学び!と共生社会

2026.04.28 <Vol.75>

日本の近代教育創始期における障害者包摂の萌芽 ―小西信八の貢献

大内 進(おおうち・すすむ)

日本の近代教育創始期における障害者包摂の萌芽 ―小西信八の貢献

1.はじめに

 日本の近代教育は明治時代から始まっていますが、日本の近代公教育における障害児教育の創始期に最も貢献した人物の一人に小西信八がいます。
 小西は、近代障害児教育の確立に多大な貢献をしているのですが、小西の業績について調査を進めていると、障害者包摂の意識をもって通常の教育への障害児教育の浸透を画策した人物でもあることがわかってきました。そこで、今回は近代教育草創期において通常の学校での障害がある子どもの教育に尽力した小西信八のこの方面での業績をたどってみたいと思います。

2.小西信八について

 小西信八は、江戸末期の1854年(嘉永7年)に現在の新潟県長岡市に生まれました。江戸幕府を中心とする旧体制と明治新政府を樹立しようとする勢力との間で起きた内戦、戊辰戦争で長岡が戦火にまみれ、小西は少年期に流浪の悲劇を味わうという体験をしています。このことは、後の小西の人間観、教育観に多大な影響を与えることになります。小西は、戊辰戦争後に復興した長岡で学び、地元の小学校等の教師となりますが、1878年(明治8年)に志をもって上京し、東京師範学校に進学します。師範学校卒業後は千葉県の中学校や女子師範学校の教師を経て東京女子師範学校附属幼稚園監事としてその運営にあたり、草創期の幼児教育の基礎固めに力を尽くしました。フレーベルの教育論を紹介し、フレーベルの恩物をわかりやすい和語の名称にしたのは、この時期の小西の功績の一つです。
 1886年(明治19年)に私立だった楽善会訓盲唖院(らくぜんかいくんもうあいん)(盲学校)が官立に移管されることになりますが、その再興の立役者として小西に白羽の矢が立ち、訓盲院の専任職員として経営を任されることになりました。楽善会訓盲唖院が官立に移管されて東京盲唖学校となると、小西は校長心得(代行)を経て正規の校長となり、視覚障害がある人や聴覚障害がある人への教育の充実に尽力します。
 1910年(明治43年)に東京盲唖学校は東京盲学校と東京聾唖学校に分離発展することになりますが、その立役者も小西信八でした。分離後、小西は東京聾唖学校校長となります。視覚障害がある人への教育に比べて聴覚障害がある人への教育にはコミュニケーション方法など、より多くの取り組むべき課題が残されていたからでした。
 1925年(大正14年)3月に校長職を辞するまで、聴覚障害がある人とのコミュニケーション方法の開発と教育の充実発展に多大な貢献をしました。

3.小西信八の障害がある子ども教育への貢献

 小西は聴覚障害がある子どもの指導で、東京盲唖学校時代に伊沢修二の指導を受けてグラハム・ベルが広めた「視話法」に取り組みました。小西の生徒の一人である吉川金造がそれを修得し、両親を大いに喜ばせたという逸話が残っています(*1)
 聴覚障害がある人とのコミュニケーション方法に唯一無二のものを見出すことは難しく、小西は筆談や手真似(手話)も取り混ぜて、生涯に渡って聴覚障害がある人とのコミュニケーション方法の開発に取り組みました。しかし、聾唖学校長の後期には、口話法が「国家に有為な日本人」を育成するという政治的な目標と結びついて台頭してきたことも影響してか小西は体調を崩し、失意のうちに聾唖学校校長を辞すことになりました。小西が退職した後の1933年(昭和8年)には、全国盲啞学校長会議に出席した鳩山一郎文部大臣が「全国聾唖学校では口話教育に奮励努力せよ」(*2)との訓示を述べたとされ、学校教育において純粋口話法が跋扈することとなり、教育の分野での小西の存在は埋没してしまいました。なお、現行の学習指導要領では、「児童の聴覚障害の状態等に応じて,音声,文字,手話,指文字等を適切に活用して,発表や児童同士の話し合いなどの学習活動を積極的に取り入れ,的確な意思の相互伝達が行われるよう指導方法を工夫すること。」といった方針が示され、手話の活用も認められています(*3)
 視覚障害がある人への指導では、フランスのルイ・ブライユが考案した点字を導入し、日本点字の開発に寄与しました。日本点字を翻案したのは石川倉次ですが、そのきっかけをつくり、翻案作業を支えたのは小西でした。海外では自国の盲人用文字を選定するにあたって「点字戦争」と称されるような開発者間での争いも起きました(*4)。しかし、日本では小西の思慮深さによって適切に合意形成がなされたため、関係者の総意として石川倉次案が日本点字として採択されることになりました。日本点字の体系は、1901年(明治34年)4月22日の官報において告示されました。 視覚障害教育の分野では、小西の周到なマネジメントによって禍根を残すことなく日本点字が成立したといえます。

