークシートに書き始めました。話し合いは起こりません。私の見ているA子は、鉛筆を持ったままじっとしていました。時折、隣の子どもを覗くだけです。あれ?先生の指示は「グループで話し合う」でしたよね。なぜグループで話し合わず、A子は一人ぼっちなのでしょう(※1)。

 まず、ワークシートは、基本的に子ども同士の関係性を切り離す特性を持っています。算数や国語でもそうですが、それまでどんなに快活に話し合っていても、プリントを配ったとたん、子どもは一人で学習を始めます。「グループで話し合いなさい」と「一人一人にワークシートを配布する」を同時に指示することは矛盾しています。子どもたちが話し合おうとしなかったのは当然なのです。次に、ワークシートを見てみましょう。ワークシートには六つの質問がすべて掲載されています。さらに、教室前面に掲示してある作品がフルカラーで精緻に印刷されています。質問と、その質問に答えるための資源がすべて盛り込まれているというわけです。ワークシートだけで学習が完結するのであれば、誰も顔を上げなかったことが納得できます。A子だけがワークシートに書くことが思いつかず孤立したのでしょう。

 さて、どうすればよかったのでしょうか。まずワークシートの絵を取り去ることが考えられます。そもそも教室前面に大きな図版が掲示してあるのですから、それを見ればすむことです。また、話し合いによって鑑賞を高めるのであれば、ワークシートの必要性も疑問です(※2)。一つ一つの質問がカードになった六枚の束が、それぞれグループに一つあればよいと思います。教室前面の絵、グループ、質問カード、この配置であれば、次のような学習が行われていたでしょう。

 「では、次に四番目の質問にいきます。この絵は何を表しているでしょう」
 「ぼくは海だと思うんだけど…」
 「どうして?」
 「(指さしながら)絵のあそこが波みたいだから」
 「あ~、なるほど」

 誰かが司会をし、誰かが書記し、誰かが絵を指さすことで、みんなで同じ場所を見ながら話し合いが展開できたと思います。話し合いという「言語活動の充実」を通して思考・判断が活性化し、結果的に一人で行う以上の作品鑑賞ができたでしょう。そのような場でも、A子は一人ぼっちだったでしょうか? おそらく静かだったとしても、まわりの意見を聞きながら、いっしょに考えたことでしょう。もしかして一回くらい自分の意見を発言したかもしれません。そうです。A子を「一人」にしていたのは、A子自身の属性というよりも、ワークシートや教室環境を含めた学習のデザインだったのです。

 子どもはまわりの資源との関係で「その子」として成立しています。網の目のように広がる資源と状況の中で、子どもは「子ども」になります。材料や用具、指導案や題材、教室や学級、学校制度、子ども教育の対象として見る社会や文化などが「その子」を「そのような子」にしているのです。そこで、資源を見つけ、そのつながりや組み合わせを探る。そこから指導の改善を考える。目の前の子どもという具体的な根拠をもって語る。それが授業研究会です(※3)。そんなことを130年も続けている国は日本だけです。そして、その伝統に大きく貢献してきたのが、普段から子どもや作品などを根拠にしながら、具体的に授業を考えてきた図画工作や美術だろうと思っています。

 

※1:ここで大切なことは「子どものせいにしない」ということだ。ここで「A子は勉強が苦手」「グループの仲が悪い」などのように、原因を「子どもに帰す」のは簡単である。でもその途端、指導の改善は不問になる。指導がうまくいかないのを、毎度、子どものせいにされたら、子どもはたまったものではない。一方、「子どもってすごい」と何もかもその子の能力のように語るのも同じことである。子どもは真空状態に存在しているわけではない。問うべきは「その子をその子たらしめている複数の資源」である。
※2:振り返りをしたければ、別の時点で、別の内容になる。授業においてこの場面は思考・判断の場面であった。
※3:もっぱら自分の考えや経験から、話し合うのは指導案検討会である。

