道徳科の指導 ―人間としての生き方についての考えを深める―

 二学期になっても厳しい残暑が続いていますが、皆様は如何お過ごしでしょうか。クオーター制を実施している早稲田大学は9月26日まで夏休みで、校内はひっそりしています。しかし、教職大学院だけは9月から始まる学校臨床実習のために旧盆明けから事前指導や特別講座が始まり、学生・教員共に多忙な日々を過ごしています。
 そのような中、私事ですが敬老の日に父を連れて温泉に1泊してきました。8月のお盆に会ってから一か月ぶりでしたが急に歩けなくなり、衰えに驚かされました。父も来年の4月には91歳になりますが、日に日に身体が弱ってきました。私自身も高齢者の仲間入りをして、若いときの無理(登山)がたたって膝痛に悩まされています。このように高齢化が進む日本ですが、先日、NHKで「延命治療と人生会議(ACP)」という番組がありました。老いや病気で食事ができなくなったとき、胃ろうを作り栄養物を人工的に流し入れるような延命医療を実施するかしないかを、事前に本人と家族・医師・看護師・保健福祉士などと話し合いをするという内容でした。誰にも訪れる人生の終末をどのように迎えるかを考えさせられる番組でした。私は、人生の終末とはその人がどのように生きてきたかを表すものだと考えます。「あの時ああすればよかった」「あんなことをしなければよかった」などと悔い憂いるような終末を迎えたくありません。自分の生きてきた人生ドラマを飾るように幕を下ろしたいと思います。

 さて、今回は新しい学習指導要領に示された道徳科の目標にある学習の在り方にあげられている「人間としての生き方についての考えを深める学習」とはどのようなことか考えていきます。人間としての生き方とはどのようなことか、そのような生き方についての考えを深める授業はどのようにすればよいかについて述べたいと思います。

1 人間としての生き方についての考えを深める

「今日は道徳科の学習の最後の視点である『人間としての生き方についての考えを深める』について考えていきましょう。『人間としての生き方』とはいったいどのような生き方なのでしょうか?」
「人間としてということだから動物のように本能で生きているのではないということかな。」
真理「どうすれば良いか悪いかを、考え判断して生きることではないでしょうか。」
道子「自分さえよければいいのかな?」
イマヌエル・カント 画像提供:PPS通信「皆さんはイマヌエル・カントというドイツ人の哲学者を知っていますか? カントは『実践理性批判』という本の結びに『ここに二つの物がある、それは――我々がその物を思念すること長くかつしばしばなるにつれて、常にいや増す新たな感嘆と畏敬の念とをもって我々の心を余すところなく充足する、すなわち私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳的法則である。』(『実践理性批判』岩波文庫による)という言葉を書いています。これは若い頃に天文学をめざしていたカントが星を眺め心ときめかしていたこと。そして、常に規則正しく道徳的な生活を送っていたことを表しています。毎日、決まった時間に散歩するカントを見ていれば、周りの人は時計がいらないというエピソードまであります。人間は他の動物と同じ生き物で、自然の法則のもとに生きていますが、同時に社会の中で道徳や倫理、社会の規範などに基づいて生きています。カントが言う道徳法則とは、人間としてそうあるべき普遍の原理に基づいた法則です。つまり、困っている人がいたら人間として助けるのが当然、人間としての義務として行動することが道徳的だという考え方です。」
「台風で屋根を壊された老人をだましてお金を巻き上げる人がニュースになっていましたが、このような人は人間として最低、不道徳な人ということですね! カントの考えに同感です。」
道子「改訂前の学習指導要領では『道徳的価値及びそれに基づいた人間としての生き方についての自覚を深め』とありましたが、今回『自覚』という言葉が『考え』という言葉になりました。どうして変えたのですか?」
「大切なところに気づきましたね! 今回の改訂ではこれまで道徳の時間の指導で大切にしていた『道徳的価値及び生き方の自覚を深める』が『生き方の考えを深める』になりました。その理由は中学生という時期、発達の段階にあると思います。中学生は義務教育の最後であり、卒業後は進学するか、就職するかを考えなければなりません。また、キャリア教育として実施されている職場体験活動やいろいろな進路指導などを通して自分の将来・人生についても具体的に考え始めます。このように、中学生の時期は人生について考え、どのように生きればよいか、人間としての生き方を主体的に模索し始める時期です。『中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 特別の教科 道徳編』では『人間としての生き方についての自覚は、人間とは何かということについての探究とともに深められるものである。……(中略)人間についての深い理解と、これを鏡として行為の主体としての自己を深く見つめることを接点に、生き方についての深い自覚が生まれていく』とあります。これは考えることにより自覚が深まるということです。このためには、人間の本質についての理解を深め、よりよい生き方とはどのような生き方か考える授業を行うことが大切になります。」
真理「『道徳的価値の自覚』はどうなりますか?」
「新しい学習指導要領の『道徳的諸価値についての理解を基に』と、かかわっていると考えればよいのでは……。」
「道徳的価値をどのくらい理解しているかは問題です。生命が大切であることは小学校1年生でも知っていますが、トンボの翅を取って遊んでいる子どもを見かけます。道徳的価値を観念的な知識として捉えるのではなく、自らのかかわりを通して理解し、人間としてどうあるべきか考えさせることが重要です。」

