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道徳科の指導 ―人間としての生き方についての考えを深める―
二学期になっても厳しい残暑が続いていますが、皆様は如何お過ごしでしょうか。クオーター制を実施している早稲田大学は9月26日まで夏休みで、校内はひっそりしています。しかし、教職大学院だけは9月から始まる学校臨床実習のために旧盆明けから事前指導や特別講座が始まり、学生・教員共に多忙な日々を過ごしています。
そのような中、私事ですが敬老の日に父を連れて温泉に1泊してきました。8月のお盆に会ってから一か月ぶりでしたが急に歩けなくなり、衰えに驚かされました。父も来年の4月には91歳になりますが、日に日に身体が弱ってきました。私自身も高齢者の仲間入りをして、若いときの無理(登山)がたたって膝痛に悩まされています。このように高齢化が進む日本ですが、先日、NHKで「延命治療と人生会議(ACP)」という番組がありました。老いや病気で食事ができなくなったとき、胃ろうを作り栄養物を人工的に流し入れるような延命医療を実施するかしないかを、事前に本人と家族・医師・看護師・保健福祉士などと話し合いをするという内容でした。誰にも訪れる人生の終末をどのように迎えるかを考えさせられる番組でした。私は、人生の終末とはその人がどのように生きてきたかを表すものだと考えます。「あの時ああすればよかった」「あんなことをしなければよかった」などと悔い憂いるような終末を迎えたくありません。自分の生きてきた人生ドラマを飾るように幕を下ろしたいと思います。
さて、今回は新しい学習指導要領に示された道徳科の目標にある学習の在り方にあげられている「人間としての生き方についての考えを深める学習」とはどのようなことか考えていきます。人間としての生き方とはどのようなことか、そのような生き方についての考えを深める授業はどのようにすればよいかについて述べたいと思います。
1 人間としての生き方についての考えを深める
イマヌエル・カント 画像提供:PPS通信
2 人間としての生き方についての考えを深める学習①
平成31年度版中学校道徳科教科書
「中学道徳 あすを生きる 2」 P134-135
3 人間としての生き方についての考えを深める学習②
平成31年度版中学校道徳科教科書
「中学道徳 あすを生きる 1」 P188-189
4回連続して、道徳科の目標にある道徳性を育成する学習の在り方について取り上げてきましたが、如何でしたか。紹介した学習の方法は一例であり、今後さらに実践的な研究を進めて、新しい学習指導要領が求めている『主体的・対話的で深い学び』である学習を開発していかなければならないと思います。
鉄道と美術教育 その2
前回、新幹線の「0系」を「子ども」に置き換えて、学びについて考えてみました。子どもの学びはシステムとして成立しているので、システムを構築する資源とその全体に目を向けることが学習改善に有効だろうという話でした。
今回、もうちょっと話を進めてみましょう。ポイントは、システムと個人は同時に発達するということです。
1.発達するシステム
新幹線に歴史という軸をあててみましょう。
戦前、「弾丸列車」という新幹線計画がありました。時速150km~200kmの高速列車(※1)で、東京~下関間をつなぐのです。東京~大阪間を4時間半で走る予定でした。トンネル建設や用地買収などが進みましたが、戦局の悪化で計画は挫折します。
戦後、東海道線の輸送量は著しく増大し、新幹線の計画が再び持ち上がります。1964年に開業した新幹線は、東京~新大阪を3時間10 分(※2)、最高速度220km/hで結ぶことに成功します。戦前の「弾丸列車計画」で買収されていた横浜~小田原間の土地や日本坂トンネル、線路の設計や駅の位置なども活用されました。
現在、新幹線は九州から北海道までつながっています。最高速度は東北新幹線の宇都宮~盛岡間320km/h、東京~新大阪の所要時間は2時間30分です。今建設中の「リニア中央新幹線」にいたっては、最高速度500km/h、東京~大阪間を最短1時間7分程度で移動できるようになるそうです。
歴史という視点を重ねると、新幹線は常に変化するシステムであることが分かります。車両の速度だけとっても時速200km、320km、500kmと更新を続けています。同時に、線路や運行のプログラム、チケット購入方法なども、時代とともに新しい形へと生まれ変わっています。鉄道というシステムは常に発達し続けているのです。
