美術鑑賞の現在地 後編(2010~) 第2回「ビジネスと美術鑑賞(1)」

 ビジネスと美術鑑賞……この話題は、意図的に避けてきました。理由は、筆者が、①ビジネスの専門家でもないのに、②美術鑑賞とビジネスの「言い出しっぺ」になってしまったからです。教育界の人間としては、どうにも居心地が悪く、本連載で語ることには抵抗がありました。
 とはいえ、「ビジネスと美術鑑賞」については、すでにいろいろな人が語っています。また、この連載も10年目で一区切りを迎えようとしています。本連載のテーマは「図画工作科・美術科が今できること」、その第1回では「図画工作科は子どもの何に役立つのか」「美術科は世の中の何に貢献するのか」とも書いています。「美術鑑賞の現在地」という観点から「ビジネスと美術鑑賞」について取り上げないわけにはいきません。しょうがない……重い腰を上げましょう。

「言い出しっぺ」

 「言い出しっぺ」になったきっかけを振り返ってみます。
 筆者は2015年にビジネスと美術鑑賞が直結するようなタイトルをつけた本を出版します(※1)。理由の一つは、2012年の科研の海外出張(※2)でビジネスパーソンが美術館で朝早くからギャラリートークに参加している姿に出会ったことです。もう一つは、本の対談で、女子美術大学の前田基成教授から海外では企業がビジネススクールではなく、アートスクールに社員を派遣していると教えてもらったことです。
 どちらも一瞬「?」と思う事例ですが、子どもの鑑賞活動に関わってきた筆者にとっては至極当然でした。子どもの美術鑑賞は創造的で、かつ論理的に展開します。それはビジネスに必要な力を高めることにもつながるでしょう。そこで、美術鑑賞が問題解決力などを高めること、脳を活性化させる活動であることなどについて、子どもの具体的な姿を紹介しながら、学校教育における鑑賞教育についてまとめました。要するに、タイトルは「ビジネス書」っぽいけれども、中身は「教育書」だったのです。
 特に売れ行きが良いという話は聞きませんでしたが、タイトルの効果か、美術教育以外の分野で取り上げられることが数回ありました。ところが、その後、2017年に山口周氏の『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』がベストセラーとなり、秋元雄史『武器になる知的教養 西洋美術鑑賞』、ニール・ヒンディ『世界のビジネスリーダーがいまアートから学んでいること』(※3)など、ビジネスと美術鑑賞に関する本が次々と出版されます。美術を用いてビジネスを活性化しようとする動きも目立つようになり、一種のブームのような状況が生まれ、筆者の講演や研修などの依頼も1/3がビジネス関係になっていきます(※4)
 おそらく、私の著書は、ビジネスと美術に関する大きな動きの一つに過ぎず、指摘したのが早かったので「言い出しっぺ」になっただけでしょう。ただ、学校教育のノウハウや美術鑑賞が一般社会に認知されたことはうれしいことでした。

美術鑑賞はビジネスに役立つ?

 「美術鑑賞」と「ビジネス」を結び付けることには、当初から批判の声がありました。この批判から「美術鑑賞とビジネス」について考えてみましょう。それは筆者の立場を表明することになりそうです。
 出版してすぐに、教育界からは「美術教育はビジネスのためにあるのではない」と言われました。ビジネス側からも「ビジネススキルを上げるために美術鑑賞に行きたくない」という声をもらいました(※5)。どちらも妥当だと思います。「美術鑑賞がビジネスに役立つ」という言説は直感的に胡散臭い匂いがします(※6)
 美術史や美術館学を研究する半田滋男教授は、ある会議で、美術をビジネスと結びつける功利的な傾向を次のように批判しています。

草花が薬として役立つことはあるが、そのために咲いているわけではない(※7)

和光大学
半田滋男教授
 同感です。草花の効用と、草花の存在は、本来、別の話です。同じ会議で、研究者の平野智紀氏は、自身が関わったアートプロジェクトで、ミュージアム・エデュケーター会田大也氏との議論の中で出てきた「アートはあくまでアートのためにあり、何かのためにあるものではない」という言葉を紹介してくれました(※8)。確かに、アーティストは教育やビジネスのためにつくっているわけではありません。
 その会議の結論は、「美術館や学校には目的や役割があるけれども、美術に価値や役割があるという話はどうも怪しい」「美術という花が開いていること自体を大切にするべきで、美術の効果を因果的に語るのは違うだろう」ということに落ち着きました。