2 人間としての生き方についての考えを深める学習①

「それでは『人間としての生き方についての考えを深める学習』とはどのような学習か実際に考えていきましょう。初めに『道徳的価値の自覚』を深める指導の在り方について考えて見ましょう。皆さんは『オーストリアのマス川』という教材を知っていますか?」
平成31年度版中学校道徳科教科書
「中学道徳 あすを生きる 2」 P134-135
「日本文教出版の教科書『中学道徳 あすを生きる 2年』にあります。オーストリアで釣りをしていた日本人がせっかく釣った魚を解禁日1日前のためにリリース(放流)するという話で、主題名は『法やきまりの意義』です。」
「そうですね。響君ならばどうしますか?」
「誰も見ていなければ、こっそり持ち帰ってしまうかな……。」
「響君は正直ですね! 人間には、赤信号はみんなで渡れば怖くないとか、誰もいなければ渡るというような弱さや醜さが誰にもあります。この教材の主人公も釣ったときは分からないように持って帰るとか、監視人が見ていなければいいかという考えが心によぎったと思います。授業では自分も含め人間には誰しもそのような思いを持つことに気づかせ、人間の本質についての理解を深めることがとても大切です。さらに主人公のように自らの判断できまりを守るようなことができることを通して、人間には弱さや醜さを乗り越えることができる素晴らしさ・尊さがあることに気づかせます。そして、自分もそのように道徳的価値に基づいた行為ができるようになりたいという実践意欲や態度を育てることが重要です。」
真理「中学生がいつも道徳的価値に基づいた行動ができるかな?」
「そうですね。しかし、中学生の頃は他者からどう思われているかとても気になる時期です。監視人の『ブラボー、ヘル ヤパーナ!(日本のお客さん、素晴らしい!)日本の釣り人に敬意を表しますよ!』という言葉から、監視人は『どんなところに敬意を表したのか』と別の視点から聞いてみたらどうでしょうか。さらに、『皆さんにも道徳的価値に基づいて行動したことはないでしょうか』と聞いてみてらどうでしょうか。」
真理「なるほど。規則を守った経験は誰にもあると思います。他者から認められたり、褒められたりすることは、中学生はもとより誰でもうれしいことですね!」

3 人間としての生き方についての考えを深める学習②

「今日はもう一つ別な教材で人間としての生き方についての考えを深める学習の在り方について検討してみましょう。教科書『中学道徳 あすを生きる 1年』にある『いつわりのバイオリン』という教材を読みましたか?」
平成31年度版中学校道徳科教科書
「中学道徳 あすを生きる 1」 P188-189
真理「はい、読みました。バイオリン工房のフランクが弟子のロビンの作ったバイオリンに自分が作製したというラベルを張って演奏者に売り、名声を得ることになる。しかし、弟子が作製したバイオリンを自分が作製したものにしたという行為に対する良心の呵責で元気をなくしていたフランクのもとにロビンから手紙が届くという内容です。人間として恥ずかしい行いをしたことを反省し、正しい生き方をしようとするフランクを通して、主題名『人間として生きる喜び』について考えさせる教材です。」
「そうですね。この教材の主人公は、『オーストリアのマス川』のきまりを守った主人公とは違い、ロビンのバイオリンを盗み取り、演奏者をはじめ多くの人々をだますという道徳的価値に反する行為をします。授業ではロビンのバイオリンに自分のラベルを貼る時のフランクの気持ちをしっかりと押さえて、人間には弱さや醜さがあることに気づかせることが大切です。そして、そのような場面を乗り越える人間としての生き方、つまり道徳的価値に基づいた生き方の大切さを考えさせることが一般的な指導展開です。」
「展開の最後にロビンへの手紙の内容を考えさせたり、実際に手紙を書かせたりすることをよく行います。しかし、ロビンへの謝罪がほとんどで、ねらいとする『人間としての生き方についての考え』について書いてくれる生徒が少ないです。どうすればよいでしょうか?」
「ただロビンに手紙を書きなさいと指示しても、何もかかわりのないロビンへ心のこもった手紙を書くことは難しいでしょう。指導者が、ロビンに対しての思いとフランク自身への思いについて書くように一言アドバイスしてあげることが必要です。」
道子「他の指導展開はありますか?」
「バイオリンにいつわりのラベルを貼るかわりに、もし『私には作ることができなかったが、弟子のロビンが素晴らしいバイオリンを作製しました』と本当のことを演奏者に伝えて購入を進めていたらフランクはどうなっていたか考えさせてみたらどうでしょうか。」
「諺『後悔先に立たず』ですね! 後悔するようなことをはじめから行わないで、真実を正直に話していたら演奏者や多くの人々から信頼されて、ロビンはもとよりフランクの工房自体の評判が上がる。」
真理「ロビンに刺激されて、フランク自身もさらによいバイオリンの作製に取り組む。」
道子「哲学者カントが述べている『我が内なる道徳法則』に基づいた人間としての生き方の素晴らしさに気づくことになりますね。」

 4回連続して、道徳科の目標にある道徳性を育成する学習の在り方について取り上げてきましたが、如何でしたか。紹介した学習の方法は一例であり、今後さらに実践的な研究を進めて、新しい学習指導要領が求めている『主体的・対話的で深い学び』である学習を開発していかなければならないと思います。

鉄道と美術教育 その2

 前回、新幹線の「0系」を「子ども」に置き換えて、学びについて考えてみました。子どもの学びはシステムとして成立しているので、システムを構築する資源とその全体に目を向けることが学習改善に有効だろうという話でした。
 今回、もうちょっと話を進めてみましょう。ポイントは、システムと個人は同時に発達するということです。