2.個人とシステム
個人の能力と鉄道のシステムを関連付けてみましょう。
例えば、私の孫は、ドアの閉まる音で電車の新型と旧型を見分けます。最も使う東急電鉄の新型車両は「ドアが開く音が違う」というのです。よく聞くと、確かに、ドア開閉時のチャイム音が新型と旧型で異なっていました。
調べてみると、東急の新型のチャイム音はJR山手線と同じでした。東急とJR山手線の新型車両は、形は全く違うのに、中身はほとんど同じ電車だったのです(※3)。背景には、東急の車両をつくっていた会社が事業を継続するためにJR東日本の子会社になったことがあります。部品等の共通化のため、チャイム音が同じということが起きていたのです。
すると、孫の「電車を音の違いで見分ける能力」と「それを見つける大人の姿」は、鉄道事業の変化によって成立したといえるかもしれません。
列車の絵で知られる作家の本岡さんの場合はどうでしょうか(※4)。彼は列車の正面顔だけを追求して表現します。列車は、正面から表すと鼻の長さなどがつかめません。そのため、ただ似たような列車を並べているだけのように見えます。
ところが、一つ一つ見ていくと色、マーク、前照灯などが微妙に異なっていることに気づきます。電車とディーゼル車の違いも判別できます。「これはキハ283」「新幹線E2系」「485系のレッドエクスプレス」と、北海道から九州まで様々な電車が描き分けられているのです。列車の顔だけを広範囲に撮影した資料はないので、これを描くために相当な知識と経験が必要だったことが分かります(※5)。鉄道好きにはたまりません。
昔は日本全国、似たような列車が通っていましたが、今、鉄道車両の色や形は実に多様です。それが本岡さんの能力を引き出すとともに、本岡さんの作品を楽しむ人々も生み出したのではないでしょうか。
3.個人とシステムは同時に発達する
車両や線路など様々な資源が絡み合った鉄道というシステムは今も発達を続けています。それに並走するかのように、孫の能力が成立し、本岡さんの作品が生まれています。
教育関係者は、よく単独で子どもの発達や成長を述べるのですが、発達や成長という現象は、子どもだけに起こるわけではありません。教育や社会のシステムも発達し、そこに関わる人々も常に更新されています。
その証拠の一つは、「学びと美術」で紹介している児童画です。技術の発達や環境意識の拡張などを通して、子どもたちの絵は確実に変化しています(※6)。
もう一つは、ほかならぬ私自身です。まったく鉄道に興味のなかった私が、孫の発達や本間さんの作品について分かるようになったのです。「還暦すぎても、まだ成長できるかも?」そう思わせる鉄道のお話でした(いや、Nゲージ購入の言い訳でしょう、、、)。
※1:電車と蒸気機関車の併用。写真は昭和初期に南満州鉄道が開発したパシナ型蒸気機関車。最高速度120km/hで営業運転しました。もし、開通したら、このような列車が走っていたでしょう。
※2:当初は4時間でしたが、路盤が固まった1年後に3時間10分となります。
※3:週刊ダイヤモンド編集部『JR東傘下入りの旧東急車輛製造、1両1000万円のコスト減に成功した秘策』2018.10 https://diamond.jp/articles/-/181543
※4:Art Brut from Japan ヨーロッパ巡回展とは『本岡秀則(もっと伝えたい、アール・ブリュット。)【ポスター連動企画】』 http://www.artbrut.jp/news/2014/01/000042.html
※5:最近、電車の正面顔だけを集めた図鑑がベストセラーになっています。江口 明男『電車の顔図鑑 JR線を走る鉄道車両 旅鉄BOOKS』天夢人2017
※6:ドローンで撮影したような絵『学び!と美術 <Vol.72>』、幼児が遠足の体験を3Dで表した絵『学び!と美術 <Vol.76>』、生態的な意識の広がりを示す絵『学び!と美術 <Vol.77>』
道徳科の指導 ―多面的・多角的に考える―
長雨が続いた今年の梅雨も学校が夏休みになるとともにやっと終わり、暑い夏がやってきました。皆様は如何お過ごしでしょうか。夏休みになりホッとされている方もおられるのではないかと思います。