4.障害児教育の通常教育での対応にも尽力した小西信八

 小西の教育観は、当事者の立場に立ち、社会的自立を支援しようとするものでした。東京盲唖学校在任中に1年9か月に渡ってアメリカやヨーロッパの教育事情も視察した小西は、障害がある人が社会の中で生活している姿に大いなる影響を受け、障害がある人も等しく「国民教育を受ける権利があり、保護者はその子女を就学させる義務があり、国はそれを補償する義務がある」という思いをより強く抱くようになります。小西は様々な方法を駆使して、その実現に向けて尽力しています。

(1)東京師範学校のネットワークの活用

 小西は、東京師範学校同窓会である「茗渓会」の発足当初からその運営に関わっています。東京師範学校は日本で最初の教員養成機関として設立され、全国の師範学校のモデルとしての役割を担いました。卒業生は全国各地の師範学校へ赴き、教員や校長として指導的役割を果たしていました。
 小西は茗渓会に積極的に関与したのですが、それは、全国各地で教育分野での指導的役割を担う人材を輩出しているこの組織の人脈を頼って、障害がある子どもへの理解・啓発の促進を企図したからです。
 茗渓会の会合や集会には積極的に参加しました。その際に妻のうめさん手製の布袋に煎り豆を詰めて持参しました。会議中に茶菓として出し、終了後には、空になった布袋を回して、盲唖教育のための義援を募ったのです。これは単に寄付を募るだけでなく、当時の小学校や中学校で核となって活躍している教育者に障害がある子どもの存在を知らしめ、それを通常の教育にも反映させるよい機会ともなっていました。同窓会員の中には地方の師範学校長の要職にある者も少なくなく、その影響は大きかったといえます。小西は、東京師範学校同窓会を公私問わず最大限に利用したのでした。

(2)積極的な学校見学の誘い

 小西は、師範学校の学生に対しても盲唖学校の参観を積極的に働きかけました。これはとても高尚で遠大な着想でした。師範学校卒業生は全国各地の学校に就職します。将来の教員が、障害がある子どもの存在を知り、その教育法の一端を知ることは大いに意義あることです。障害がある子どもに出会った際に、通常の学校で受け入れることができないにしても、的外れの指導や指示をすることから免れるためです。また障害がある子どもの教育に関心を持ってくれれば、将来中心となって活躍する教員の輩出も望めます。後に東京盲学校校長となった秋葉馬治はその典型ともいえます。
 秋葉馬治は次のように書き残しています(*5)

 私が小西先生を知ったのは、師範学校生徒時代東京に修学旅行にきて、東京盲唖学校を訪れた時である。今でこそ修学旅行団の視察箇所は他方面になり、またモタナイズ(著者注、mortornize 計画が自動的に進むようになっていること)してきたが、当時は必ず東京盲唖学校を訪問したものである。その時小西先生は自ら私共に会ってくだされ、親しく諄々と盲唖教育を説明された。人格崇高、温厚篤実、教育者というものはかくあらねばならぬと思わせられたものである。

(3)師範学校に学級の設置の着想

 小西が、障害がある子どもの教育を普及するために全国の師範学校付属小学校に障害がある子どものための特別学級を設置するよう働きかけたことも忘れてはならないことです。
 海外視察中に、欧米諸国の取り組みを見聞して大いに影響を受け、帰国後はこの面に特に力を注ぎ、講演や会合などの機会に唱道し、政府に対しては法規の改正に向けて強く働きかけました。
 1902年(明治35年)5月24日の卒業式における式辞では次のような一節が語られていますが、これはその一例です(*6)

 昨年三月来調文部省学事年報によれば学齢児童中四千六百八十名 亜人六千二百五名あり、之を三府四十四県に平均すれば、盲人九十九名余り、亜人百二十八名余り、毎県に本校現在生徒に近き数を有せり、然れども今〇に書く件に盲唖学校を特設するは経済の許さざるを以て、せめては各師範学校付属小学校に訓盲教の二室を付設し、師範生の授業法見習の便に供せられ、卒業の後赴任地に於て多数の盲唖生を見出すに臨み、校内に付設する方法を講究せしめられなば昨年より実施の新小学校令第十七条の活用を見て盲唖教育を普及せしむる一便法なること疑いなし。

 この式辞の中にあるように1900年(明治33年)の改正小学校令において、小学校に盲唖学級を附設することが認められています(*7)

第二章 設置
第十四条 市町村ハ市町村又ハ其ノ区ノ負担ヲ以テ高等小学校ヲ設置スルコトヲ得
町村ハ数町村ノ協議ニ依リ町村学校組合ヲ設ケ高等小学校ヲ設置スルコトヲ得
前項ノ町村学校組合ヲ設ケ又ハ之ヲ解カムトスルトキハ郡長ノ認可ヲ受クヘシ
郡長ハ前項ノ場合ニ於テハ府県知事ノ指揮ヲ受クヘシ
第十五条 市町村立高等小学校ノ設置及廃止ハ府県知事ノ認可ヲ受クヘシ
第十六条 私立小学校ノ設置ハ設立者ニ於テ府県知事ノ認可ヲ受ケ其ノ廃止ハ之ヲ府県知事ニ届出ツヘシ
第十七条 前三条ノ規定ハ幼稚園、盲唖学校其ノ他小学校ニ類スル各種学校ニ関シ之ヲ準用ス
幼稚園、盲唖学校其ノ他小学校ニ類スル各種学校ハ之ヲ小学校ニ附設スルコトヲ得