美術鑑賞は創造過程

 そもそも美術鑑賞は、それ自体で意味のある貴重な実践です。65年前のマルセル・デュシャンの指摘「創造過程」を引用しましょう。
 多くの人々は「芸術家こそが、創造的な作品を生み出すことができる」と思っています。それは、芸術家という個人の中に創造性やひらめきがあるという個体主義的な考え方です。これに対して、デュシャンは芸術家だけで創造活動を完遂することはできないと断言します。

「要するに、芸術家は一人では創造行為を遂行しない。鑑賞者は作品を外部世界に接触させて、その作品を作品たらしめている奥深いものを解読し解釈するのであり、そのことにより鑑賞者固有の仕方で創造過程に参与するのである。こうした参与の仕方は、後世がその決定的な審判を下し何人かの忘れられた芸術家を復権するときに、一層明らかになる(傍線筆者)(※9)

Portrait de Lisa Gherardini, dit La Joconde ou Monna Lisa | Image via Louvre Museum 創造は芸術家が作品を作り終えた時点で終了するのではなく、そこに鑑賞者が参加することによって成立するというわけです。美術鑑賞は鑑賞者が創造行為のプロセスに参加する「創造行為の遂行」の一部であり、それ自体がかけがえのない創造活動といえるかもしれません。
 そういえば、あのモナリザも1800年代までは今ほど高い絵ではなく、ラファエロの方がよほど高価だったようです。しかし1911年の盗難事件とそのニュース、海外で展示される際に掛けられた保険金額、数々のパロディなど様々な出来事によって世界最高の絵画になったといわれています。芸術の創造、言い換えれば「芸術という草花が咲く」ためには鑑賞活動を始めとして、様々な縁起が不可欠なのだろうと思います。

「証明」できないことが大事

 人々は常に「AだからBである」というような因果を求めます。でも、因果で証明できないことも大事です。
 以前取り上げたOECDの報告書『アートの教育学』では、世界中の研究を分析した結果、美術教育と学力に一定の相関が見られたことを紹介しています。「空間認知」「心的イメージ力」「推論する力」「粘り強さ」「問題を発見しようとする力」「他者と異なる方法で解こうとする態度」「学力」「メタ認知力」「欠席率」「学習意欲」「非行減少」等々、これらの学力等と美術には、それなりの相関はあるようです。しかし、どれも因果は証明できませんでした。そこから、OECDの出した結論はこうです。

究極的には、たとえ芸術教育が芸術以外のスキルにインパクトを与えるというエビデンスを見付けたとしても(中略)芸術は本来それ自体が教育にとって重要なものである(※10)

 芸術教科が他教科の学力を育てることが本当だとしても、それが因果として証明できたとしても、芸術は芸術それ自体が重要で、だからこそ教育に必要だというわけです。因果を求める人々には申し訳ないのですが、おそらく因果として語ったとたんに、大切なことが見失われると思います。OECDの報告書はその警鐘としてとらえたいものです。
 そこで、この言い方を借りて、「ビジネスと美術鑑賞」に関する筆者の立場を表明しておきましょう。

美術鑑賞がビジネス、教育、医療等、何かの役立つとしても、そのために美術鑑賞があるわけではない。美術鑑賞は、それ自体に意味がある。

 美術鑑賞を単純な因果としてとらえるのではなく、縁の紡ぎ合いのような実践として、あるいは、それ自体を意味あることとして考えていくこと、実践していくことが大事なのだと確認しておきます。その上で、今号以降、ビジネスに関連する動きを紹介していきましょう。