研究授業の参観のコツ

「影物語」工作用紙、竹ひご、パワーポイント、プロジェクターなど

 よく授業参観の方法について聞かれることがあります。多くの場合、研究授業の参観は、ゆるやかな目的にそって、参加者独自の方法で行われます。私にも自分なりに決めた方法があります(※1)。汎用性があるかどうかわかりませんが、何かの参考にはなるかもしれません。本稿で紹介してみます。

1.子どもを決める

 私は授業がはじまったら、すぐに見る子どもを決めます。それが最初に行うことです。なぜかというと、研究授業は子どもの具体的な事実から指導の改善を図る実践だからです。先生の指導は子どもにおいて実現してこそ意味があります。その妥当性は子どもの発言や動きなどから分かるはずです。「指導の妥当性は子どもの姿から見える」と言い換えてもよいでしょう。そのために誰かを決めて授業を見るというわけです。

2.子どもを選ばない

 どうやって子どもを決めるかというと、たいていは最初に出会った子、目の前にいた子どもです。結果的に教室入り口付近にいる子になることが多いようです。積極的に発言する子、おとなしい子など選ぶめやすを設けることはありません。それが先入観になって子どもがうまく見えなくなるからです。偶然の出会いを決め込んでいます。選ぶとしても、せいぜい撮影しやすい角度にいる子、逆光を避ける程度でしょうか。

3.一人を見る

 子どもは一人だけにします(※2)。魅力的な活動をしている子どもを何人も拾って歩くような見方はしません。それは蒐集と同じようなもので、子どもではなく「自分の好み」を見る行為だと思っています。それに、何人も同時に見ることができるほど能力がありません。さらにいえば、自分が図画工作・美術の人なので、ついアート的に面白いことをする子に惹かれてしまいます。それを防ぐために、ほぼ無造作に一人を選び、ある意味我慢して、徹底してその子だけを見ます。でも、ずっと追われる子供からすれば、いい迷惑でしょうね……。

4.子どもから見る

 とはいえ、一人だけを見ているわけではありません。決めた子が隣の友達と話す、先生の話を聞く、材料や用具を選ぶなど、その子から広がる関係性や世界を見ているつもりです。「一人を見ない、一人から見る」といった感じでしょうか。子どもを成立させる多様な教育の資源を、その子から見ているのであって、一人の閉じた世界を覗き込むわけではないのです。また、授業はほぼ同じ条件で行われていますから、一人の道筋で起きている事実は大抵残りの子どもたちに敷衍できます。「一人から全体を見る」と言ってもよいでしょう。

5.先生は見ない

 一方、先生はほとんど見ません。そもそも、先生が何をするかは指導案に書いてあるので、それを読めばすむことです。それに子どもが先生の話を聞いていれば、それは「その子にとって大事なこと」であり、逆に聞いていなければ「先生はその子の世界に存在していない」ということでしょう。先生は子どもから成立するというわけです。でも、中には先生ばかり見ている参観者もいます。「目の前で子どもが事実を展開しているのにもったいないなぁ」と思います。

6.位置取りする

 子どもがよく見える位置を確保するのも大事です。参観者の流れに押されて教室の後ろから参観することになったら最悪です。先生と子どもの背中だけしか見えません。子どもの表情や動作が見えなくなると、具体的な子どもの事実から指導の有効性を判断することが不可能になります。子どもが何を感じ、考えているのか分からないので、子どもの育ちも不明になります。授業の是非が判断できなくなるので根拠ある意見も言えないし、指導助言もできなくなります。

7.カメラを覗かない

 授業の様子をカメラで撮影できる場合は、カメラを脇腹当たりに構えて、大まかに子どもの方向に向け、適当な間隔で録画ボタンを押したり、消したりします(※3)。ファインダーを覗いて撮ることはしません。我が子の運動会を撮影した経験のある方は分かるでしょう。何を見たかよく分からない気持ち、自分自身がカメラになったような感覚です。やはり自分の目で見ないと、子どもの身に重ねるということができません。でも、子どもを見ながら脇腹でカメラ操作なんて、まるで不信人物ですね……。

8.子どもと目があったら?