最近、海外の大学への留学や海外からの留学生を受け入れるために1年を春・夏・秋・冬の4つに区切ったクオーター制を取り入れ、9月卒業・入学ができるようにしている大学が増えてきています。早稲田大学ではこの制度を率先して導入したので、夏クオーターが8月の第1週まであり、小学生・中学生・高校生が夏休みである7月も授業を行っています。このためか留学生の在学数が日本一であり、外国籍の教員も増えています。私が所属する教育学研究科高度教職実践専攻(教職大学院)では2年前から中国籍の方が国語教育を担当して、国語の先生を目指している学生の指導を行っています。これからの日本はますますグローバル化が進み、多くの外国の人々とコミュニケーションを取り、互いに尊重し、協働して生活する社会になっていくのではないかと思います。
さて、今回も前回に引き続き道徳科の授業の在り方について考えていきます。「物事を広い視野から多面的・多角的に考える学習」とはどのようなことか、特に、道徳科における『多面的・多角的』とはどのようなことを言うのかについて述べたいと思います。
1 「多面的・多角的に考える学習」とは

2 道徳科における「多面的・多角的に考える学習」
今回は道徳科の学習の一つである「物事を広い視野から多面的・多角的に考える学習」について述べました。中学生は自分の利害だけで物事を見るのではなく、他者のこと、自分が所属する集団のことを考え行動することができます。『多面的・多角的』な視点で考える学習を通して道徳性を養ってください。次回は、「人間としての生き方についての考え方を深める学習」について述べたいと思います。ご期待ください。
道徳科の指導 ―自己を見つめる―
5月だというのに北海道で39.5℃を記録したり、屋久島では記録的な集中豪雨が起きたりと地球温暖化の影響ではないかと思われる異常気象が発生しています。私たちは科学の発展とともに、空調システムによってコントロールされた快適な住居、地球のどこにでも簡単に行ける自動車や飛行機などの交通手段などの手に入れて豊かな生活を送っています。この流れはコンピュータや人工知能(AI)の進歩と人間の欲望によってますます進行するのではないかと思います。しかし、このまま進むと人間や地球の未来はどうなるのでしょうか? 持続可能な社会を維持することができるのでしょうか?
2001年宇宙の旅(監督:スタンリー・キューブリック) アメリカの未来学者レイ・カーツワイルは、2045年になるとコンピュータ能力が人間の知能を越えて、発明なども行うようになり、人間は進歩の予測ができなくなると述べています。高校生の時、「2001年宇宙の旅」(監督スタンリー・キューブリック)というSF映画を見て衝撃を受けたことを覚えています。とても難解で見るたびに新しい発見がある映画ですが、物語は人類の進歩のカギを握っている「モノリス」という黒い石柱を調査するために木星に向かった宇宙船での出来事が中心です。宇宙船はスーパーコンピュータ「ハル」で管理されていて、ボーマン船長ともう一人の船員以外は人工冬眠しています。しかし、突然ハルが冬眠中の船員や船外活動している船員の生命維持装置を切り、宇宙船を支配しようとします。一人残ったボーマン船長が邪心を抱いたハルの思考部分を停止させるという内容です。
最近、自動車の自動運転やロボットの開発でAIの技術が驚くような勢いで進歩しています。一部の研究者は「心」を持ったAIの開発に取り組んでいます。心を持った人工知能やロボットは、欲望で自分をコントロールできない人類を救ってくれるのだろうか? それともハルのように邪心を抱いて人類を絶滅へと導くのだろうか? ただどちらにも共通していることは、人工知能がどのような「心」を持つか、そしてAIを開発する科学者が同様な道徳性を持っているかがそのカギを握っていると思います。
さて、前回から道徳科の学習の在り方について考えています。今回は「自己を見つめる」とはどのようなことか、またどうしたら「自己を見つめる学習」ができるかについて述べたいと思います。
1 自己を見つめる
2 自己を見つめる学習
第1は『発達の援助』としての教育です。人間は未熟な状態で生まれてくるので、身体的な発達に対する援助と精神的な発達に対する援助の両面から教育的援助をすることが必要であるという考えです。このことはピアジェの発達心理学でも言われていますが、中学生の時期は第二次反抗期・思春期にあたります。響君が言うようにわかっていても反発したくなる時期でもあり、真理さんが言うように他者の目が気になる時期でもあります。