1.発達するシステム

 新幹線に歴史という軸をあててみましょう。
 戦前、「弾丸列車」という新幹線計画がありました。時速150km~200kmの高速列車(※1)で、東京~下関間をつなぐのです。東京~大阪間を4時間半で走る予定でした。トンネル建設や用地買収などが進みましたが、戦局の悪化で計画は挫折します。
 戦後、東海道線の輸送量は著しく増大し、新幹線の計画が再び持ち上がります。1964年に開業した新幹線は、東京~新大阪を3時間10 分(※2)、最高速度220km/hで結ぶことに成功します。戦前の「弾丸列車計画」で買収されていた横浜~小田原間の土地や日本坂トンネル、線路の設計や駅の位置なども活用されました。
 現在、新幹線は九州から北海道までつながっています。最高速度は東北新幹線の宇都宮~盛岡間320km/h、東京~新大阪の所要時間は2時間30分です。今建設中の「リニア中央新幹線」にいたっては、最高速度500km/h、東京~大阪間を最短1時間7分程度で移動できるようになるそうです。
 歴史という視点を重ねると、新幹線は常に変化するシステムであることが分かります。車両の速度だけとっても時速200km、320km、500kmと更新を続けています。同時に、線路や運行のプログラム、チケット購入方法なども、時代とともに新しい形へと生まれ変わっています。鉄道というシステムは常に発達し続けているのです。

2.個人とシステム

 個人の能力と鉄道のシステムを関連付けてみましょう。
 例えば、私の孫は、ドアの閉まる音で電車の新型と旧型を見分けます。最も使う東急電鉄の新型車両は「ドアが開く音が違う」というのです。よく聞くと、確かに、ドア開閉時のチャイム音が新型と旧型で異なっていました。
 調べてみると、東急の新型のチャイム音はJR山手線と同じでした。東急とJR山手線の新型車両は、形は全く違うのに、中身はほとんど同じ電車だったのです(※3)。背景には、東急の車両をつくっていた会社が事業を継続するためにJR東日本の子会社になったことがあります。部品等の共通化のため、チャイム音が同じということが起きていたのです。
 すると、孫の「電車を音の違いで見分ける能力」と「それを見つける大人の姿」は、鉄道事業の変化によって成立したといえるかもしれません。
 列車の絵で知られる作家の本岡さんの場合はどうでしょうか(※4)。彼は列車の正面顔だけを追求して表現します。列車は、正面から表すと鼻の長さなどがつかめません。そのため、ただ似たような列車を並べているだけのように見えます。

「電車」本岡秀則(協力:社会福祉法人 愛成会)
「電車(部分)」(日本文教出版 2020年度版教科書『図画工作 1・2上』p.6)
「電車(部分)」

 ところが、一つ一つ見ていくと色、マーク、前照灯などが微妙に異なっていることに気づきます。電車とディーゼル車の違いも判別できます。「これはキハ283」「新幹線E2系」「485系のレッドエクスプレス」と、北海道から九州まで様々な電車が描き分けられているのです。列車の顔だけを広範囲に撮影した資料はないので、これを描くために相当な知識と経験が必要だったことが分かります(※5)。鉄道好きにはたまりません。
 昔は日本全国、似たような列車が通っていましたが、今、鉄道車両の色や形は実に多様です。それが本岡さんの能力を引き出すとともに、本岡さんの作品を楽しむ人々も生み出したのではないでしょうか。

3.個人とシステムは同時に発達する

 車両や線路など様々な資源が絡み合った鉄道というシステムは今も発達を続けています。それに並走するかのように、孫の能力が成立し、本岡さんの作品が生まれています。
 教育関係者は、よく単独で子どもの発達や成長を述べるのですが、発達や成長という現象は、子どもだけに起こるわけではありません。教育や社会のシステムも発達し、そこに関わる人々も常に更新されています。
 その証拠の一つは、「学びと美術」で紹介している児童画です。技術の発達や環境意識の拡張などを通して、子どもたちの絵は確実に変化しています(※6)
 もう一つは、ほかならぬ私自身です。まったく鉄道に興味のなかった私が、孫の発達や本間さんの作品について分かるようになったのです。「還暦すぎても、まだ成長できるかも?」そう思わせる鉄道のお話でした(いや、Nゲージ購入の言い訳でしょう、、、)。

※1:電車と蒸気機関車の併用。写真は昭和初期に南満州鉄道が開発したパシナ型蒸気機関車。最高速度120km/hで営業運転しました。もし、開通したら、このような列車が走っていたでしょう。
※2:当初は4時間でしたが、路盤が固まった1年後に3時間10分となります。
※3:週刊ダイヤモンド編集部『JR東傘下入りの旧東急車輛製造、1両1000万円のコスト減に成功した秘策』2018.10 https://diamond.jp/articles/-/181543
※4:Art Brut from Japan ヨーロッパ巡回展とは『本岡秀則(もっと伝えたい、アール・ブリュット。)【ポスター連動企画】』 http://www.artbrut.jp/news/2014/01/000042.html
※5:最近、電車の正面顔だけを集めた図鑑がベストセラーになっています。江口 明男『電車の顔図鑑 JR線を走る鉄道車両 旅鉄BOOKS』天夢人2017
※6:ドローンで撮影したような絵『学び!と美術 <Vol.72>』、幼児が遠足の体験を3Dで表した絵『学び!と美術 <Vol.76>』、生態的な意識の広がりを示す絵『学び!と美術 <Vol.77>』