 子どもと目があったら「私は君には興味なんかないよ」という顔で知らんぷりします。見られているという意識は、子どもの造形活動に影響を与えますし、子どももじろじろ見られると気持ち悪いでしょう(※4)。ただ、どう気を付けようとも子どもは気付きます。突然こちらに話しかけてくることもあります。ニコッと笑って作品を手に「ほらっ」という感じです。私はかなり怖い顔で見ているはずなのですが不思議です。子どもは自分を見る人が共感的なのか、そうでないのか直感的に分かるのかもしれません。

9.信じる

 「一人しか見てないのに、何も分からなかったら?」とよく聞かれます。原則そんなことはありません。子どもは必ず何かやってくれます(※5)。授業中はただひたすら「この子はやってくれる」と信じて見ています(※6)。もちろん、授業中には分からないままで終わってしまうこともあります。でも、後から撮影データを見直せば何か見つかるので、それほど心配していません。実際、撮影データを控え室で見ながら一人でニヤニヤしていることも多いようです。うーん、ほとんど怪しい人ですね……。

10.頭を空にする

 子どもに身を投じるためにできるだけ自分の頭を空っぽにします。これをしないと失敗します。あるとき「技能」に視点を決めたのですが、結果的に何も分かりませんでした。「技能」が色眼鏡になって「見ることそのもの」を阻害したのでしょう(※7)。また、授業が始まったらできるだけ指導案の内容を忘れるようにします(※8)。子どもは指導案を知って動いているわけではありません。教師の提示に驚き、出された課題に悩みます。それに共鳴するためです。先生の指導の理由が分からず指導案で確かめることもありますが、指導案をもとに授業を追っていくことはしないのです。時々わざと控え室に忘れることもあります。バインダーやペンまで用意してもらっていますが……。校長先生、すみません。

 結局、私が辿り着いた参観のコツは、偶然に任せて子どもを選び、子どもが何を感じ考えたか共感しながら、その子から教育の資源を分析するというものです。結果的に自分の思い込みに気付かされたり、教育の当たり前が問い直されたりするので、この方法を気に入っています。「自分から見ると自分以上にはなれないけれども、子どもから学べば少しは進歩するかもしれない」そんな意味もあります。私のこれまでの原稿も、そうやって見つけてきたことがもとになっています。もし、よかったらこの方法を使って見てください。
 なお、私の見た子どもが「なぜあの子だったのか」と驚かれる場合が多くあることを付け加えておきます。「普段と別人のように熱中していた」とか「高熱をおして授業に出てきた」などのようなことです。確かに、教室に入ったときに目の前に二、三人います。私が選んだ一人でなくてもよかったはずです。でも、なぜか「その子」だったのです。こればかりは説明がつきません。「子どもが呼んだのでしょう」と言っています。論理的ではありませんが、子どもが見えないオーラを発しているのかもしれません。それもまた子どもの能力だと思っています。

 

※1:研究としては、例えば奥村高明「造形活動における相互行為分析の視座~授業研究・指導法改善の方法論(1)~」『日本美術教育研究論集42』日本教育連合2009、奥村高明「造形活動における相互行為分析の視座(2)~相互行為分析の手がかりとしての視線~」『日本美術教育研究論集43』日本教育連合2010などで発表している。
※2:ただし、授業分析と授業参観は別だ。授業分析では教師カメラ、子どもカメラ、全体カメラの三台を用意する。
※3:周りとの関係性を見るので撮影するのはその子とその周りがある程度写っている範囲。
※4:授業研究ということ自体、子どもの学習の資源だ。普段より意欲的になったり、萎縮したりする。授業後に子どもたちが「先生!今日のあたしたちどうだった」と言うことも多い。
※5:もし見つからなければ、それは子どものせいではなく参観者の責任だと思っている。
※6:研究大会などでは、一つの教室に5分しかいないこともある。これまでの経験からは、たとえ短時間でも子どもは何かをやってくれた。
※7:技能は単独では存在しない。発想や構想、意欲や感触などと絡んで成立する。その関連が見えなくなって、技能そのものも見えなくなったのだろう。
※8:もちろん事前に指導案を読み、研究の方向をつかむことは必要だ。

