OECD東北スクール④

1.レジリエンス

図1 全員でチームTシャツを着て記念撮影 OECDが、このプロジェクトが直面することになるであろう困難や混乱をどこまで想定していたのか、今となっては知る由もありません。しかし私たちが解決すべき課題は予想をはるかに超え、一つ問題を解決すると二つ新たな問題が生まれるといった「ねずみ算」のような状態が延々と続き、ToDoリストの数は500や1000をはるかに超えていたと思います。
 4月にようやく参加している高校生全員がパリに渡航できる目処がついた直後に、数名がチームからの離脱を申し出てきました。その中にはこれまでがんばってきた中心メンバーも教師も含まれていました。OECD本部に記念植樹するためにパリで育てていた桜の苗木が、全て枯れてしまったという知らせを受けたのもそのようなときでした。イベントでは、パリ側との金銭面のやりくりがうまくいかず、国際弁護士を立てて毎週のように厳しい交渉を続けました。6月にリハーサルを行いましたが、前年の12月からほとんど進んでおらず、このままで本当にパリでイベントを開けるのかどうか、生徒も大人もOECDも文科省も、その深刻の度は深まるばかりでした。
図2 OECDフォーラムにて(中央の2人が東北スクール生徒) そのような中、パリで開催されたOECDフォーラムに招待された東北スクールの高校生が、自分たちの取り組みを各国の参加者の前で報告し、大絶賛されたという知らせが届きました。フォーラムのテーマは「レジリエンス」。レジリエンスとはもともとは心理学の用語で、精神的な強いショックからの立ち直りを意味します。震災からの復興はまさにレジリエンスのプロセスであり、ボールの跳ね返りのようにむしろショックを機に以前よりも高いレベルにもっていくことも表しています。私たちの数限りない苦労はすべて「レジリエンス」に収れんしていくように思えました。
 朗報は続きます。シンガーソングライターのmiwaさんが生徒たちの手紙に共感し、私たちのためにテーマソングを書いてくれることになり、生徒たちは興奮しました。加えて、活動を停止してしまっていた生徒の何人かがプロジェクトに戻ってきてくれました。東京・丸の内の国内プレイベントの開催も決まり、また、パリイベントの様子を東北で同時中継するパブリックビューイングも実現する運びとなります。さらに、生徒たちのオファーに応える形で、被災3県がパリイベントにブースを出展することとなり、多くの企業もそれに続きました。渡航直前まで緊張状態から解放されることはありませんでしたが、生徒の頑張りと大人の頑張りが共鳴しはじめ、様々な人々を巻き込み始めたことを実感しました。
図3 文部科学省で東北復幸祭〈環WA〉の記者会見 OECD東北スクールのスタートは、生徒も大人もバラバラのビジョンからスタートしました。今数々の危機的状況を一つひとつ乗り越える経験を重ね、少しずつ構成員のビジョンが一つの方向に向かうようになっていった、ということができます。プロジェクト学習は、教科書的にはスタートの時点で参加者が共通のビジョンを持っていてそれを実現すること、となっていますが、様々な経験や学び、成功や失敗を繰り返して参加者が共通のビジョンを形づくっていくことが真の姿だと確信しました。

2.パリ、8月30日、晴天

 この年のフランスは異常気象続きで、夏だというのに毎日のように雨が降り続き、気温も20度ほどの冷夏となっていました。しかし、この日のために取っておいたかのように、当日はそれまでの天候不順がうそのように晴れ渡りました。パリが私たちの「東北復幸祭〈環WA〉in PARIS」を歓迎しているかのようでした。
 ここエッフェル塔前に広がるシャン・ド・マルス公園は19世紀末のパリ万博の会場となった由緒正しい公園で、私たちは世界で初めて、フランス国外として借り受けることができたのです。会場を訪れたアンヌ・イダルゴ・パリ市長は「この公園をあなた方に貸したことは、パリ市にとっても意義深いこと」とおっしゃいました。会期の2日間、会場には2年半の間に協力をいただいた多くの方々が足を運び、パリに集まった世界中の人々が生徒たちの発表に耳を傾け、バルーンを見上げては東北を襲った津波のスケールを想像し、プロジェクトに参加した高校生たちの努力を惜しみなくたたえました。
 サポートに当たっていた大学生に頼んで来場者数を統計的にはじき出してもらったところ、149,664人となり、生徒が掲げた無謀な成功指標の15万人にほぼ到達しました。
図4 イベントが終わってリーダーを胴上げ 翌日、朝早くから反省会と修了式とを忙しく行い、生徒たちは日仏経済交流協会からプレゼントされたセーヌ川クルーズを楽しみました。その翌日は、フランス中を探し回ってやっと見つけた東北の桜をOECDの中庭に植樹するセレモニーを行い、最後にあのマーシャルプランが締結された部屋で「2030年の学校を考える生徒・大人合同熟議」を行い、すべてを終えた生徒たちは様々な思いを胸に帰途につきました。
 「東北復幸祭〈環WA〉」の詳細は報告書を参照していただきたいと思いますが、報告書の最後の部分を引用してOECD東北スクールの紹介をひとまず閉じたいと思います。