道徳科の指導 ―多面的・多角的に考える―

 長雨が続いた今年の梅雨も学校が夏休みになるとともにやっと終わり、暑い夏がやってきました。皆様は如何お過ごしでしょうか。夏休みになりホッとされている方もおられるのではないかと思います。
 最近、海外の大学への留学や海外からの留学生を受け入れるために1年を春・夏・秋・冬の4つに区切ったクオーター制を取り入れ、9月卒業・入学ができるようにしている大学が増えてきています。早稲田大学ではこの制度を率先して導入したので、夏クオーターが8月の第1週まであり、小学生・中学生・高校生が夏休みである7月も授業を行っています。このためか留学生の在学数が日本一であり、外国籍の教員も増えています。私が所属する教育学研究科高度教職実践専攻(教職大学院)では2年前から中国籍の方が国語教育を担当して、国語の先生を目指している学生の指導を行っています。これからの日本はますますグローバル化が進み、多くの外国の人々とコミュニケーションを取り、互いに尊重し、協働して生活する社会になっていくのではないかと思います。

 さて、今回も前回に引き続き道徳科の授業の在り方について考えていきます。「物事を広い視野から多面的・多角的に考える学習」とはどのようなことか、特に、道徳科における『多面的・多角的』とはどのようなことを言うのかについて述べたいと思います。

1 「多面的・多角的に考える学習」とは

「今日は道徳科の学習の視点である『物事を広い視野から多面的・多角的に考え』について考えていきましょう。ここでのポイントは『多面的・多角的に考える』ということがどのようなことを提言しているかです。先日、夏に実施される教員採用選考試験で行われる集団討論の練習を行いました。討論は『授業中、寝ている生徒がいたらどうするか』というテーマで行いました。みんなはどんな意見を述べますか?」
真理「まず机間指導して起こします。」
「生徒が寝るということは授業が面白くないからだと思います。楽しい授業、わかり易い授業を行います。」
真理「興味や関心を高める授業も大切だと思う。」
「練習の時も響君・真理さんと同じく、教科指導の在り方について討論しましたが、10分もすると話題がつき、話し合いが続かなくなりました。練習だったのでよかったですが、本番の試験だったら困ります。どうすればこのような事態を打開することができますか?」
道子「教科指導ばかりではなく、生徒の学校生活や家庭での生活について考えてみるとよいと思います。」
「なるほど、部活動で朝練習をして疲れていたとか、夜遅くまでゲームをしていて寝不足だとかいろいろな事例が考えられる。」
「そうですね。教科指導だけでなく生徒指導や家庭との連携など別の視点で考えることが大切です。試験ではそのようなコーディネートをすることができる人が高く評価されます。『多面的・多角的に考える』ということは、視点や場面を変えることにより別のことが見えてくる。つまり多様な視点や場面を通して物事を考えることです。」
真理「数学で学ぶ多面体や多角形の学習に似ていますね。円錐を上から見ると円、横から見ると三角形に見えるというようなことですね。」
道子「どうして多様的な見方や考え方をしなければならないのですか?」
「それはこれからの時代はグローバル化の進展、科学技術の発展などによって社会が大きく変化し、多様な価値観の人々が互いに相手を尊重して生きていかなければならなくなるからです。中央教育審議会答申(2014年10月)『道徳に係る教育課程の改善について』の中では『人としての生き方や社会の在り方について、多様な価値観の存在を認識しつつ、自ら感じ、考え、他者と対話し協働しながら、よりよい方向を目指す資質・能力を備えること』が求められています。このためには『多面的・多角的に考える』ことにより、道徳的諸価値に対する概念的な理解や自己中心的な見方から、多様で豊かな見方や考え方を育てることが大切とされています。」
「前回学んだメタ認知を進め、自己を見つめることにもつながりますね。」
「そうです。そして『多面的・多角的に考える』には、答申に述べられているように他者と対話することが必要になります。」

2 道徳科における「多面的・多角的に考える学習」

「次に、道徳科における『多面的・多角的に考える学習』とはどのような学習か、具体的に考えてみましょう。皆さんは『臓器提供意思表示カード』を知っていますか?」
道子「脳死後または心臓停止した死後、自分の心臓や肺などの臓器を、移植を必要としている人へ提供するかしないかを意思表示したカードです。臓器提供者のことを『ドナー』と呼び、日本文教出版の教科書の教材にもなっていますね。」