※1:奥村高明『エグゼクティブは美術館に集う 「脳力」を覚醒する美術鑑賞』(2015)
※2:科学研究費助成事業「美術館の所蔵作品を活用した美術鑑賞教育プログラムの開発」基盤研究B 課題番号24300315 代表者:一條彰子。大髙幸放送大学客員准教授(当時)のコーディネートで行われた調査の一つでMoMA(ニューヨーク近代美術館)を訪れたときに気付いたことでした。
※3:2017年から2020年にかけて、山口周「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」 」(2017)、秋元雄史「武器になる知的教養 西洋美術鑑賞」(2018)、ニール・ヒンディ著、長谷川雅彬監修、小巻靖子訳『世界のビジネスリーダーがいまアートから学んでいること』(2018)、電通美術回路「アート・イン・ビジネス — ビジネスに効くアートの力」(2019)、堀越啓著『論理的美術鑑賞 人物×背景×時代でどんな絵画でも読み解ける』など多くの書籍が発行されました。
※4:ビジネス研修に役立つ美術鑑賞のゲームやプログラムも開発しましたが、その一部が以下です。本連載で紹介した「<Vol.78>ラウンド・スケッチ~人気の鑑賞アクティビティ」「<Vol.90>「ラウンド・ダイアローグ(役割交代鑑賞)」」です。
※5:NewsPicks編集部の新刊紹介に寄せられたコメントより(2015)。
※6:「美術は将来ビジネスに役立つぞ!」と言って美術の授業を行う先生もいるとか……それは違うなあ。
※7:「美術検定」監修者会議(監修者:橋秀文・半田滋男・奥村高明・平野智紀)で「アートの価値」という議題に対する和光大学表現学部芸術学科半田滋男教授の発言。
※8:内田洋行総合研究所平野智紀主任研究員の発言。
※9:1957年4月に開催されたアメリカ芸術家連盟の集会で口頭報告した「創造過程(The Creative Act)」より。マルセル・デュシャン著、ミシェル・サヌイエ編、北山研二訳『マルセル・デュシャン全著作』(1995)286p
※10:OECD教育研究革新センター編著「アートの教育学 革新型社会を拓く学びの技」(2016)。学び!と美術「<Vol.61>美術への期待と学力のエビデンス」でも紹介しています。

私たちの生活と経済「今使えるコロナ教材:授業のネタを28用意しました」(第3学年)

 私たちは、2004年に「経済教育ネットワーク」(代表:篠原総一同志社大学名誉教授)を設立し、「経済教育を実践している様々な活動主体(個人、団体)を「ゆるやかな」ネットワークの下で結びつけ、それぞれの教育事業の向上を支援する。特に経済教育に関する情報の収集と発信などの面で日本におけるワンストップ・サービスを提供する」ことを目的に活動しています。
 2021年夏に、多数の教員(小・中・高・大)や教育関係者の方々に協力していただき、コロナ問題を題材とした授業教材を28作成しました。内容は多岐にわたり、経済単元を中心に公民の様々な分野と関係しています。
 いずれも、生徒が「これならなるほど」と思えるちょっとした資料、データ、解説文を用意しています。コロナという身近で深刻な問題を題材にすることで、生徒が社会の見方・考え方を理解し、公民としての資質・能力を身につけるために、少しでも役立つのではないかと考えています。下記のURLをご覧いただき、ご活用いただければ幸いです。

■経済教育ネットワーク https://econ-edu.net/
■「今使えるコロナ教材」 https://econ-edu.net/2021/09/07/3571/

美術鑑賞の現在地 後編(2010~) 第1回「文脈への着目」

 2010年以降の美術鑑賞の特徴をまとめます。第1回は「文脈」です。
 2000年代までに美術鑑賞は多様になりましたが、「型」的な方法論に固執したり、知識不要論が生まれたりした時期でもありました。その反動なのか、2010年代には「文脈」への注目が徐々に高まっていきます(※1)。ここでは2つの事例を取り上げて検討しましょう。

山口先生の「氷山モデル」

「美術作品の氷山モデル」山口敦士 「文脈」の説明で分かりやすいのは、甲陽学院高等学校の山口敦士先生の「氷山モデル」です(※2)。以下の3つで構成されています。

  1. 氷山の海の上に見えている部分が「造形の要素」です。形や色、質感、モチーフなど視覚的にとらえられるすべてでしょう。氷山を見ることと同じように、私たちが美術作品から最初に得られる物理的情報です。
  2. 氷山の海の中に隠れている部分が「主題」です。「何を表現しようとしたのか」「描かれたテーマは何か」など、作品から伝わってくるメッセージや概念に当たります。海の上の見える部分(造形の要素)から、見えない部分(主題)について想像したり、考えたりすることができます。
  3. 氷山をささえるのが海水で「社会的、地理的、文化的な背景」です。氷山は、海水や水温、環境など多様な資源があってはじめて成立します。美術作品にも、それが描かれた当時の社会的要素、地理的条件、政治的な問題、歴史や文化の背景などがあります。「文脈」にあたるのはこの部分です。

 山口先生は、この「氷山モデル」を学習の核となる重要なイメージとして考えており、生徒と共有したり、年間を通じて様々なシーンで活用したりしています。
 例えば、動的な作品サムネイルの集合体から、作品を選んだり、仲間分けしたりできる「デジタルアートカード(※3)」を用いた「アート界の“推しメン”発見(※4)」という鑑賞の授業では、生徒は「氷山モデル」を確認した上で学習に取り組みます。生徒は、お気に入りの作家や作品、つまり「推しメン」が決まったら、インターネットや図書などを用いてさらに詳しく調べ、最終的に「その魅力をプレゼンテーション」します。この活動の全体に「氷山モデル」という概念が流れているというわけです。
 山口先生は「文脈」が学習活動の重要なポイントになっていたことについて、次のように語っています。