 「OECD東北スクール2年半のあゆみは、不可能へのチャレンジの毎日であり、社会に引かれた既存の境界線を越える冒険だった。境界線を飛び越えた先から見えた自分たちの「居場所」の姿は、否応なしに私たちの「精神的鎖国状態」を揺さぶった。上記したような生徒達の大きな成長と、それを支える根のように複雑に絡み合ったネットワークは、この「鎖国状態」を打ち破る強力な武器になるのではないかと期待される。これらは、プロジェクトの第2期に引き継がれる。
 感動的なイベントを終えて生徒達が帰っていく場所、それは住み慣れた昔ながらのふるさとではなく、いまや大きな世界の一部となった自分の町、新たな発見と驚きを与えてくれる新天地であってほしい。学びは世界を開く。イノベーションは、ものごとを突き放し客観的に見ることから始まる。」

OECD東北スクール③

1.生徒たちが獲得すべき力

 初期のOECD東北スクールのカリキュラムの基本設計は、OECD側が行いました。カリキュラムは「OECDキーコンピテンシー」、すなわち「1.社会・文化的、技術的ツールを相互作用的に活用する能力」、「2.多様な集団における人間関係形成能力」「3.自立的に行動する能力」に根ざしており、定期的に生徒の自己評価でその能力の変化をモニタリングしました。しかし1年もすると、OECDキーコンピテンシーのままでは抽象的で、教員も生徒も評価しにくいということになり、独自の評価尺度をつくることになりました。
 教員や企業人、NPO、研究者らが一つのテーブルを囲んで「復興の担い手として必要と考えられる力」を、思い思いに出し合い、それをKJ法で整理し、一つのルーブリックをつくりました(表1参照)。これを参照ツールとして生徒たちが集中スクールの度に自己評価を行いました。こうした調査をすると必ず出てくるのが、能力の高い生徒ほど自己批判力が強く低評価になりがち、逆に自己評価を軽んじる生徒は高く評価してしまう、などの現象です。これを少しでも改善するために、生徒同士で相互に確認したり、教員がチェックを行ったりしました。
図1 OECD教育スキル局長イッシンガー氏を囲んで さらには、このプロジェクトには福島大学の学生もサポーターとして参加しており、教員と生徒のパイプ役として重要な役割を果たしていました。生徒たちの立場に近いことから、このルーブリックのチェックを生徒ごとにていねいに行ってくれました。
 その詳細な結果は別の機会に提示しますが、個々人の能力の変化以上に興味深かったのは、地域間の平均値の開きでした。OECD東北スクールへの参加形態は地域ごとに大きく異なっており、市内の複数校の生徒会役員で参加しているところもあれば、単一校の部活動で参加しているところ、NPOが組織しているところ、など様々でした。指導方針は共有していたつもりですが、実際の環境や指導は地域ごとに大きく異なっており、それが生徒たちの能力の変化に如実に現れます。例えば、生徒の自主性を尊重している地域の生徒の能力の伸びは著しく、教師の管理が強く活動を制限している地域の生徒の伸びははかばかしくありません。研究を進める上で、こうした差異は極めて重要な課題を提起したと言えます。

表1 OECD東北スクールルーブリック
アセスメント(5段階) 高校生 1.普通 3.クラスに1人レベル 5.県・地域で1人レベル

2.教師たちの変化

 生徒たちに新しい能力を獲得させるためには、新しい教育が必要です。新しい教育を進めるためには、そうした能力を持つ教員の存在が不可欠です。OECD東北スクールの表向きの目的は生徒の能力を高める教育プロジェクトですが、同時に新しい教育をつくる教員の研修ももう一方の重要な目的でした。集中スクールで生徒たちがワークショップを行っている間、教員は別室で国内外の教育学者の問題提起や教員の実践のレクチャーを受けたり、討議したりすることが度々ありました。
図2 佐藤学氏、田村学氏によるレクチャー そうした教員研修に対し、示される反応も様々でした。「これまでの研修で聞けなかった内容で、視野が広がった」という意見もあれば、「言っていることはわかるが、学校の現状では受け入れるのは難しいのではないか」という意見に大別されます。実際、地域ごとの活動でも、新しい実践フィールドを得たとばかりに実践の幅を広げる教員もいれば、何か新しいことをやろうとする度に周りとの間に摩擦が生じ、意欲が萎えてしまう教員や、いらだつ教員も少なからずいました。
 プロジェクト学習を進める上で、その方法論も重要ですが、それ以上に実践を進める環境、特に人的環境がきわめて重要です。プロジェクト学習は、職員会議でやることが決まったから自動的に進むというものでは決してなく、次々とやってくる新しい課題を乗り越えていくためのチームワーク力が不可欠です。志を同じくする教員が最低一人でもいることが条件です。
図3 シュライヒャー氏を招いて教員研修 そもそも、「OECD東北スクール」は生徒と同じように、メンバーが志一つにして集まってきたわけではなく、とりあえず集まった、実際プロジェクトが進むと「想定していたこととイメージが違う」という大人も少なくありません。これは非常に重要な問題です。プロジェクトの前提となるのは、同じ志を持つ人がコアメンバーを形づくることです。OECDのシュライヒャー氏(現教育スキル局長)は「PISAは5人の同志から始まった、残りは全て反対者だった」と言っていました。OECD東北スクールがうまく進まないのを見かねて「いいか、ミウラ、プロジェクトを始めるには人を選ばなければダメだ。たまたま集まった人でプロジェクトを進めるのは無理だ。」とシュライヒャー氏から諭されたこともあります。
 プロジェクトは海に出た一艘の舟、運命共同体だと、痛感しました。