教育の生態系と資源

 教育は人間に何か詰め込めば出来上がりという単純なものではありません。生態系のように様々な資源がつながりあってはじめて成立します(※1)。本稿では教育の資源の幾つかを取り上げて日々の実践について見直してみましょう。

1.先生という資源

 教育は人なりと言われるように、最も重要な教育の資源は先生でしょう。その先生の大切な役割は授業です。そして先生はよりよい授業をするために、常に学び続けています。そのための場は豊富で、校内の研究会、行政的な研修、教育団体の研究大会、大学の研究会、学会など様々です(※2)。中でも授業研究会という仕組みは日本独特のものです。実際に授業を実施して、目の前の子供の姿から改善を図るやり方を明治以来百年以上も続けています(※3)。そんな国はどこにもありません。
 私たちの日々の授業はその蓄積の上にあります。この環境に身を置く限り、授業を進めるテクニックや実践力は半ば自動的に高まっていきます。全米最優秀教員の実践発表を聞いたことがありますが、その内容のほとんどは日本の先生が日々やっていることでした。フィンランド詣が相当流行っていた時も、帰国してきた同僚の言葉は皆同じ「日本の方が授業はうまい」でした。日本の先生は指導力があります。だからこそ日本の8割の保護者が学校を信頼しているのでしょう(※4)。そしてそれは様々な研修の場や組織などによって支えられているのです。

2.教材という資源

材料:サランラップ、新聞紙、お花紙、水性ニス、その他

材料:サランラップ、新聞紙、お花紙、水性ニス、その他

 一人の先生が黒板の前に立って授業を始めました。彼女は、様々な知識や指導技術を駆使して授業を進めています。でも、その有能さは、彼女の知恵や経験だけで成立するものではありません。滑らかな黒板、書きやすいチョーク、安全な絵の具、質のよい画用紙など、すでに用意された様々な道具や材料が、彼女を支えています。おそらく、どれか一つ欠けても彼女は自分の能力を十分に発揮することはできないでしょう。
 私たちは授業内容に応じて様々な教材・教具を適宜選んで用いることができる環境にあります。その多くは民間と先生達の連携によって生まれてきました。例えば、木版プレス機は先生と教材会社が苦労して作り出したものです(※5)。教材開発コンクールを実施し、入賞作を教材化している会社があります(※6)。時代の変化に応じてペットボトルに描けるクレヨンも開発されています(※7)。美術館限定だったアートカードも購入できるようになりました(※8)。挙げるときりがありません。今も教育現場の声を拾って新しい教材が生み出されていることでしょう。先生の有能さはこのような教材や教具によって支えられているのです。

3.教科書という資源

 教材の中でも教科書は別格です。全国民の願いを反映して、国は毎年400億の予算を組み、子供達に教科書を無償で届けています(※9)。子供達は配られたピカピカの教科書を大事に開きます。書き込んだり、ラインを引いたり、一年も立つとボロボロになります。
 世界に目を向けると日本のような国はほとんどなく、多くの場合、学校保管や貸出で、当然書き込みは禁止です。内容はテンコ盛りで、日本の教科書みたいに内容が精選され、題材や単元という学習活動のまとまりごとに配列さている感じはありません(※10)。日本の教科書の指導書には詳細な指導案や単元計画、年間指導計画などもついています。それらは全国の優れた先生の実践を反映したものです。しかも4年ごとに更新されます。先生の手元には常に最先端の教材があるということになります。先生は、これらを活用することで、よりよい授業への近道を通ることができるでしょう(※11)。日本の「教科書」はある意味日本のつくりだした文化と言えます。これもまた、かけがえのない教育の資源の一つです。