 氷山モデルのポイントは、作品の造形的な要素や主題だけでなく、作品を成立させる背景(海水)も大事にすることです。生徒が記述したワークシートからは、ミレーの『晩鐘』に見られる宗教的な営みの価値と産業革命期の物質的な豊かさの関係、ベラスケスの『インノケンティウス10世像』と当時のカトリック教会の思惑、高橋由一が新年の贈り物である“新巻き鮭”を描いた『鮭』と明治維新、義務教育が6年制となった年に描かれた土田麦僊の『罰』、など作品の主題と当時の世界状況を関連付ける様子が見られました。

 高校生は、中学生までに形や色などから主題を探った経験を持ち、歴史的な知識や概念も豊富になっています。「文脈」を活用しながらより深く美術作品や作家について考えることが可能でしょう。また「氷山モデル」は、形や色、主題、歴史的背景などの要素が分断されず、氷山と海水がお互いに必要で不可分な関係が一目で分かるため、生徒にとって活用しやすい道具(※5)になっていると思います。

テート美術館「アートへの扉」

 「文脈」の大切さを分かりやすく説明しているのは、美術館を活用するためのカリキュラムやアクティビティなどを紹介するテート美術館編『美術館活用術~鑑賞教育の手引き』です。その中で学習の基盤として提案されているのが、文脈を踏まえた「アートへの扉」でした(※6)
 「アートへの扉」は探求的に美術鑑賞する視点を示したものです。「私」「対象(もの)」「主題」「文脈」の4つの扉で構成されており、扉を掛け替えたり、相互に参照したりしながら学習に活用します。それによって、美術鑑賞を単なる作品解釈に終わらせるのではなく、「私とは誰か」「私たちの世界の問題は何か」など、学習をより深めようとします。

「アートへの扉」(筆者がまとめた図を用いています)

  1. 「私からのアプローチ」~美術鑑賞は、他ならぬ私から始まります。しかし、それは友達や作品、学習活動などを通して拡張し、変化します。ここでの「私」は、探求的な学習共同体の中で尊重され、かつ「生まれ変わっていく私」という意味合いで用いられています。美術鑑賞は「私」自身の在り方を問い直す活動なのです。
  2. 「対象(もの)の扉」~氷山モデルの海上部分と同じです。形や色、線や明暗、色調、構図、大きさ、空間、量感、材料、設置場所の特徴、時間、制作プロセスなど認識できる「対象(もの)」で、「私」の身体と深く関係しながら、視覚や聴覚、空間感覚など様々な感覚を活性化して美術作品をとらえる視点です。「対象(もの)」を注意深く観察したり、特性や関連性を探ったりすることは美術鑑賞に不可欠な活動でしょう。
  3. 「主題の扉」~氷山モデルの海中部分と同じです。作品のタイトルや内容、作品が投げかけるメッセージ、作品に込められた概念など一般的に「主題」として取り扱われるものです。作品が何を語っているかについて考えることは、鑑賞学習で最も重要な部分でしょう。例えば、その作品は美術の制度を批判しているかもしれません。あるいは、私たちの見方や考え方に疑問を提示しているのかもしれません。
  4. 「文脈の扉」~「文脈」は「対象(もの)」のように作品から直接確認はできません。「主題」のような作品が語るメッセージでもありません。作品に関連する歴史、学問、社会問題などであり、作家自身が気づいていない場合もあります。「文脈」をふまえれば、作品はより広い世界と関連付くことになり、私たちは美術鑑賞を通して新たな問題に立ち向かう力を獲得することができるでしょう。例えば「名画」の現代社会における役割や働きを考えたり、科学や哲学、数学や生態学など創造性に関わる他の領域と関連付けて考えたりすることで、鑑賞学習は、より深く、より多様に展開できるでしょう。

 本書で「アートへの扉」を知った当時、多くの鑑賞学習は作品解釈に拘泥し、「対象」と「主題」の往還に終始していた記憶があります。「アートへの扉」の「文脈」に切り込む視点や、鑑賞を通して「私」や「世界」が変化するという考え方は新鮮でした。美術作品を美術科だけでなく教育課程全体で活用する可能性も感じました。日本にこのような本は見られず、美術出版サービスセンター(現美術出版エデュケーショナル)にお願いして、2012年に翻訳・出版した次第です。
 今では、美術鑑賞で知識を否定するようなことはなくなり、「文脈」も様々な場面で活用されるようになりました。近年、カリキュラムマネジメントやSTEAM、国際バカロレアなど、教育課程全体で子どもたちを育てようとする教育の流れもあります。美術作品をより拡張的に活用していくために、「文脈」はますます重要な概念となっていくでしょう(※7)