3.東北復幸祭〈環WA〉in PARIS前夜

図4 パリイベントの構想を発表する生徒 文字通り無数の問題を抱えたまま、プロジェクトのゴール「東北復幸祭〈環WA〉in PARIS」まで半年と迫りました。資金調達では、パリのイベントに必要な額1億円どころか、4分の1にも届きません。パリ側で集めてくれると約束した5000万円も「0円」でした。もう既に東北への復興熱は冷め始め、支援から撤退し始める企業が増えてきたのです。世界ではその後も大規模災害が起きており、私たちの大震災も原発事故もその中の小さな一つに過ぎなかったのです。
 そのために、この段階になってもイベントの規模は決まらず、屋外ステージはできるのかどうか、象徴となるバルーンはいくつ上げることができるのか、そもそも生徒は何人渡仏できるのか、成功指標とした15万人を本当に集めることができるのか、全く見通しが持てません。パリ側のイベント会社との交渉も様々な誤解が生まれ、費用面で国際的な問題が生じました。教員と生徒の間、教員と事務局の間で数限りないすれ違いも起き続け、事務局は連日そのリカバリーに忙殺され、消耗しました。全てが泥沼状態でした。
 希望が持てず、プロジェクトから離れていく生徒、教師、スタッフも既に出始めました。

OECD東北スクール②

1.無数のハードル

 OECD東北スクールプロジェクトは華々しくスタートはしましたが、すぐに壁にぶち当たります。その数も一つや二つではなく、一つの壁の厚みもかなりのものでした。ざっと思いついただけでも以下のようなことを挙げることができます。

①まず、震災後の混乱の中で1月に実施を決め3月に第1回スクール実施と、準備期間が極端に少なく、参加者間で目的を十分に共有することができず、それぞれの理解で集まってきただけでした。この根本的な問題は最後まで影を落とすことになります。

②組織体制も曖昧で、OECDが音頭を取ってくれるものと思っていたら、オーナーシップは日本側でということになり、いつの間にやら福島大学が主催者を引き受けることになってしまいましたが、運営事務局は相変わらず2名と、その準備は全くできていませんでした。

③本省から下りてきた運営資金はプロジェクトのプロセスには使えるものの、パリイベントの経費は自分たちで調達するというのが条件でした。1億円という絶望的な額の資金を、どう調達するのか全く見通すことができませんでした。

図1 未来のイメージを表現するワークショップ

④学校や教育行政に根ざしたプロジェクトでしたが、日本の教育文化とOECDから要求される教育の質の間には大きな開きがあり、主催者は常に板挟み状態となりました。日本は形を重んじる、OECDは実質のみを評価するという具合に。

⑤当然のことながら生徒や教師はそれぞれの学校生活があり、それぞれルールに縛られています。年度末には教員の人事異動があり、生徒は高校受験や大学受験、進学があり、年度を跨いだプロジェクトを進めることで、常に学校との間で摩擦が生じました。

⑥最終的には9つの地域が参加することとなりますが、参加のしくみや進め方もまちまちで、温度差がありました。ICTを使って物理的な距離を超える、とはいったものの、実際には物理的な距離は様々な誤解を生むこととなります。

 いまふり返れば、これらの問題は物事を変えようとする場合に必然的に越えなければならないハードルでした。生徒の問題解決能力を身に付けさせるプロジェクトで、問題解決能力を一番身に付けたのは、私たち大人自身でした。

2.立ちあがるリーダーたち

図2 震災からの心の動きを曲線で表現する

 第2回集中スクールでパリイベントの企画案をまとめることができなかったことから、集中スクール以外にもリーダーを集めて定期的に会議を開催して遅れを取り戻すこととなりました。大人と生徒を別に行うのも煩わしいので、リーダー会のほとんどは生徒と大人の合同会議となりました。このプロジェクトは、生徒の能力を高めるのと同じくらい、教員ら大人も変わることを重視しており、この二つが相互に影響を与え、プロジェクトの質を高めていくものと考えました。その意味では、この合同リーダー会議はとても重要でした。
 集中スクールのワークショップで、生徒たちが時間を守らず、予定した時間内に考えをまとめられなかったのを、ファシリテーターから厳しく指摘されました。すると「もう一度チャンスを下さい! 自由時間も返上します!」と懇願してきた生徒グループが現れました。また、東北の祭には「例外なく死と再生の哲学が入っていること」などを知った生徒たちが「自分たちは何も知らなかったんだ……」としみじみと語りました。困難に直面する度に生徒たちの変化が見えだし、リーダーグループが少しずつ頭角を現すようになってきます。

図3 生徒大人合同リーダー会の様子

 そこには、東北以外のチームも大きな役割を果たしました。東北スクールにははじめから東北の外の東京チーム、奈良チームも参加していました。当事者である東北の生徒だけでは自分たちの状況を突き放して見ることができません。「よそ者」の視点から、東北の意味や課題を見つけ、東北に学びつつ的確にサポートしてくれる外部者が必要でした。この、「何でもかんでも自分たちでやろうとしない、外に助けを求め、巻き込んでいくこと」は、日本の教育文化にはありませんが、プロジェクト全体を通して最も大切な教訓といえます。
 参加生徒たちには賛同企業から貸与されたタブレットが手渡されました。生徒はSkypeやFacebookなどを駆使し、頻繁にコミュニケーションを取るようになり、プロジェクトの形が少しずつ見えるようになってきました。