第2は『文化財の伝達』としての教育です。シュプランガーが言う文化財とは、教育的価値があり、教育上効果のあるものです。そして伝達とは単に文化の内容を理解させることではなく、文化が持つ意味を理解し、その意味に即して行動し、その文化に基づき新たな文化を創造していくことを求めています。日本では多くの学校における『チャイム着席』という規則(学校文化)があります。生徒たちはその規則の意義を理解し行動することを通して、規則を守ることの大切さを習得しています。『元さんの立場だったらあなたはどうしますか。』と問われたら生徒たちは響君の考えのように一般的に正しいということを答えるでしょう。
第3は『良心の覚醒』という教育です。シュプランガーは、良心とは、人間の心の奥にあり、善悪の判断を行い、自身の行為を正す倫理的なものであると言っています。教師は『発達の援助』や『文化財の伝達』を通して、子どもの内にある良心を『覚醒』させなければなりません。そのためには、自己吟味をしたり、自己を批判的に検討したりすることと、行為によって社会と実践的にかかわっていくことが大切であると述べています。子どもが自らの行動を見直し、良心を覚醒することができるように教師が支援することが重要となります。」
今回は道徳科の学習を行うにあたり考えていかなければならない視点「自己を見つめる」について述べました。反抗期の真っただ中にいる中学生に冷静に自分自身を見つめさせることはとても難しいことだと思います。次回は、「物事を広い視野から『多面的・多角的に』考え」について述べたいと思います。ご期待ください。
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道徳教育を支える「理論」―その2
前号を書き下ろしてから、しばらくご無沙汰してしまいました。言い訳がましくなりますが、各種の仕事に追いまくられていました。特に、主任教諭選考(教職経験8年以上の比較的若い先生を対象とした東京都の任用制度)の関わる職務レポートをどのように書いたらよいのか、その傾向と対策、ならびに、解答例の書き方についての原稿書きに四苦八苦しておりました。これは3月中にある出版社から書籍として販売されている予定です。
今や主任教諭選考は、東京都の管理職試験やそれに準じる試験のうち一番難しく、倍率も高くなっています。それだけ意欲のある若い先生方が多くなってきた一つの表れでしょう。以前のように管理職への道を忌避する先生も少なくなってきました。「教諭→主任教諭→主幹教諭、指導教諭→教頭、副校長→校長」と徐々にステップアップすることがごく自然になってきたようです。しかし、課題もあります。30歳代のそのような先生から独特な個性(よい意味での)がなくなりつつある、ということです。みな平均的でそつなくこなす先生が増えてきた感がします。表面的な、見える部分ではうまくこなすのです。しかし、なぜそう思ったのか、そうしたのか理由や根拠を聞くとあまり明確な答えが返ってこないことがあります。自分の中に論的背景や理論的根拠に自信がないことが原因のようです。
このことは、学校における道徳教育の世界でも同じです。以前のように道徳を忌避(もっと言うと否定)する先生はほとんどいなくなりました。積極的に道徳を学ぼうとする先生方が増えました。教科になったこともあり、「どうやって教えたらよいのだろう。どのように授業を進めたらよいのだろう」と必要に迫られていることも確かです。また、研究や研修をやり始めたら面白くなり、そのまま継続して道徳の勉強を進めている先生も多くなりました。私の若い頃とは雲泥の差です。しかし、道徳科の授業の関心がいわゆるハウ・トゥ的なところに終始しているようにも思えるのですがいかがでしょうか。こういう考えを基にして授業構想を立てた、このような理論を授業実践に移してみた、といった理屈が少ないように思います。
ある校長先生が言っておられました。「最近の若い先生方は本を読むより、スマートフォンの動画を見て授業の流れを学ぶ」と。
1 「論」を大切にする、ということ