臓器提供意思表示カード

表面裏面

「運転免許証の裏面に同じ内容のものがついています!」
「そうですね。響君は提供にサインしましたか?」
「はい、偶然にも自分に与えられた命と体ですが無駄にはしたくないので、移植することにより救える人たちへ臓器を提供して役立ててもらいます。」
「立派ですね! しかし、提供するには本人以外に家族の同意が必要であることを知っていますか? 本人の意思が、家族に伝えられておらず、不明のときには、家族は判断に思い悩むことになります。」
「運転免許証には家族の記入欄が無いです。なぜ家族は反対するのですか?」
「本人の意思が家族にも伝えられているときには、家族は本人の意思を尊重しての判断がしやすくなります。一方で、本人の意思が不明なときには、脳死の場合でも脳の動きが停止していていずれはなくなりますが、しばらくは機械や薬の力を借りて心臓をはじめとする臓器は働いて、まるで寝ているような状態に見えます。この様子から提供することを拒む家族の人もいます。どうしてだと思いますか?」
道子「脳の働きが治るかもしれない、それまでは死を認めたくないと考えているからだと思います。」
「そうですね。臓器を取り出すということは愛する人の死を認めることになります。このため、家族の人は提供を拒否しますね。」
「本人は、脳は死んでいるのだからまだ生きている臓器を役立てたいと思っているが、家族は、愛する者の死を認めることができないと考えているということですね。」
「では教材にはありませんが、移植を担当する医師はどう思っているでしょうか?」
真理「家族の気持ちは十分にわかるが、脳死からは回復する見込みがないことを家族には理解してほしい。」
「そうですね。臓器提供は終末期の選択肢の一つですが、家族の思いを尊重します。本人、家族、医師と立場を変えてみることにより、生命尊重という価値には、生命の偶然性・有限性・連続性という三つの考え方があることが分かります。さらに、臓器移植には、家族愛・人間愛・社会貢献などの道徳的諸価値も関わっていることに気づかせてくれます。『多面的・多角的に考える学習』とは、このように多様な視点から総合的に考えさせることによって生徒たちの道徳性を育む学習です。」
「キャリア教育として働いている人の話を聞いたり、実際に職場体験をしたりすることが行われていますが、このような活動を通して、働くことの意義や大切さを考えることも『多面的・多角的に考える学習』と考えてもよいですか?」
「響君は、今日は冴えていますね! 道徳科の授業の中で、他教科や体験学習などの教育活動での学びを生かしていく横断的な学習も考えられますね。」

 今回は道徳科の学習の一つである「物事を広い視野から多面的・多角的に考える学習」について述べました。中学生は自分の利害だけで物事を見るのではなく、他者のこと、自分が所属する集団のことを考え行動することができます。『多面的・多角的』な視点で考える学習を通して道徳性を養ってください。次回は、「人間としての生き方についての考え方を深める学習」について述べたいと思います。ご期待ください。

道徳科の指導 ―自己を見つめる―

 5月だというのに北海道で39.5℃を記録したり、屋久島では記録的な集中豪雨が起きたりと地球温暖化の影響ではないかと思われる異常気象が発生しています。私たちは科学の発展とともに、空調システムによってコントロールされた快適な住居、地球のどこにでも簡単に行ける自動車や飛行機などの交通手段などの手に入れて豊かな生活を送っています。この流れはコンピュータや人工知能(AI)の進歩と人間の欲望によってますます進行するのではないかと思います。しかし、このまま進むと人間や地球の未来はどうなるのでしょうか? 持続可能な社会を維持することができるのでしょうか?
2001年宇宙の旅(監督:スタンリー・キューブリック) アメリカの未来学者レイ・カーツワイルは、2045年になるとコンピュータ能力が人間の知能を越えて、発明なども行うようになり、人間は進歩の予測ができなくなると述べています。高校生の時、「2001年宇宙の旅」(監督スタンリー・キューブリック)というSF映画を見て衝撃を受けたことを覚えています。とても難解で見るたびに新しい発見がある映画ですが、物語は人類の進歩のカギを握っている「モノリス」という黒い石柱を調査するために木星に向かった宇宙船での出来事が中心です。宇宙船はスーパーコンピュータ「ハル」で管理されていて、ボーマン船長ともう一人の船員以外は人工冬眠しています。しかし、突然ハルが冬眠中の船員や船外活動している船員の生命維持装置を切り、宇宙船を支配しようとします。一人残ったボーマン船長が邪心を抱いたハルの思考部分を停止させるという内容です。
 最近、自動車の自動運転やロボットの開発でAIの技術が驚くような勢いで進歩しています。一部の研究者は「心」を持ったAIの開発に取り組んでいます。心を持った人工知能やロボットは、欲望で自分をコントロールできない人類を救ってくれるのだろうか? それともハルのように邪心を抱いて人類を絶滅へと導くのだろうか? ただどちらにも共通していることは、人工知能がどのような「心」を持つか、そしてAIを開発する科学者が同様な道徳性を持っているかがそのカギを握っていると思います。

 さて、前回から道徳科の学習の在り方について考えています。今回は「自己を見つめる」とはどのようなことか、またどうしたら「自己を見つめる学習」ができるかについて述べたいと思います。

1 自己を見つめる

「今日は道徳科の学習の視点である『自己を見つめる』について考えていきましょう。『自己を見つめる』という言葉から皆さんはどんなことを想像しますか?」
「キャリア教育で行う自己理解です。自分の進路を考えるとき、自己理解が大切だと学びましたが、自分の悪い点は理解しているが自分の良い点と言われるとなかなか答えられず困りました。」
真理「響の良いところはいつも元気なところかな……。」
「それはいつも能天気ということ?」
真理「……。」
「皆さんは学部の教職課程の教育心理学で、『メタ認知』を学んでいると思いますが、覚えていますか?」
「認知を認知することだと習いましたが、言葉遊びのようでどういう意味なのかよくわからなかった。」
道子「認知とは認識や学習のことなので、自分が何を学んでいるかどのような経験しているかなどを認識することではないかと思います。」
「『メタ認知』は、ジョン・H・フラベルというアメリカの心理学者が唱えた概念です。『メタ』とは『高次の』という意味で、高次の視点から自分を認知する。これは自分で自分を客観的に見つめる、つまり『自己を見つめる』ことです。『メタ認知』は認知心理学の中では重要な分野であり、うつ病や依存症の治療として行われる認知行動療法や私たちの教育学では学習理論の自己調整学習として、さらに近年めざましい勢いで進歩しているAIの開発に応用されている認知工学や会社で行われている人材育成などにも活用されています。この『メタ認知』は、響君が上げた自己理解をはじめ、内観・内省、自己反省、自己内対話などにも関係する概念です。しかし、客観的に『自己を見つめる』ことは、実際にはなかなか難しいことです。『メタ認知』を促すためには基本的な知識やスキルが必要でありますが、教師からの支援(足場づくりや動機づけ)、目標や価値の設定、意見の異なる他者とのコミュニケーション(対話・討論)などが必要だと言われています。」