3.わずかな、確実な前進

 いつまでたっても自分たちで行動を起こすことができないでいた生徒たちに、2012年末に二つの出来事がありました。一つは、文科省等が主催するサッカーのチャリティーマッチに東北スクールが招待され、そこでJリーグ選手らからたくさんのチャリティーグッズをいただきました。これをネットオークションにかけ、初めて自分たちで資金をつくりました。
 もう一つは、大手衣料メーカーで初めての資金調達のためのプレゼンテーションを行い、6000枚ものTシャツの提供を約束され、初陣を飾りました。加えてその場で、その企業が主催するアイディアコンテストに参加を促され、わずか1週間でプランをつくり提出したところ、670アイディアの中で4位という信じられない成果を収めることができました。

図4 伊達チームのゼリー開発をOECDのシュライヒャー氏が激励

 福島県の伊達市は特産品が果物でしたが、原発事故による放射能汚染、風評被害により出荷できない状況となっていました。伊達チームの生徒の祖父が、手塩にかけて育てた柿を捨てているのを見て「自分たちの手で何とかできないものか」と考えたことがきっかけとなって、JAと協力して果物ゼリーを開発することになりました。生徒たちは何度も何度もJAと交渉し、パッケージも自分たちでデザインして完成させ、販売にこぎ着けました。生徒たちの取り組みは地元の多くの大人たちを勇気づけ、いくつものマスコミに取り上げられました。
 生徒たちは、少しずつ成功体験を積み重ね、自分たちの足で前に進み始めたのです。

OECD東北スクール①

1.はじまりのはじまり

 大震災の2011年、子ども支援ボランティアの統括をして土日もない生活をしていた11月、パリからOECD(経済協力開発機構)教育スキル局が福島大学に来るので、これまでの取り組みをプレゼンできるよう準備しておくように、という指示が降りてきました。大げさではありますが、この出会いが、私ばかりか、私と出会う多くの人たちの運命を大きく動かすことになります。
 今回のOECD来日の目的は、同年4月にグリア事務総長が来日時に約束した「東日本大震災の復興支援」を具体化することでした。しかし、OECDは世界最大のシンクタンクと呼ばれ、世界各国の様々なデータを集め政策提言を行う国際機関で、一国の災害復興を行うような機関ではありません。お金や人、物の支援は一切なく、アイディアとコネクションの提供でした。

図1 OECD東北スクール参加市町村

 OECDの描くストーリーは、世界の各地で大きな災害が起きると、そこから新しい教育が生まれる、東日本大震災は1000年に一度の大災害と呼ばれ、これを機に新しい教育が生まれるはず、これを日本の教育改革に結びつけていこう、というものです。
 OECDの提案するプロジェクトは、後に「OECD東北スクール」と呼ばれる、被災地の中高生を復興支援の担い手として育てる約3年にわたる教育プロジェクトでした。OECDが被災地に課すミッションは「2014年にパリから世界に向けて東北の魅力をアピールする」イベントを開くことです。あまりに巨大で、どこから手をつければいいのか全くわからない難問だらけのプロジェクトでしたが、できる範囲内でいいから協力してほしい、と言われたので「あくまでもできる範囲内で」と返したのでした。

2.OECD東北スクールがめざしたもの

 2012年の3月に、OECD東北スクールの第1回集中スクールをいわき市で開催することが決定し、私の身辺がにわかに忙しくなってきました。「できる範囲内で」とは言ったものの、スクールの事務局を福島大学に置けないかと要請され、いつの間にやら私はプロジェクトマネージャーとなっており、採用したばかりの七島事務局長、アルバイトの3人の大学院生とでにわか仕立ての事務局をつくりました。

図2 OECD東北スクールスケジュール

 毎週のようにOECDと文部科学省を結んだ電話会議を夜遅くまで開き、第1回集中スクールの打ち合わせを重ねました。しかしこのときまではまだ、スクールのワークショップはすべてOECD側で準備してくれるので、こちら側はロジスティクスを、いわば裏方だけを担当すればいい、と考えていました。しかし、参加者リストには、福島・宮城・岩手三県の生徒や学校教員以外に、文部科学省から前副大臣の鈴木寬氏や文部科学審議官の山中伸一氏、テレビでお馴染みの池上彰氏・増田ユリヤ氏らが参加し、グリアOECD事務総長や吉川OECD日本政府代表部大使らがビデオレターを寄せられるという、こちらの想像をはるかに超えたスケールで、裏方のたいへんさに強い不安を覚えます。
 それだけではありません。同じリストには、様々な企業関係者や聞いたことのないNPO、フランスのアーティストやフランス大使館関係者、シンガポールの小学校の校長先生、加えて東京や奈良の高校生も含まれています。何がどうなっているのか、理解できませんでした。
 OECDの思惑は次のようなものでした。地域復興をめざす生徒達に必要なものは「21世紀型」と呼ばれる能力、その能力を身につけさせる教育方法はプロジェクト学習(PBL)、プロジェクト型の学習を組織するには学校のみならず、企業やNPO、自治体、研究者などの様々なステークホルダーによるネットワークが必要、そのネットワークづくりこそがこのOECD東北スクールの真の目的だったのです。いわばこのプロジェクトはOECDのアクション・リサーチであり、新しい教育をつくる社会実験なのです。このような基盤は日本にはなく、本当にこのようなことが成功するのかどうか、OECD内でも相当な議論があったと言います。