 先生、教材、教科書、それぞれに多くの人やモノ、コトがつながっています。その結節点に私たちは立っています。図画工作や美術の授業を始める前に、それが広大な地平の歴史のある生態系から生まれていることを実感してみてはいかがでしょうか。

 

※1:生態系という用語を使うのは、人やモノ、コトなどを等しく資源ととらえ、そこにつながりを見つけ、何を保全したらよいか明らかにしようとする概念だから。
※2:例えば美術教育では大正時代の教育運動、戦後の様々な教育団体による研究会などが実践や改善を行ってきた。
※3:千々布敏弥「日本の教師再生戦略」教育出版(2005)
※4:文部科学省の調査、ベネッセ・朝日新聞共同調査などより
※5:当時図画工作の先生だった吹田文明と新日本造形株式会社
※6:(株)内田洋行「発明考案品懸賞募集・アイデア募集」
※7:ぺんてる(株)など
※8:(株)美術出版サービスセンター
※9:「義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律」(昭和37年法律第60号)の提案理由には、教科書の無償化が、国民全体の願いであることを踏まえた上で「わが国の教育史上、画期的なものであって、まさに後世に誇り得る教育施策の一つ」だと述べられている。
※10:例えばアメリカは自由発行制度で、市場の大きな地域の方針で作成される。州のガイドラインに漏れないように内容を増やす傾向がある。貸与なので5-7年の使用に耐える頑丈さも必要になる。国立教育政策研究所「各国の教科書制度と教育事情」『第3期科学技術基本計画のフォローアップ「理数教育部分」に係る調査研究 [理数教科書に関する国際比較調査結果報告]』(2009)
※11:ところがそれをしないまま「指導方法が分からない」「○○式がいい」と言う先生がいる。まずは教科書を十分に研究し、教科書の通りにやってみてはどうだろうか。実践の宝庫である教科書はなかなか奥が深いはずだ。

失敗の連続

 「失敗ばかりしています」という話をすると、決まって「ご謙遜でしょう」と言われます。いや、事実そうなのです。学生達には申し訳ないのですが、今でも授業がうまくいくのは年に二、三回です。でも、「それでいい」と思っています。なぜ? それが今回の話です。

1.三割成功

 本連載Vol.06で書いた二十代の頃、自分の出身小学校の同窓会が行われました。恩師もたくさん来ていたので「生徒とうまくいっていません」と相談しました。恩師は「子供が全員付いて来てくれるって思ってない? 三割で成功だよ。五割も慕ってくれれば大成功だ。」と答えました(※1)。「三割で成功」という考え方に驚きました。でも、少し考えれば世の中はそんなものです。全員同じ方向を向くはずがありません。相手は人間、そもそも生き方も違うし、相性もあります。「そうか、三割でいいんだ」そう思いました。それから「何が何でも」という無理をしなくなりました。そっぽを向いている子にも笑顔で接することができるようになりました。心にゆとりが生まれたのかもしれません。

2.二割の法則

 平成6年頃から何らかのメーリング・リストに参加しています。50人だったり、400人だったりですが、発言する人はその二割だなと感じています。残りは聞きっぱなしの、いわゆるサイレント・マジョリティです。でも、その八割がいなければ、二割は発言しないだろうと思っています。全員勤勉そうに見える働き蟻も、実際に働いているのは二割だそうです。働いている二割を集めると、やはりその八割は働かないとか。この「二割が推進する、八割が傍観している」を勝手に「二割の法則」と呼んで、会議や組織などいろいろな観点に応用しています。
 言いたいのは、それが普通の姿だということです。二割が発言すれば十分、三割発言したら成功です、五割も発言したら大変なことになるかもしれません。残りの人々も、発言者からしっかり学んでいます。日々の授業をそうとらえてみてはどうでしょうか。