では、私の若い頃の先生方は「道徳教育に『論』はあったか、『論』をもっていたか」と問われれば、「今よりもあった」と思います。なぜならば、論を持っていないと戦えなかったからです。まさに、道徳教育を志す教員はある意味、道徳を反対する先生方と戦わなければならなかった時代だったのです。「道徳(の授業)なんかやらんでいい!」と言って年間に一回も道徳の授業をやらない先生がいっぱいいた時代ですから。学習指導要領にはちゃんと「道徳」があったにもかかわらず……。そんな先生方と渡り合うにはそれなりに理論武装しなければなりません。必死に「論」を学び、我が身に取り込んでいました。受け売りはすぐ露呈してしまうので、学んで自分のものにしようと頑張りました。
「道徳教育」明治図書 そのような時代であったからこそ、30年前に「道徳教育理論の潮流を授業に生かす」「道徳教育・授業を支える理論」といった特集(明治図書「道徳教育」)が組まれたのだと思います。道徳をこれから熱心にやっていこうとする先生方に必要な知識や知見が盛り込まれていたのです。
しかし、それでもまだ不十分だったのかもしれません。当時明治学院大学の神保信一教授は1992年「道徳教育」の特集の「人間学的・実存的アプローチ」の中で以下のように記しています。
理論にしたがって道徳の授業を構成し、展開している人はごく少ないのではないだろうか。本誌「道徳教育」をさかのぼって読んでみたが、「この理論によるこの授業」をほとんど見つけ出せなかった。
私自身は○○の理論に忠実であるのがよいのではなく、○○の理論を生かして①、児童生徒との深まりのある道徳授業が展開されることが大切、と考えている。(番号と下線部は、大原による)
また、同じ特集では滋賀大学の村田昇名誉教授も「シュプランガーの理論を生かす」の中で次のように述べています。
今日の教育界では、理論的研究が軽視され、安易にハウ・トゥを求めようとする傾向が強いと思うのは、わたくしだけであろうか。とりわけ道徳の時間の指導は技法に走り、しかも画一化してしまっている。かつては教育哲学に造詣が深く、みずからの人生観・教育観をもっている先生方が少なくなかった。その先生方が指導的役割を果たし、各地で理論に支えられた独創的な実践が講じられていた。本質に支えられてこそ、自由な、独創的な、多様な実践が可能となる②。道徳の時間を活性化し、真に効果のあるものとするためには、回り道と思われるかもしれないが、理論的・本質的な探究が肝要③であろう。偉大な教育思想家を尋ね、自らが哲学すること④を学び取ることを進めたい。(番号と下線部は、大原による)
少し解説を加えてみます。
J・ピアジェ 画像提供:PPS通信 理論を生かすには、理論を知っていなければなりません。道徳というのは、根本はやはり哲学・倫理学に根差すものです。「哲学・倫理学について深く勉強して専門性を身に付けろ」とは言いませんが、一般的な教養として幾分なりともその中身を知っておくことは必要だろうと思います。今では、高等学校で公民科「倫理」を学ぶ生徒が少なくなっているようです。また、大学での「哲学概論」も必修ではないようです。したがって、それらを履修しないままに先生になってしまうことも多いのではないでしょうか。ですから、現場の先生になってからでもよいので、少しく倫理学や哲学の主張について参照してほしいのです。今の学校現場は忙しいのでそんな時間がないのは分かりますが、機会を見つけて勉強してほしいと思っています。きっと参考となるところがあります。そこを「生かして」ほしいのです。
また、道徳に限らず、授業についての考え方など授業論についてもハウ・トゥ本ではなく、様々な理論や実践がありますので参照してみて下さい。学級経営や心理学など子供理解や授業づくりについて大いに勉強となります。
私も、J・ピアジェの道徳判断についての理論から大きな示唆を得ました。彼の書物を読み切るにはかなりの根性とエネルギーを要しますが、長期休業等時間を見つけてじっくりと腰を据えることもどこかで必要だと思います。
E・シュプランガー 独創的と独善的とは異なります。独善とは、一人よがり、自分だけがよいと思っていることです。少し言い過ぎかもしれませんが、教科となった昨今、この「独善的」と言える道徳科授業がちらほら見える気がしてなりません。また、「自由な実践」についても、「自分勝手、わがまま」な自由ではなく、「本当の自由」による自由な道徳科授業が大切です。まさに、教材「うばわれた自由」における考え方と同様です。