3.参加した生徒達

図3 第1回集中スクールの様子


図4 チーム〈環〉が誕生した瞬間

 2012年3月25日、4泊5日に及ぶOECD東北スクールの第1回集中スクールが始まりました。約100人の中高生が狭い会場を埋め尽くし、グリア事務総長や吉川大使らの挨拶がビデオで流されます。金沢工業大学の三谷宏治先生や池上彰氏のワークショップが続き、生徒達はこれまでにない知的興奮を味わいます。

 参加した生徒達は、自ら参加した者もいましたが、多くは「パリに行けるから(実際はその確約などはなかった)」と安易に飛びついた者や、自治体からの要請で訳もわからず参加したという者も少なくありませんでした。被災地の中高生と言っても、実際に近親者や友達を津波で亡くした生徒や津波に巻き込まれ九死に一生を得た生徒もいましたが、多くは直接的な被災はなく、自分が被災者なのかどうなのかわからないと悩む生徒、震災直後は何もできなかったからここでできることをやりたいという生徒が大半を占めていました。いわば、「普通の生徒」達によって、OECD東北スクールは成り立っていました。
 彼らが自分たちのチームにつけた名前は〈環〉でした。生徒と大人、被災者と非被災者、日本と海外が環流することを願ってつけた名前でした。

表1 第1回 集中スクールのワークショップ一覧

はじめまして!
過去から今を生きる
東北けんみんショー!

池上彰(フリージャーナリスト)

「発想力・探究力」

三谷宏治(金沢工業大学)

過去をふり返る

三浦浩喜(福島大学)

未来の自分、未来の東北、未来のニホンは?

Edmund Lim(シンガポール小学校長)
池上彰

自分のシルエットで未来予想図を描こう!

磯崎道佳(アーティスト)

バーチャルパリ旅行
チームに名前をつけよう
役割を分担しよう

Gad Weil(国際イベントプロデューサー)

誰に伝える? どう伝えようか?

梛木泰西(テレビマンユニオン)

任務遂行にはビジョンと戦略が必要!
各チームで実行計画づくり

内田和成(早稲田大学)

チームによる発表&フィードバック

鈴木寬(前文科副大臣)
丸山邦治(丸山海苔店社長)
内田和成、三浦浩喜

PBLのはじまり③

 今回はPBLそのものの実践や考え方から少し離れますが、私なりにPBLの必要性を痛感した原点ともいえるエピソードです。東日本大震災です。

1.東日本大震災と子ども支援ボランティア

図1 避難所の小学生が学校から帰ってくる

 2011年3月11日のその日、私は愛媛に出張しており、大学に戻れたのは5日後のことです。当時学部の執行部にいた私は、連日1000人を超える学生の安否確認に追われました。同時に、大学内に開設した避難所の運営を補助したり、交通網が寸断されキャンパスに取り残された学生の帰省を手伝ったりしました。また、延々と続く全学の危機対策の議論に忙殺されていました。原発事故の影響でキャンパスからも高線量が観測され、内心「結局は全てが無駄になる」という絶望感に打ちのめされました。一方で「歴史は福島に文明の転換点となる教育を求めている」という一つの信念を胸に刻んで、自分自身に鞭打ち今日に至るまで過ごしてきました。

図2 子ども支援ボランティアの様子

 大学が再開する前の5月の頭から、120人あまりの学生と教員が協働して、福島市や郡山市に避難してきた子どもたちを学習支援するボランティア活動を始めました。この活動は約2年間続くことになりますが、組織的なボランティアが初めてで、避難所や仮設住宅の状況は刻々と変わり、まさに試行錯誤の連続でした。避難所の情報はほとんどあてにならず、避難所に行っても子どもが一人もいないこともよくあり、自分たちの目と耳と足で必要な情報を整理するしかありません。避難者とのニーズが合わず、迷惑がられることもありました。被災者にとって、こちら側の計画などは何の役にも立たず、柔軟に現場のニーズに合わせるしかないということすら、その当時はわかりませんでした。学生たちは自分の就職試験を控えているにもかかわらず、ギリギリまでボランティアをがんばり抜きました。「目の前の子どもたちを置いて、自分が教員になることが想像できなかった」と言いました。

2.福島の子どもと学校

図3 仮設住宅での子ども支援活動

 避難してきた子どもたちは「悲惨」でした。「目に見える悲惨さ」は、初期段階では至る所で目にしましたが、時間とともに一定程度は解消されていきました。問題なのは「見えない悲惨さ」です。子どもたちは、家族が離散したり、「さよなら」もなく親友が引っ越していったり、信頼できるボランティアに去られたりしました。自分たちを見守ってくれる温かいまなざしを失い、人間関係は極度に断片化していました。一応は住むところがあり、食事も欠くことなく、学校にも通いはしましたが、「機能」がそろえば満足できるというような単純なものであるはずがありません。加えて、福島の子どもたちは一時期、土や植物すら触れることができず、自然学習はビデオで、水泳は教科書で学習することしかできませんでした。被災地の子どもたちの最も悲惨な部分は、このように、人間や社会、自然との本来あるべき関係性がことごとく崩れてしまった点にあります。