※1:学び!と美術<Vol.33>『これからの美術鑑賞~「文脈」と鑑賞教育』
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art033/
※2:山口先生に、どのように氷山モデルにたどり着いたのかと尋ねたところ、自分なりに考えていたことをまとめたときに、精神分析学者のフロイトの氷山モデル(意識は氷山の一角とする考え方)に出会い、それをヒントに考えを整理したそうです。
※3:本教材の監修や作品選定に関わりました。動的な作品サムネイルの集合体から、気になる作品を選んだり、仲間分けをしたりできます。『デジタルアートカード』
https://www.nichibun-g.co.jp/digital_artcard/
※4:デジタルアートカード指導のアイデアより。『アート界の“推しメン”発見』
https://www.nichibun-g.co.jp/digital_artcard/idea.html
※5:認知的道具の意味です。加藤浩、有元典文 編著『認知的道具のデザイン』金子書房(2001)
※6:ヘレン・チャーマン、キャサリン・ローズ、ギリアン・ウィルソン 編、奥村高明、長田謙一 監訳、酒井敦子、品川知子 訳『美術館活用術 鑑賞教育の手引き』ロンドン・テートギャラリー編、美術出版社(2012)。原著は2006年、森美術館の酒井敦子エデュケーター(現:国立西洋美術館学芸課研究員)から紹介されたのが2007年、首都大学東京の長田謙一教授(現:名古屋芸術大学教授、東京都立大学客員教授)の協力を得て、さっそく出版の準備に入りました。なお、あくまでも当時のテートの普及活動部が考えた理論であり、現在はテートで用いられていないようです。
※7:最も先端的な事例は台湾の北師美術館の実践でしょう。学び!と美術<Vol.81>『美術館を開く~台湾、北師美術館の挑戦~』
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art081/

「揚げパン」の「ひらめき」

 美術鑑賞の話題が続いていたので、造形活動の話に戻りましょう。「学び!と美術」3月号「ひらめきが生まれる授業」の続きを考えてみました。用いるのはNHK「チコちゃんに叱られる」で取り上げられたエピソード「なぜ給食に揚げパンが出るようになったのか」(2020年10月23日放映)です。

なぜ給食に揚げパンが出るようになったのか

 「揚げパン」は、子どもたちに大人気のメニューですが、その発祥については長く知られていませんでした。それが分かったのは、2000年を過ぎてから。NHKはその「揚げパン」が生まれた場面を番組として取り上げます。

 きっかけは「なつかしの給食 献立表(※1)」という本です。いろいろな給食の出自やレシピ、思い出などを掲載した本です。「カレーシチュー」や「鯨の立田揚げ」に並ぶ三大人気メニューの一つとして紹介されたのは「揚げパン」です。ただ、それはお詫びから始まっていました。

「揚げパンのルーツ」
 まず、最初に読者にはお詫びをしなければならない。揚げパンがいつどこで、どのようにして生まれたかは、ついにわからなかった。昭和20年後半の学校給食メニューで揚げパンが登場するのは確認できた。
 文部省にも聞いてみた。全国パン協同組合にもきいた。山崎パンにも電話した。しかし、ついにタイムオーバー。もし、揚げパンの考案者を知っていたら、ぜひ本誌に知らせてほしい。

 この本をたまたま読んだのが、元小学校教師のMさん(当時66歳)でした。Mさんは、学校の調理師をしていた父が『美味しいものが出来た』といって、揚げパンを持って帰ってきた日のことを思い出します。
 Mさんは事実を確かめるために、当時お父さんと一緒に給食の仕事をしていた養護教諭の家を訪ねます(※2)。本人は高齢で語ることはできなかったのですが、娘さん(Iさん、当時56歳)から「揚げパンを考えたのはあなたのお父さんですよ、私、見てましたから」と言われます。それは次のような経緯でした。
 昭和27年、大田区嶺町小学校、この冬は、流行性の風邪によって欠席者が次々出て、給食が多量に余っていました。昔は余った給食を、よく近所の子が放課後持っていったものです。
 ただ、この頃のコッペパンは時間がたつと固くパサパサになり、美味しく食べられるものではありませんでした。そこで、この日は、養護教諭や調理師が給食室に集まって、コッペパンを少しでも美味しくできないかと考えていたそうです。
 その時、一人の調理師が「揚げてみようか……」と言い出します。パンは、次々と揚げられ、砂糖がまぶされ、わら半紙に包まれていきました。Iさんは、当時、この小学校の3年生、養護教諭のお母さんと一緒に、この場面に居合わせていたのです。
 この調理師がMさんのお父さんです。Mさんは、お父さんが揚げパンを持って帰ってきた日のことと、Iさんから聞いた話などを手紙にまとめ、出版社に送ります(※3)。その後、栄養士会の調査も行われ、揚げパンは東京大田区嶺町小学校で生まれたことが確定されます。
 番組では、風邪が癒えて学校に登校できるようになった子どもたちが「おいしいパンを食べた」と友達に言ったこと、それが評判になって学校中に、そして全国へと広がっていったことを、温かいエピソードとして紹介していました。