3.子供達は別なところで学んでいる

 若い頃、ベテランの先生がうらやましくてしょうがありませんでした。保護者の信頼はある。授業はうまい。子供達も落ち着いている。「明日、目が覚めたらいきなり20歳くらい年をとってないかな」とも思いました。でも、ベテランと言われる年になると、そうでもないことがわかりました。子供達と微妙な距離が生まれるのです。確かに授業はうまくなっています。保護者とのやり取りも慌てません。しかし、若い頃の自分にかなわない感じがするのです。周りをみると若い先生達がまさにそうです。授業は下手で、学級経営はうまくいかず、悩んでいます。でもそれを克服しようと必死にがんばっています。その一点で、子供達とつながっています(※2)。一年後には、しっかり成果も出しています。きっと子供達は、教育的な技術や、表面的な成功とは別なところで学んでいるのだろうと考えています。

 私たちは多数決とか世論調査などで「大勢同じじゃないといけない」と思い込んでいます。でも、二割で十分、三割成功、五割は大成功です(※3)。子供達には申し訳ないけど、毎日うまくいくわけではありません。もちろん、手を抜けばすぐしっぺ返しをうけます。一生懸命に、情熱を忘れずに、ああでもない、こうでもないと努力します。たまに成功すると、それが何より嬉しい、だからそれを目指して頑張ります(※4)。それが、先生という仕事のような気がします。図画工作や美術の授業も、そんなところから考えてみませんか。

 

※1:研修会や発表会では、うまく解決する方法しか語ってくれない。
※2:今でも連絡をくれるのは若い頃受け持った子供達だ。子供達は情熱を食べてくれる生き物なのかもしれない。
※3:平均や統計、到達度などとは別な話である。算数のテストが全員2割では困る。
※4:私は慣れが生まれると情熱をなくす方なので、常に新しい方法に取り組むようにしている。もちろん逆にコツコツと同じことを続けながら改善していくタイプもあるだろう。

よくある質問~「製作」と「制作」

 「小学校図画工作はなぜ『制作』ではないのですか?」。よくある質問です(※1)。本稿ではなぜ小学校図画工作が「製作」で、中学校美術では「制作」が用いられているのか検討してみましょう。

視点1.言葉の性質

 言葉は本来「何かがあって、それを名付けた」というよりも、「言葉によって何かの概念が生まれる」という性質を持ちます。有名なのが「狸」です。犬の仲間ですが、日本人の誰もが犬とは思っていません。月を見れば腹鼓を打ち、変身して人を化かすような存在としてとらえています。「狸」は言葉によって犬から切り離され、生物の系統性や狸自身の意向にかまわず、文化的につくりだされた特別な動物なのです。
 また、言葉の解釈は時代や社会状況で変わります。最近の「子ども」と「子供」がそうでしょう(※2)。「お供やお供えものなど従属的な意味だから使うべきでない」という説もありますが、一方で以前から「『子供』を差別的な表現だというのはおかしい」「『供』は複数形だ」という人がいました。「言葉を変な思想性で変えてはいけない。言葉は人間の思想より大きなものだ」という指摘もあります(※3)。これから「子供」が増えるとすれば、それはそれで社会的な変化を表すことになるでしょう。
 言葉は生き物です。絶対的な正解があるというよりも、それを用いることによって、その社会や文化に何らかの概念を生み出したり、状況を変えたりする性質を持っています(※4) 。

視点2.辞書的な解釈(※5)