図4 大学に子どもたちを招待してのクリスマスパーティー

 福島県内の多くの学校もまた極度の混乱の中にありました。津波と原発事故の被害を受けた学校は校舎が使えず、住民の避難先の地域でなんとか学校を開設しました。50人しかいなかった避難先の小学校に100人近くの児童が区域外就学してきたり、一つの校舎に三つの学校が同居したりするケースも起こりました。放射能汚染の少ない地域に高校のサテライトを設置し、生徒たちは劣悪な環境の中で高校3年間を送るしかありませんでした。就学先でいじめに遭ったり、学校に適応できず不登校となったりする子どもたちもおり、転校を繰り返すうちに単元まるごと未履修という状況も起こりました。
 全ての学校が混乱していたのかというと実はそうではなく、震災の影響を受けている学校とそうでない学校が一つの街の中で混在していました。「外からの励ましのメッセージへの返事ばかりも書いていられないし、街中は混乱している時に漢字の書き取りをやらせていいのかと思うが、しかし他にやることがない」と、教え子の教師が言います。この時に、日本のカリキュラムは平常時のモードと緊急時のモードしかなく、その間がないということに気がつきました。学校が持っている「固さ」とは、ここなのだと思いました。

3.震災がもたらした「希望」

図5 土曜子どもキャンパス(キャンパスで遊びと学び支援)

 震災のもたらした混乱はまた、新しい希望も与えてくれました。
 第一に、多くの被災地の学校が避難所を開設し、わが身を犠牲にして教員が避難者をケアし、児童生徒が元気に被災者のために働き、学校は命を守る砦として機能したことです。
 第二に、多くの学校教員や教育行政の人々が「本当に必要な教育とは何か」を真剣に考える機会となったことです。これまでの教育が「これらを学べば立派な大人になるはず」という予定調和的に組み立てられていたが、そうではなかったということです。
 第三に、学校を取り巻く環境が大きく変わり、教員が集団で課題に取り組んだということです。例えばある学校では、避難先で校長室を確保できず、校長先生も職員室の一員となり、一緒に問題解決に取り組んだということもありました。

 こうした私たちの経験は、2011年から数年間の、東北の被災地や福島に限定された意味しか持たないのでしょうか。決してそうではないと思います。世界は今多くの複雑で困難な課題に直面しており、年々深刻になってきています。東北や福島は、そうした問題を一足先に体験したに過ぎない、というのが私も含めた多くの人々の認識です。

PBLのはじまり②

1.「フレップ」──学生たちのPBL

 前にも述べたとおり、私がPBLを意識して実践を始めたのはここ数年のことです。けれども、大学ではPBLならぬPBLは10年以上も実践していました。
 「フレンドシップ実習」、後に「自然体験実習」、学生たちの間では「フレップ」という愛称で親しまれていた授業を、1997年から2008年までの12年間、福島大学で担当していました。

図1 セクション会議の様子

 お互いに名前も顔も知らない新入生約80人が実践チームをつくり、夏休みに実施する2泊3日の中高生との交流活動を自分たちで企画し、実践するという授業です。多くの学生たちは「子どもたちとキャンプをして単位がもらえるおいしい授業」といって受講してきましたが、その甘い期待はすぐに裏切られ、たいへんな厳しさを突きつけられることになります。
 学生たちは「リーダー会」「開閉会」「ハイキング」「集団創作活動」「キャンプファイヤー」「文集」のいずれかのセクションに所属し、それぞれに企画をつくります。
 企画を決めるにも話し合いができない、異論が出るとすぐに凹んでしまう、にもかかわらず大学生レベルの企画にしないと通してもらえない。意欲の高い学生とそうでない学生の温度差が、人間関係にひずみをもたらします。やればやるほど混迷の度合いは深まり、ほとんどの学生が一度は「辞めたい」と考えるようになります。

2.もまれながら成長する、居場所をつくる

図2 プラネタリウムの試作

 4月には週1回だった授業が、5月には昼休みの時間を占有するようになり、6月になると夜中まで議論が続くようになり、7月になると土日もなくなり、毎日が「フレップ」を中心に回転するようになります。
 7月中旬、ようやく各セクションの企画が固まりだした頃、学生たちは長いトンネルから脱します。この時期になると、学生たちの顔つきも高校生のあどけなさが消え、大学生の顔つきになります。リーダーとしての自覚も強靱になり、一人ひとりの個性が見えてくるようになります。

図3 ビニールを貼り合わせて巨人をつくる

 8月上旬に開催する「自然体験学校」の本番は、子どもたちとの時間がまるでジェットコースターのように去って行き、学生たちはとてつもない感動を得て、それぞれの日常に帰っていきます。提出された事後レポートには、これでもかというほど、自分の変化と成長のプロセスが饒舌にしたためられています。
 彼らは大学に入学して3ヶ月で、先輩も含めると約100人の仲間を得ることになり、在学中はもちろん卒業後もネットワークは続きます。100日間に渡る「フレップ」は、コミュニケーション力や協働能力、リーダーシップ、企画・実践力を身に付けさせるに留まらず、様々な課題を抱える学生たちの「居場所」としても機能します。