型にはまらず、自由で、多様な実践が求められることはとても良いことだと私は思います。これからの道徳科研究が大いに発展していく起爆剤となるかもしれないからです。しかし、忘れてはならないことは、【本質に支えられてこそ】なのです。その本質が、「理論」なのです。
正に、「急がば回れ」です。小手先で済ましてはならぬ、ということです。時間をかけてじっくり勉強することが、忙しい先生には特に大切だと考えます。いや、先生の勉強や研鑽のためにも「先生は忙しい」を容認してはならないと思います。先生方の勉強の時間をちゃんと確保するよう社会が認識しなければならないと思っています。教師の質と水準の維持、確保のためにも。そして、先生も成果をすぐに出そうと急いではならないのです。「教師は勉強ができるぞ。」と高等学校の先生に言われて私も教師になりました。まさに、【探究】が大切です。
道徳科学習(教師からすれば、授業)は教師と子どもたちが共に「哲学する」時間だと言えます。すなわち、お互いによりよい生き方を考え、求める時間だからです。そのためにも、自らが哲学することを大切にしていただきたいのです。
例えば、道徳科学習指導案の作成です。特に、「主題設定の理由」における「ねらいとする道徳的価値について」等は教師の深い指導観が求められる所です。それぞれの授業における「内容項目」について先生がどう考えるか、哲学することが大切なのです。
2 「論」を大切にする授業
では、どのようにすれば「論」を大切にした授業が可能なのでしょうか。一つの示唆として、下記の論述が参考になります。同じく1992年の「道徳教育」の特集に掲載された麗澤大学の岩佐信道教授の「道徳教育・授業を支える理論としての道徳性の発達段階~特にコールバーグについて~」を紹介します。
実際私自身が参観させてもらう通常の道徳の時間の指導においても、生徒の発言には、明らかに質的なレベルの異なる発言が見受けられるのである。しかし先生に、発達段階の視点がない場合には、高いレベルの発言も、低いレベルの発言も、それぞれ一つの見解として同じように扱われるのである。そして、様々な意見が出されたことでよしとされ、すでに授業は終末に近づいている、というような場合がある。
しかし、発達段階論の視点からすれば、問題の核心に対して子どもたちのレベルの異なる意見が提出されたところから、本来の道徳の授業が始まるとさえいえるのである。では、そこで何をするかと言えば、レベルの高い意見と、それより低い意見とを取り上げて討論とまではいかなくても、お互いの考えが十分に理解できるよう話し合いをさせることである。(下線部は、大原による)
いわゆる、私に言わせれば材料だけ並べて、「調理しない」道徳科授業です。教師が発問をし、それに子どもが反応する。そして、板書をする。あらかた発言が終息すると次の発問に移る。そんな一連の授業展開です。結構多いと思います。展開前段から展開後段へのつながりが不自然であるというのも、案外そんなところに要因があるのかもしれません。せっかく子どもたちから出された意見や考えを聞くだけ、黒板に書いただけで授業が終わってしまったら、本当にもったいない授業ではないでしょうか。そのうちに材料が痛んでしまいます。子どもたちから出された意見や考えを板書する、いわゆる、材料が出そろったわけです。今度はそれを調理しなければ料理が出来上がりません。どう調理するか、教師の腕の見せどころです。
最後に、同じ岩佐先生が1989年の「道徳教育」の特集の中の「コールバーグに学ぶ」で以下のように述べられています。とても参考になるので引用させていただきます。
第四のステップは、クラス全体での討論である。その際、教師の役割は、つねに生徒同士の話し合いを助長し、子どもたちの意見の背後の理由を聞き、クラスの多くの子どもよりも一段高い次元での発言に注目し、そのような考えが他の生徒によく理解されるような配慮をすることである。
そのために、教師の行う質問には様々な性質のものがある。
例えば、
①理由を尋ねる質問
②生徒が問題をどのように認識しているかを確認する質問
③生徒の発言の意味を明確にさせる質問
④他の生徒の意見に反応を促す質問
⑤同じ問題を関連した別の面から尋ねる質問
⑥場面中の他の人物に立った場合の考えを尋ねる質問
⑦提案されている意見に従った場合、社会全体にどのような結果がもたらされるかを尋ねる質問
①~⑦はフェントンによる
次号からは、道徳科授業の具体について述べていこうと思います。