「揚げパン」と図画工作

 この「揚げパン」がなぜ図画工作の「ひらめき」の話になるのでしょう。それは以下のような理由からです。
 まず「揚げパン」の「ひらめき」は、いくつもの資源が絡んだ状況的で共同的な出来事です。当時、食べ物はまだ貴重で、休んだ子に友達が給食を届けることのできる時代でした。この日は、風邪で大勢の子どもたちが休み、残菜となったパンが山ほどありました。それをなんとか美味しくしようと、調理師や養護教諭などが頭を突き合わせて、給食室で考え合ったのです。それは、何ら特殊な出来事ではなく、目の前の問題を解決するために、日々いたるところで、繰り返されている当たり前の行為でしょう。
 次に「揚げパン」は全国を席巻しますが、それは「揚げパン」が「大発明」だったからではありません。Mさんのお父さんは元西洋料理のコックでした。おそらく、乾燥したものを油で揚げれば甘くしっとりとなることを知っていたでしょう。ピロシキやドーナツなど、パンやパン生地を揚げる食物もすでにありました。パンを揚げること自体が市中で行われていた可能性もあります。揚げパンを「独創的な発明」とすることはできません。
 しかし、この頃は給食がようやく全国に広がった時期(※4)、食材の調達もままならぬ時代です。給食メニューに幅はありませんでした。その頃に、甘い「揚げパン」は、子どもたちにとって格別だったようです。また「揚げパン」は残菜率も低く、栄養士さんにとっても都合の良いメニューでした(※5)
 結果的に「揚げパン」は全国に広がりますが、給食という限定的な状況で、いわば後から、有名になったわけで、その考案の瞬間から「大発明」だったというわけではないのです。
 このエピソードは「揚げパン」の向こう側に、無数の日常的な「ひらめき」があることを意味します。「揚げパン」ほど広く認められはしなかったけれども、「美味しいものを食べさせたい」という素朴な思いと、少しでも良いものを提供しようとして生まれる「ひらめき」は、今も、全国の給食室で起こり続けているはずです。給食室は「ひらめき」の最前線なのです。
 図画工作の時間も、同じようにとらえることができると思います。後に、何かが特別な「ひらめき」になったり、あるいは、誰かが世間に役立つアイデアを思いついたりするかもしれません。でも、今、起きているのは「楽しいものをつくりたい」という素朴な思いと、複数の資源をもとに問題を解決しようとする共同的な出来事です。
 筆者には、給食室の「美味しいものを食べさせたい → パンを揚げてみようか… → 美味しいものが出来た!」は、図工室の「面白い絵を描きたい → 絵の具を混ぜてみようか… → いい色になった!」と、同じように思えます。そうだとすれば、給食室と同じように図工室も無数の「ひらめき」に満ち溢れた現場だとはいえないでしょうか。

 私たちの前には「ひらめき」が日々生まれている図工室があります。今日も、図工室で「いいこと考えた!」という子どもの声が聞こえているはずです。それは、実にありふれた風景です。でも、それこそが、かけがえのないことだろうと思います。
 図画工作や美術では、個人的な創造性を強調したり、独創的な「ひらめき」を賞賛したりすることが行われがちです。しかし、それ以前に、図工室や美術室が、そして、私たちのいる場所そのものが、名もない無数の「ひらめき」に満ち溢れているのです。
 あのアインシュタインの「ひらめき」だって、私たちの無数の「ひらめき」と無関係ではなく、世界の中で連続して存在しているはずです。何より、無数の「ひらめき」を大切にすることは、すなわち、私たち自身の存在を大切にすることに他なりません(※6)
 そんなことを「チコちゃんに叱られた」が教えてくれたような気がするのです。
 「ボーッと生きてんじゃねえよ~!」。はい、頑張ります(^^;)。