図4 自然体験学校を終えて 100日間の苦労を吹き飛ばす

 12年間続けてきて、ただの一度も安定した路線上で実践したことはなく、毎回毎回新たな問題がもたらされ、スリリングな展開となるのですが、今となってはそうした「問題」こそが学生たちを成長させる要因だということを確信しています。

3.PBLとしての「フレップ」

 さて、ここまで述べると、フレップが熱狂的な「セツルメント」などのサークル活動と変わらないのではないかと思うかも知れません。
 鈴木敏恵氏(2012)(※1)は「プロジェクト」(PBLではない点に留意)を以下のように規定しています。
 ①ヴィジョンや使命感に基づき、ある目的を果たすための構想や計画などを指す。
 ②目標を決め、そこへの到達方法を考え出すもの。
 ③何かを成すこと、夢や願いを成果として目に見えるものにすること。
 ④課題解決をしつつ、ヴィジョンを実現する一連の活動。
 ⑤たった1人で完結するのではなく、チームで目標に向かう。
 「フレップ」は、子どもたちと楽しく学び豊かな交流事業をつくる(ヴィジョン)ために、自分たち(チーム)で議論・企画・実践する一連の活動ですから、プロジェクトとしての条件は満たしていると思います。
 しかしながら、同氏は「プロジェクト学習」は①ヴィジョンとゴールの明確性、②価値の自覚、③プロジェクト学習の基本フェーズの存在、④成果と成長への自己評価、⑤「一人思考」と「思考共有」、⑥他者に役立つ「知の成果物」、⑦ロジカル・シンキング(論理的思考)、⑧Selfコーチングとメタ認知、などの要素を特徴として備えているとしており、これら一つひとつを照らし合わせてみると、この当時の「フレップ」がPBLとしてどうだったのか、反省させられる点が多々あります。

 私がPBLの視点を得たのは、東日本大震災後の取り組みという大きなハードルを越えてからのことでした。

 

※1:鈴木敏恵(2012)『課題解決力と論理的思考力が身につくプロジェクト学習の基本と手法』教育出版

PBLのはじまり①

1.PBLの「必要感」

 プロジェクト学習というと、規模が大きく、複雑で、今の学校の現状から遠く離れていると考える先生が多いのではないでしょうか。実際、現場の先生と話しても「そのようなことは学んでこなかった」「経験がない」「今やっている授業で目一杯」という声が聞こえてきます。生徒も先生も必要感を持たず、形式的に進めてもおそらく成果が現れることはないでしょう。
 プロジェクト学習にとって「必要感」は最小の必要条件です。既存の授業ベースで考えればその「必要感」はなかなか生まれてこないかも知れませんが、遠足や学習発表会など学校行事を成功させたいとか、生徒達の雰囲気を変えたいとか、地域学習をして教師自身のフィールドを広げたいとか、少し視野を広げれば様々な「願い」があり、それが洗練されて「必要感」に発展していくことと思います。

2.荒れた学校の中で

図1 壁画の強度実験

 私はもともと中学校の美術の教員でした。私が教員になった1980年代は日本全国が校内暴力で荒れに荒れた時代でした。赴任した中学校も例に漏れず、私は1年間というものほとんど授業らしい授業ができない状態が続きました。学生時代に身に付けた知識や技術は全く役に立たず、授業をエスケープする生徒や遠慮なしに殴りかかってくる生徒に身も心もズタズタになり、何度教員を辞めようと思ったか知れません。しかし、初任者ながらに「この学校をなんとかしたい」、それが私のプロジェクト型実践(プロジェクト学習とは程遠いものでした)の「必要感」でした。
 それから3年後、学校は相変わらず荒れていましたが、私も少しずつではありますが、実践の足がかりをつかみ始めました。あるとき、このバラバラな全校生で1枚の壁画をつくらせたいと思いつきました。「そんなことうちの学校でできるわけがない」と先生方には反対されましたが、生徒達と話し合って実験を行い、職員会議で実行の許可が下りました。

3.集団の中で変わっていった生徒達

図2 壁画をつなぎ合わせる生徒達


図3 生徒達に守られて完成した壁画

 1枚の原画を全校生分360枚に切り分け、一人ひとりがそれをB0版大に拡大してピースを描き、それを360枚つなぎ合わせると校舎を覆うような大きさの壁画が完成し、360分の1の責任と360倍の力を体験することができる、そうなる予定でした。想定外のハイスピードで360枚のピースがそろい、ブロックごとにつなぎ合わせ、後は披露する文化祭当日を待つばかりとなりました。

 当日は朝から小雨交じりで風も吹いています。あきらめようと思いかけたときに雨が上がり風も止み、「今だ!」とばかりに屋上から壁画を下ろし始めました。半分ほど下ろしたところで突然強風が壁画を襲います。もはや失敗かと思ったときに、見守っていた1人の生徒が校舎の中に駆けていき、二階の窓から身を乗り出して、風にはためく壁画をつかんだではありませんか。それを見ていた数十人の生徒が同じように校舎の中に駆け込み、同じように絵をつかみます。さらに数十人の生徒が絵の下をつかみ、風から壁画を守りました。最初に駆け込んだ生徒は当時のヤンキーのボスでした。2番目に駆けていったのはその手下でした。生徒達が必死で絵を守るその姿は、薄っぺらの絵を何倍も厚みをもたらすことになります。当時絵を守った1人の生徒は「自分がそこにいたことを誇りに思う、うちの学校じゃないとこんなことできない」と感想を述べてくれました。