 辞書的には「製作」と「制作」の何が違うのでしょう。
 「製」は製図、製造、製鉄、製品、複製、木製など「こしらえる」「つくる」という意味を持っています。それに「作」を加えたのが「製作」です。「家具を製作する」「記録映画を製作する」「作品を製作する」など広く「つくる」という意味で用いられています。
 一方、「制」は基本的には制定、制度、法制など「整える」という意味があります。規制・制圧・自制などのように「おさえつける」「コントロールする」というニュアンスもあります。それに「作」を加えたのが「制作」です。そこには「自分の思うとおりに作り上げる」という意味が含まれます。「肖像画を制作する」「政令を制作する」「番組を制作する」など、かなり明確な意思があって作る場合に用いられます。美術や芸術の世界で「制作」が使われるのも、そこからでしょう。ただ、「映画製作」「制作スタッフ」のように様々な分野で慣習的な用い方がされており、「製作=実用」、「制作=芸術」といえるほど厳密な規定はできません。
 このようなことから、おおむね「製作」は幅広く、「制作」は芸術的な場面で用いられるということができるでしょう。

視点3.学習指導要領の歴史

 学習指導要領では、どのように「製作」と「制作」が使われてきたのでしょうか。
 第二次世界大戦後、それまでの「図画」と「工作」は合体し新しい教科「図画工作」が生まれます。小学校も、中学校も、高等学校もすべて「図画工作」です。学習指導要領では「製作」が用いられます。
 ところが、昭和33年の改訂で、中学校と高等学校は「美術」と「技術」に分かれます。小学校は「図画工作」のままですから、当然「製作」を用い続けます。そもそも変更する理由が生じていないのです。「制作」にするとなれば「工作も制作か」「砂遊びや、新聞紙で遊ぶ姿を芸術と呼ぶか」「明確な意図や自我が小学生で成立するか」など様々な問題が生まれたことでしょう。
 では、中高美術は「美術」になったから、すぐ「制作」に変わったのでしょうか。いいえ、昭和の間はずっと「製作」でした。「制作」を使い始めるようになったのは平成元年改訂からです。当時は時数減もあって「美術科とは何か」「教育課程に必要か」などの問いに答える必要がありました。そこに「制作」への変更を検討する理由が生まれたのでしょう。指導要領作成の協力者会議では「美術は芸術だから『制作』がふさわしい」「いや、意味が限定されるので『製作』のままでよい」などの議論が行われたようです(※6)。そして結果的に小学校図画工作は「製作」、中学校美術は「制作」という状況が生まれ、それが現在まで続くことになります。

 まとめてみましょう。「製作」は広い意味の「つくる」を示しています。造形遊びや工作など小学生の幅広い造形活動に適用するのは適切でしょう。一方「制作」には明確な目的意識や主題、芸術的な意味などが含まれます。芸術文化を理解し、自我も確立する中学生にはふさわしい用語だと思います。また、教科の歴史という観点から、小学校図画工作が一貫して「製作」で、中学校美術が途中で「制作」に変更になったことも十分理解できます。総合的に勘案すれば、どちらも社会状況を踏まえた妥当な結果だと思います。
 ただ、言葉の性質からすれば、小学校図画工作が「製作」、中学校美術が「制作」と言えるのも現行制度上の話です。社会や文化の変容にともなって言葉は変化します。6・3・3制や教育課程が変われば、それにそった概念や言葉の変更があるかもしれません。どのような未来が待っているのか、そのときどのような言葉が用いられているのか、それもまた興味深いことの一つです。

 

※1:この質問は「小学校ではない先生」からがほとんどで、小学校の先生や保護者から発せられることは少ない。時々「小学校も『制作』であるべきだ」という意見があり、その美術的な前提や固定観念には辟易することがある。
※2:文化庁:よくある「ことば」の質問(現在ページが存在しません)
※3:横浜国立大学の有元教授の話から。
※4:大学1年生のころ、大学4年生から「製作」じゃない「制作」だとよく書き直された。単純に語句の訂正というよりも、「芸術」という概念や、先輩と後輩の関係を成立させるためだったように思う。言葉の使用はある種の権力関係も含むのだろう。
※5:文化庁編「言葉に関する問答集」や大辞泉などから。
※6:議論は52年改訂時からあった。(協力者であった京都教育大学名誉教授竹内博先生の話)