※1:アスペクト編集部・編「なつかしの給食 献立表」アスペクト(1998)
※2:元小学校教師でもあったMさんは、養護教諭が給食と深くかかわっていること(献立チェックや給食委員会担当など)を知っていたのでしょう。
※3:番組資料によると1999年12月です。
※4:ようやく全国的に給食を実施することが可能となった時代です。まだ、学校給食法も成立していません(昭和29年公布)。
※5:昭和50年代に行われた調査では、普通の食パンやコッペパンに比べると揚げパンの残食率は約半分まで下がります(前掲書46p)。
※6:本稿は横浜国立大学有元典文先生や、和光大学阿部慶賀先生とのメールのやり取りから生まれています。

「先生! 評価計画の作成で悩みます……」

 大学で「図画工作教育法」という授業を担当しています。学習指導要領や題材等を理解し、指導案が書けるようになるという内容です。学習指導要領の目標→図画工作科の内容→評価規準→指導方法→指導計画→評価計画と順序良く学習していきます。その中でも、評価計画は、実際に評価したことがない学生を悩ませるようです。本稿では、学生の感想を取り上げながら「評価」について考えてみましょう。

1.評価で悩むのは正しい

指導案の目標や指導計画などと評価を連係させるのが大変でした。評価というのは、教師の指導方法を振り返るきっかけになるのだなあと思いました。

 学生は、具体的な「評価計画」を書く場面になって、はじめてこれまでの内容を見つめ直すようです。「この題材でいいのかな……」「目標や指導観などは妥当かな」など、評価は自分が設定した題材全体の「振り返り」になっているわけです。そうであれば、評価で行き詰ったり、困ったりするのは正当な行為だと言えるでしょう。

評価を通して、指導の一つ一つの場面や単元の目標などを再設定できることがわかりました。評価を考えることも授業を作るための大事な役割なんですね

 全くその通りです! すべての教科等において評価は、教師の「振り返り」に役立ちます。

2.指導と評価は、ほぼ同時に行われます

評価をすることに一生懸命になって指導がおろそかになってしまいそうで心配です。

評価方法が難しすぎると授業や指導に手が回らなくなってしまうと思いました。

 授業が始まったら、評価のことは考えなくても大丈夫! 指導を頑張ればよいのです。
 なぜなら、人は、誰かに何かしたとき、その直前に相手を評価しているからです。例えば、何か工夫した子に「へえ、そうしたんだ」と声をかけたとすれば、それは「工夫が妥当な状態」だと認めた証拠です。のこぎりの取扱いに困っている子に駆け寄ったとすれば、それは先生が「支援しなければならない状況だ」ととらえたからです。どちらの場合も、指導する直前に評価が行われています。
 指導と評価を分けて考えないことがコツかもしれません。授業中は、子どもの支援や助言などに専念してください。後で落ち着いたときに、自分のしたことを思い出し、座席表や名簿、フィールドマップなどにメモするだけでも十分な評価資料になるのです。

3.評価方法はたくさんあります

小学校に補助員として通っています。「子どもたちの成績をつけることは難しそう」、「授業を行うことに精一杯で、毎時間子ども一人一人の評価を行うことはとても大変そう」だと、いつも感じていました。でも今は「自分を助けてくれるような評価方法は沢山ある! もっと気持ちを楽に考えよう」と思っています。

指導案の評価の部分を考えることは、子どもたちの成績を決めることにつながるという責任を感じますし、難しく感じることもあります。でも、活動の流れを見たり、学習指導要領の解説などの様々な資料を参考にしたり、子どもたちの姿を思い浮かべたりしながら丁寧に作成していけば評価できると思いました。

 指導にいろいろな方法があるように、評価にもいろいろな方法があります。様々な資料に詳細に書いてありますし、年々、新しい方法が開発されています(※1)。その中から、題材や子どもの状態に応じた最適の方法を選べばよいのです。指導と同じように、経験をつめば次第に身に付きますから焦る必要もありません。
 大切なのは教師の考え方や子どもへの態度です。指導案を書くときは、我がことのように「子どもたちの姿を思い浮かべ」、思いを寄せながら評価方法を考えましょう。方法はあくまでも方法、子どもと一緒に学習活動を楽しむことが一番大切です。

4.評価は長期スパンで

図画工作は他の教科と違って、正解や不正解があるものではない教科だと感じているため、評価するのは難しいと思いました。そのため、一回一回の授業ごとの評価ではなく、長期的な視点に立ち、1年間で子どもがどれだけ成長したのか、1年前は出来なかったけど、1年たったらこれができるようになったなどという評価が大事だと思いました。