 これ以降、校内で暴力事件は影を潜め、後からふり返るとこの「事件」が学校を大きく変えるきっかけになります。「これが美術教育か?」といった批判もずいぶんいただきましたが、生徒や学校が変わったという事実は事実です。

4.現実から出発して現実を変える学び

 さて、べつに昔話をしようと思って述べたのではありません。1970年代から80年代にかけて学校が荒れていた時代、その荒れを乗り越える数多くの実践が生まれました。それらは校内暴力の対症療法としてではなく、「人」を育てる本質的なエッセンスが染み込んでいると思われてなりません。混乱のなかで、危機的状況のなかで、問題を自分事として考え、失敗を繰り返しながら実践していくこと。歴史の形成過程の中で無数に繰り返されてきたこの実践こそが教育の本質だと思っています。PBLで育てる力とは、まさに現実から出発して現実を変えていく実践なのだと思います。

【新連載スタート】はじめに──PBLへの誘い

1.アクティブ・ラーニングとは……

図1 アクティブ・ラーニングの概念(山地2014)

 学習指導要領の改訂でアクティブ・ラーニングが、にわかに注目を浴びていることはご存じのことと思います。しかしアクティブ・ラーニングの学校現場での解釈は様々で、「こんなことができるわけない」という先生から、「これまでのやり方で十分」という先生まで、その受け止め方も両極にまたがっています。前長崎大学教育イノベーションセンター教授の山地弘起氏(2014)は「アクティブ・ラーニングとは何か」で、右図のように、「振り返りシート」や「ミニテスト」から、「プロジェクト学習」まできわめて幅広い概念であるとしています。これを見ただけで、どこに注目するかによって解釈は千差万別となるわけです。
 学習指導要領の中で、アクティブ・ラーニングは「主体的・対話的で深い学び」を実現する学習方法として登場しました。逆に言えばこれまでの学びは「他人事・自己中心的で浅い学び」だったということになり、これはこれまでの大学受験制度に見られる「知識の暗記・再生」のアンチテーゼとして位置づけられている点に注意しなければなりません。すなわち「知識の暗記・再生」と「主体的・対話的で深い学び」の間には根本的な矛盾があるということ、そして後者は学校改革を含意しているということです。
 私は、あえて「アクティブ・ラーニング」という広い括りではなく、その中でも最も活動の範囲が広く構造の自由度の高いプロジェクト学習、もしくはPBLを取り上げ、子どもや若者達の学びを述べていきたいと思います。正確に言うとPBLは異なる学習方法、すなわちゴールを定めてそれを実現する方法を考えていくプロジェクト学習(Project-Based Learning)と、問題解決の方法を協働的に探っていく問題基盤型学習(Problem-Based Learning)の二種類があり、理論的には明確に区別されています。が、両者が重なる点も多いのでとりあえずPBL(プロジェクト学習)として総称させてもらおうと思います。

2.プロジェクト学習(PBL)との出会い

 さて、私はそもそもPBLの研究者ではありませんし、PBLとして意識して実践を始めたのは東日本大震災と、それに伴う東京電力福島第一原子力発電所事故後に関わって取り組むようになってからのことです。
 もともと私は中学校の美術の教員でした。私が教員になった1980年代は校内暴力の嵐が吹き荒れていた時代で、赴任した学校もかなりハードに荒れていました。教科教育の方法論だけでは全く授業が成立せず、生活指導や学校づくりの両面から進めていく必要がありました。大震災後の混乱した状況下、避難してきた子どもたちをサポートしていく上でこうした幅広い考え方はとても有効に働きました。避難所や仮設住宅の子どもたちの状況は常に変化していきます。その変化に合わせて、あるいは先を読んで計画を立てていかなければならないからです。

図2 OECD東北スクールの最終ゴール、パリでのイベントの様子

 そのような中、突如、世界最大のシンクタンクと言われるOECD(経済協力開発機構)から、「東北の震災復興に協力をしたい、大学として協力してもらえないか」という打診を受け、何が何だかわからないままに、「OECD東北スクール」という国際プロジェクトの統括責任者を引き受けることになってしまいました。PBLを通して、東北の高校生達に様々な活動を積み重ねさせ、震災復興に留まらず21世紀を力強く切り拓いていく力を身に付けさせるという、これまでの私の経験をはるかに超えるプロジェクトでした。約3年間というもの、職業が変わるほどこのプロジェクトに巻き込まれていくことになり、結果的にこの成果が新しい学習指導要領の改訂に影響を与えることとなり、私自身の人生も大きく変えることになります。

図3 地方創生イノベーションスクール2030で、地方創生について議論する中高生達

 このプロジェクトはやがて全国規模のプロジェクトにその趣旨は引き継がれ、「地方創生イノベーションスクール2030」という形をとって現在も進行しています。このような現状も報告しながら、PBLを通したアクティブ・ラーニングの輪郭線を具体的に描き出し、学校改革の可能性に結びつけていきたいと思います。