2 自己を見つめる学習

「次に『自己を見つめる学習』について具体的に考えてみましょう。皆さんは『二通の手紙』という教材を知っていますか?」
道子「動物園で退職後も臨時採用で働いていた元さんが弟の誕生日祝いとしてやってきた幼い姉弟に同情して、入園時間が過ぎていたにもかかわらず動物園に入れてあげる。しかし、いつまでたっても姉弟が戻ってこなくて大騒ぎなる話ですね!」
「そうですね。元さんはこの騒動の後、姉弟の親から子どもたちへの温かい心遣いに対する感謝の礼状を受け取ると同時に、上司からは動物園の規則を守らなかったことに対する解雇処分の通知書という二つの手紙を受け取ることになる話です。個人の感情や都合で行動すると、社会の秩序や規律を乱し、多くの人々に迷惑をかけることになるという規則についての理解や規則を守る義務について考えさせる教材です。授業では二つの手紙を受け取った時の元さんの気持ちを聞くことが多いですが、なぜ元さんの気持ちを聞くのでしょうか? 『自己を見つめる』学習ならば『あなたならば二つの手紙をもらったらどう思いますか。』と聞く方が自己を見つめることになるのではないでしょうか?」
真理「変な意見を言ってみんなから呆れ返られるのを恥ずかしがり、生徒たちがあまり発言しなくなるからだと思います。」
「先生が言いたいことを忖度して発言するか、なんだ、先生は結局『規則を守りなさい。』と言いたいんだと反発するからだと思います。」
真理「響は後者でしょ。」
「はい、今でも反抗期です!」
「さすが、中学校の教員を目指している皆さんですね! 中学生の気持ちをよく理解していますね。ドイツの教育学者で日本の道徳教育に大きな影響を与えているシュプランガーは、教育には3つの概念があると述べています。
 第1は『発達の援助』としての教育です。人間は未熟な状態で生まれてくるので、身体的な発達に対する援助と精神的な発達に対する援助の両面から教育的援助をすることが必要であるという考えです。このことはピアジェの発達心理学でも言われていますが、中学生の時期は第二次反抗期・思春期にあたります。響君が言うようにわかっていても反発したくなる時期でもあり、真理さんが言うように他者の目が気になる時期でもあります。
 第2は『文化財の伝達』としての教育です。シュプランガーが言う文化財とは、教育的価値があり、教育上効果のあるものです。そして伝達とは単に文化の内容を理解させることではなく、文化が持つ意味を理解し、その意味に即して行動し、その文化に基づき新たな文化を創造していくことを求めています。日本では多くの学校における『チャイム着席』という規則(学校文化)があります。生徒たちはその規則の意義を理解し行動することを通して、規則を守ることの大切さを習得しています。『元さんの立場だったらあなたはどうしますか。』と問われたら生徒たちは響君の考えのように一般的に正しいということを答えるでしょう。
 第3は『良心の覚醒』という教育です。シュプランガーは、良心とは、人間の心の奥にあり、善悪の判断を行い、自身の行為を正す倫理的なものであると言っています。教師は『発達の援助』や『文化財の伝達』を通して、子どもの内にある良心を『覚醒』させなければなりません。そのためには、自己吟味をしたり、自己を批判的に検討したりすることと、行為によって社会と実践的にかかわっていくことが大切であると述べています。子どもが自らの行動を見直し、良心を覚醒することができるように教師が支援することが重要となります。」
道子「子どもが自ら良心を覚醒するということは、先ほど学んだ『メタ認知』に近い考え方だと思います。」
「そうですね。それではそろそろメインテーマである『自己を見つめる学習』とは、どのようなものか考えてみましょう。」
「『あなたはどう思いますか。』と質問したら、中学生はなかなか本音を言わないから『登場人物はどう思っていますか。』と質問したらよいと思います。」
真理「しかし、登場人物の心情ばかり聞いても、国語の読み取りのようでなかなか自分のことへと考えが深まらないのでは……。」
道子「メタ認知を深めるには、意見の異なる人と対話するとよいと学びました。『元さんは二つの手紙を前にして、どのようなことを思ったのか。』について、まず各自に考えさせてからグループで意見交換や話し合いをさせればいいのではないかと思います。」
「そうですね。自己を見つめるには、個人考察させるという足場づくりをすることが有効でしょう。さらに、グループの中で他の人と対話をすることによって、自分の考えがしっかりしたり、自分にはないものに気づいたりすることもできます。また、小さいグループだとあまり他人の目も気になりませんので、自分の思っていることを自由に話すことができますね。」
「なるほど、道徳科が『考える道徳』『議論する道徳』と言われる理由が少しわかったような気がします。」

 今回は道徳科の学習を行うにあたり考えていかなければならない視点「自己を見つめる」について述べました。反抗期の真っただ中にいる中学生に冷静に自分自身を見つめさせることはとても難しいことだと思います。次回は、「物事を広い視野から『多面的・多角的に』考え」について述べたいと思います。ご期待ください。