 そう、そう。毎時間ごとの評価は、それほどこだわらなくてもいいのです。図画工作は、題材ごとに評価をまとめ、それを総括して、学期や年間の評価が決まります。後で修正することも可能です。長いスパンで考えればよいと思います。
 また、先生もスーパーマンではありません。毎回の授業で、すべての子どもをとらえられるわけではありません。そんなときは、「ごめんね、うまく見ることできなかったよ」という気持ちでA、B、Cを付ければいいと思います。「自分は完全ではない」という気持ちを持ちつつ、まずは題材レベルの評価、次にその積み重ねと、大きく構えればいいと思います。
 なお、国立教育政策研究所が『「指導と評価の一体化」のための学習評価に関する参考資料』を出していますが、A、B、Cと判断する部分が学生には難しいようです。そこで、次のように説明しています。

  • 「え~っ凄いなあ」と思ったらA
  • 「ふんふん、なるほどね」と思ったらB
  • 「あ~、ちょっと待って」と駆け寄ったらC

 「先生思いつかなかった」と想定を超えていたらA、評価規準として設定した想定内であればB、即座に支援すべき状況がCと、簡単にとらえることが大切です。それを詳しく記述しているのが指導資料・事例集だと考えてはどうでしょうか。

5.評価は子どもに温かく寄り添う活動です

ひとりひとりの感性の違いや、絵をうまくかく技術、思っていることを表現する能力など評価観点はたくさんあります。適切な評価というのは、完成した作品の上手い下手だけを見て評価することではなく、「子どもをよく見る」ということだと思いました。

 その通り。評価は、本来的に温かいものです。項目に従ってひたすらチェックするような、冷たい作業ではありません。その子に寄り添って「どんな支援をしていくか」「どのように子どもの良さを見付けるか」など、子どもをよく見て「その子の伸び」や「あの子の克服」などをとらえたいものです。
 そのために、その子に同化していくような姿勢が必要なのです。

どんなことを感じながら取り組んでいるのかを、児童と先生が、お互いに共有しながら授業を進めたいと思いました。

 頼もしい! 評価は、教師と子どもがお互いに感じたことや考えたことを共有する活動なのですね。授業という複雑な資源が絡み合う全体的な活動の中で、評価を通して、先生と子どもが認め合える温かな関係が成立できたら、それは素敵だと思います。

6.評価は、子どもとの楽しい対話

評価計画を考えることで、実際に自分が指導している姿がイメージできて、とても楽しかったです。子どもたちがこんなところを頑張っているからと座席表に記録したり、工夫しているところをカメラで写真に収めたりすると思うと、やはり教師になりたいと思えました。

児童が活動する風景を想像して評価計画を作成しました。子どもが目を輝やかせながら作品に取り組んでいる様子が浮かんできて、そういうところを評価できる人になりたいなと感じました。

 よく分かっていますね~(^^)。実際に、評価は楽しい活動です。大学の授業もオンラインになって、課題に対する採点や教員コメントなどが膨大な量になりました。でも、採点・コメントは学生との対話のようで、顔は見えないのに、顔が見えるような気持ちになる楽しい活動だと改めて思いました。図画工作の授業も同じです。評価は、子ども一人ひとりとの対話です。その対話をまとめたものが手元に残る評価資料だと考えればいいと思います。

 造形活動や作品などは、本来、その子だけで達成されたわけではありません。友達、材料や用具、場所、学習課題など様々な資源が織りなして生まれるものです。でも、評価は子ども一人ひとりに行わないといけなくて、それは致し方のないことです。
 だからこそ、評価を積極的にとらえたいと思います。「評価を通して授業を見つめ直す」~評価は教師自身のメタ認知活動です。「評価を特別視しない」~評価は不断に行われている活動であり、指導を頑張れば、自然に評価も頑張っています。「評価を通して教師の姿勢を考える」~評価は教師自身が変化する可能性を持っています。「評価は楽しい」~評価は子どもを感じ、対話する行為です。みなさんもぜひ評価を楽しんでください。

※1:学び!と美術<Vol.48>「図画工作の授業(3)~評価方法のいろいろ」
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art048/
「指導と評価の一体化」のための学習評価に関する参考資料
・図画工作 https://www.nier.go.jp/kaihatsu/pdf/hyouka/r020326_pri_zugak.pdf
・美術 https://www.nier.go.jp/kaihatsu/pdf/hyouka/r020326_mid_bijyut.pdf