道徳教育を支える「理論」―その2

 前号を書き下ろしてから、しばらくご無沙汰してしまいました。言い訳がましくなりますが、各種の仕事に追いまくられていました。特に、主任教諭選考(教職経験8年以上の比較的若い先生を対象とした東京都の任用制度)の関わる職務レポートをどのように書いたらよいのか、その傾向と対策、ならびに、解答例の書き方についての原稿書きに四苦八苦しておりました。これは3月中にある出版社から書籍として販売されている予定です。
 今や主任教諭選考は、東京都の管理職試験やそれに準じる試験のうち一番難しく、倍率も高くなっています。それだけ意欲のある若い先生方が多くなってきた一つの表れでしょう。以前のように管理職への道を忌避する先生も少なくなってきました。「教諭→主任教諭→主幹教諭、指導教諭→教頭、副校長→校長」と徐々にステップアップすることがごく自然になってきたようです。しかし、課題もあります。30歳代のそのような先生から独特な個性(よい意味での)がなくなりつつある、ということです。みな平均的でそつなくこなす先生が増えてきた感がします。表面的な、見える部分ではうまくこなすのです。しかし、なぜそう思ったのか、そうしたのか理由や根拠を聞くとあまり明確な答えが返ってこないことがあります。自分の中に論的背景や理論的根拠に自信がないことが原因のようです。
 このことは、学校における道徳教育の世界でも同じです。以前のように道徳を忌避(もっと言うと否定)する先生はほとんどいなくなりました。積極的に道徳を学ぼうとする先生方が増えました。教科になったこともあり、「どうやって教えたらよいのだろう。どのように授業を進めたらよいのだろう」と必要に迫られていることも確かです。また、研究や研修をやり始めたら面白くなり、そのまま継続して道徳の勉強を進めている先生も多くなりました。私の若い頃とは雲泥の差です。しかし、道徳科の授業の関心がいわゆるハウ・トゥ的なところに終始しているようにも思えるのですがいかがでしょうか。こういう考えを基にして授業構想を立てた、このような理論を授業実践に移してみた、といった理屈が少ないように思います。
 ある校長先生が言っておられました。「最近の若い先生方は本を読むより、スマートフォンの動画を見て授業の流れを学ぶ」と。

1 「論」を大切にする、ということ

 では、私の若い頃の先生方は「道徳教育に『論』はあったか、『論』をもっていたか」と問われれば、「今よりもあった」と思います。なぜならば、論を持っていないと戦えなかったからです。まさに、道徳教育を志す教員はある意味、道徳を反対する先生方と戦わなければならなかった時代だったのです。「道徳(の授業)なんかやらんでいい!」と言って年間に一回も道徳の授業をやらない先生がいっぱいいた時代ですから。学習指導要領にはちゃんと「道徳」があったにもかかわらず……。そんな先生方と渡り合うにはそれなりに理論武装しなければなりません。必死に「論」を学び、我が身に取り込んでいました。受け売りはすぐ露呈してしまうので、学んで自分のものにしようと頑張りました。
「道徳教育」明治図書 そのような時代であったからこそ、30年前に「道徳教育理論の潮流を授業に生かす」「道徳教育・授業を支える理論」といった特集(明治図書「道徳教育」)が組まれたのだと思います。道徳をこれから熱心にやっていこうとする先生方に必要な知識や知見が盛り込まれていたのです。
 しかし、それでもまだ不十分だったのかもしれません。当時明治学院大学の神保信一教授は1992年「道徳教育」の特集の「人間学的・実存的アプローチ」の中で以下のように記しています。

 理論にしたがって道徳の授業を構成し、展開している人はごく少ないのではないだろうか。本誌「道徳教育」をさかのぼって読んでみたが、「この理論によるこの授業」をほとんど見つけ出せなかった。
 私自身は○○の理論に忠実であるのがよいのではなく、○○の理論を生かして①、児童生徒との深まりのある道徳授業が展開されることが大切、と考えている。(番号と下線部は、大原による)

 また、同じ特集では滋賀大学の村田昇名誉教授も「シュプランガーの理論を生かす」の中で次のように述べています。

 今日の教育界では、理論的研究が軽視され、安易にハウ・トゥを求めようとする傾向が強いと思うのは、わたくしだけであろうか。とりわけ道徳の時間の指導は技法に走り、しかも画一化してしまっている。かつては教育哲学に造詣が深く、みずからの人生観・教育観をもっている先生方が少なくなかった。その先生方が指導的役割を果たし、各地で理論に支えられた独創的な実践が講じられていた。本質に支えられてこそ、自由な、独創的な、多様な実践が可能となる②道徳の時間を活性化し、真に効果のあるものとするためには、回り道と思われるかもしれないが、理論的・本質的な探究が肝要③であろう。偉大な教育思想家を尋ね、自らが哲学すること④を学び取ることを進めたい。(番号と下線部は、大原による)

 少し解説を加えてみます。

①理論を生かして

J・ピアジェ 画像提供:PPS通信 理論を生かすには、理論を知っていなければなりません。道徳というのは、根本はやはり哲学・倫理学に根差すものです。「哲学・倫理学について深く勉強して専門性を身に付けろ」とは言いませんが、一般的な教養として幾分なりともその中身を知っておくことは必要だろうと思います。今では、高等学校で公民科「倫理」を学ぶ生徒が少なくなっているようです。また、大学での「哲学概論」も必修ではないようです。したがって、それらを履修しないままに先生になってしまうことも多いのではないでしょうか。ですから、現場の先生になってからでもよいので、少しく倫理学や哲学の主張について参照してほしいのです。今の学校現場は忙しいのでそんな時間がないのは分かりますが、機会を見つけて勉強してほしいと思っています。きっと参考となるところがあります。そこを「生かして」ほしいのです。
 また、道徳に限らず、授業についての考え方など授業論についてもハウ・トゥ本ではなく、様々な理論や実践がありますので参照してみて下さい。学級経営や心理学など子供理解や授業づくりについて大いに勉強となります。
 私も、J・ピアジェの道徳判断についての理論から大きな示唆を得ました。彼の書物を読み切るにはかなりの根性とエネルギーを要しますが、長期休業等時間を見つけてじっくりと腰を据えることもどこかで必要だと思います。

②自由な、独創的な、多様な実践

E・シュプランガー 独創的と独善的とは異なります。独善とは、一人よがり、自分だけがよいと思っていることです。少し言い過ぎかもしれませんが、教科となった昨今、この「独善的」と言える道徳科授業がちらほら見える気がしてなりません。また、「自由な実践」についても、「自分勝手、わがまま」な自由ではなく、「本当の自由」による自由な道徳科授業が大切です。まさに、教材「うばわれた自由」における考え方と同様です。
 型にはまらず、自由で、多様な実践が求められることはとても良いことだと私は思います。これからの道徳科研究が大いに発展していく起爆剤となるかもしれないからです。しかし、忘れてはならないことは、【本質に支えられてこそ】なのです。その本質が、「理論」なのです。

③回り道

 正に、「急がば回れ」です。小手先で済ましてはならぬ、ということです。時間をかけてじっくり勉強することが、忙しい先生には特に大切だと考えます。いや、先生の勉強や研鑽のためにも「先生は忙しい」を容認してはならないと思います。先生方の勉強の時間をちゃんと確保するよう社会が認識しなければならないと思っています。教師の質と水準の維持、確保のためにも。そして、先生も成果をすぐに出そうと急いではならないのです。「教師は勉強ができるぞ。」と高等学校の先生に言われて私も教師になりました。まさに、【探究】が大切です。

④哲学すること

 道徳科学習(教師からすれば、授業)は教師と子どもたちが共に「哲学する」時間だと言えます。すなわち、お互いによりよい生き方を考え、求める時間だからです。そのためにも、自らが哲学することを大切にしていただきたいのです。
 例えば、道徳科学習指導案の作成です。特に、「主題設定の理由」における「ねらいとする道徳的価値について」等は教師の深い指導観が求められる所です。それぞれの授業における「内容項目」について先生がどう考えるか、哲学することが大切なのです。

2 「論」を大切にする授業

 では、どのようにすれば「論」を大切にした授業が可能なのでしょうか。一つの示唆として、下記の論述が参考になります。同じく1992年の「道徳教育」の特集に掲載された麗澤大学の岩佐信道教授の「道徳教育・授業を支える理論としての道徳性の発達段階~特にコールバーグについて~」を紹介します。

 実際私自身が参観させてもらう通常の道徳の時間の指導においても、生徒の発言には、明らかに質的なレベルの異なる発言が見受けられるのである。しかし先生に、発達段階の視点がない場合には、高いレベルの発言も、低いレベルの発言も、それぞれ一つの見解として同じように扱われるのである。そして、様々な意見が出されたことでよしとされ、すでに授業は終末に近づいている、というような場合がある。
 しかし、発達段階論の視点からすれば、問題の核心に対して子どもたちのレベルの異なる意見が提出されたところから、本来の道徳の授業が始まるとさえいえるのである。では、そこで何をするかと言えば、レベルの高い意見と、それより低い意見とを取り上げて討論とまではいかなくても、お互いの考えが十分に理解できるよう話し合いをさせることである。(下線部は、大原による)

 いわゆる、私に言わせれば材料だけ並べて、「調理しない」道徳科授業です。教師が発問をし、それに子どもが反応する。そして、板書をする。あらかた発言が終息すると次の発問に移る。そんな一連の授業展開です。結構多いと思います。展開前段から展開後段へのつながりが不自然であるというのも、案外そんなところに要因があるのかもしれません。せっかく子どもたちから出された意見や考えを聞くだけ、黒板に書いただけで授業が終わってしまったら、本当にもったいない授業ではないでしょうか。そのうちに材料が痛んでしまいます。子どもたちから出された意見や考えを板書する、いわゆる、材料が出そろったわけです。今度はそれを調理しなければ料理が出来上がりません。どう調理するか、教師の腕の見せどころです。
 最後に、同じ岩佐先生が1989年の「道徳教育」の特集の中の「コールバーグに学ぶ」で以下のように述べられています。とても参考になるので引用させていただきます。

 第四のステップは、クラス全体での討論である。その際、教師の役割は、つねに生徒同士の話し合いを助長し、子どもたちの意見の背後の理由を聞き、クラスの多くの子どもよりも一段高い次元での発言に注目し、そのような考えが他の生徒によく理解されるような配慮をすることである。
 そのために、教師の行う質問には様々な性質のものがある。
例えば、
①理由を尋ねる質問
②生徒が問題をどのように認識しているかを確認する質問
③生徒の発言の意味を明確にさせる質問
④他の生徒の意見に反応を促す質問
⑤同じ問題を関連した別の面から尋ねる質問
⑥場面中の他の人物に立った場合の考えを尋ねる質問
⑦提案されている意見に従った場合、社会全体にどのような結果がもたらされるかを尋ねる質問
 ①~⑦はフェントンによる

 次号からは、道徳科授業の具体について述べていこうと思います。