 この改正小学校令に続いて、1907年(明治40年)4月17日付文部省訓令第6号「師範学校規定、師範学校付属小学校の部」には、師範学校付属小学校に特別学級を設置することが加えられました(*8)

 付属小学校に於いては規定に示せる学級の外なるべく、盲人、唖人又は心身の発育不完全なる児童を教育せんがため、特別の学級を設け、之が教育の方法を攻究せんことを希望す
蓋し斯くの如き施設は従来多く見ざる処なりと雖も、教育の進歩と文化の発展に伴ひ、将来に於ては其の必要あるを認むるを以てなり。

 この結果、1907年初めには、全国各地の師範学校付属小学校に特別学級が設置されるようになります。 宮城(明治三十五年唖生部)、徳島(明治四十一年盲唖)、高知(明治四十一年盲唖部)、群馬(明治四十一年訓盲)、千葉(明治四十一年盲部)、和歌山(明治四十二年九月盲唖学級)、三重、奈良高等女子師範学校などに付設されていることが確認できています。
 これらの法規の改正には、小西信八の協力で粘り強い働きかけが寄与しているのです。なお、この「明治40年文部省訓令第6号」については、中村満紀男・岡典子(2016)に詳細な分析がなされています(*9)

5.おわりに

 障害がある子どもの教育は、近代教育の始まりと共にスタートしているのですが、一貫して分離教育が推進されてきたように外形的には受け止められるものの、通常の教育における理解啓発の重要性を認識し、その充実発展に向けての努力もあったことが小西信八の軌跡から知ることができます。現代流のインクルーシブ教育が意識されていたわけでは全くありませんが、通常の教育への障害児教育の浸透に柔軟な姿勢で尽力したことは、現在の「インクルーシブ教育システムの構築」にもつながるところがあるように思われます。
 残念ながら、師範学校付属小学校における特別学級の附設は広く浸透することなく、附属学校は実験学校としての性格を有しながらも、各地のエリート校として広く認識される存在になっていきました。しかし、国立教員養成大学の見直しの動きの中では、次のような文言も認められます。

 非教員養成系の大学に置かれている学校、あるいはいわゆるエリート校と呼ばれる学校についても同様に、すべての国立大学附属学校は、附属学校の本来の使命・役割に立ち返り、多様な入学者選考の方法を実施すべきである。(*10)

⑤特別支援教育への寄与
 教員養成系大学・学部のほぼ全てに特別支援学校がある特性を活かし、附属学校間のネットワークを構築しながら、発達障害のある児童生徒への対応、指導方法等についての調査研究を進める。
 さらに、附属学校を特別支援教育の理解と実践を深める場として位置付け、附属特別支援学校において附属小・中・高等学校等の児童生徒の体験活動、附属小・中・高等学校等教員の特別支援教育に関する研修などを実施するとともに、附属小・中・高等学校等での日常的な教育活動で特別支援教育の視点を重視した取組を進める。
 また、附属特別支援学校において、児童生徒の社会での人間関係の構築の仕方や職業観等を涵養する学習活動に関する調査研究を実施する。(*11)

 小西信八は、強引かつ拙速に対応することに気を付けながらも、常に当事者の立場に立って物事を考え、主張すべきことは主張し、教育の改善に努めました。本稿で示したように、障害がある子どもの教育を発展させるためには、通常の学校や教員の理解が不可欠として、法規の改正への取り組みや関係者への働きかけを惜しみませんでした。
 小西の描いていた通常の教育への障害児教育の反映は一代限りで潰え、小西の評価は一部の研究者の間だけに留まっていたように思われますが、「インクルーシブ教育システムの構築」との関連において、改めて精査することは大いに意義深いことと受け止めています。

*1:愛知県立豊橋聾学校創立百周年記念事業実行委員会(1998)『聴覚障害教師の嚆矢吉川金造先生』
*2:一般財団法人全日本ろうあ連盟(2022)「文部科学省に「ろう教育について」の要望書を提出」
https://www.jfd.or.jp/info/2022/20220711-yobo05-monbu.html
「全国盲啞学校においては、聾児の日本人たる以上国語の理解は大切であり、国民思想涵養のためにも全聾唖学校では口話教育に奮励努力せよ」の記述が認められるという。
*3:文部科学省(2020)「特別支援学校幼稚部教育要領 小学部・中学部学習指導要領」
https://www.mext.go.jp/content/20200407-mxt_tokubetu01-100002983_1.pdf
*4:京都大学点訳サークル(2011)「点字以前の盲教育」
http://kyototenyaku.g1.xrea.com/nf/nf11_2.html
*5:秋葉馬治先生祝賀会編(1964)『秋葉馬治先生伝』
国会図書館デジタルコレクションで閲覧可
*6:官報第5667号(明治35年5月28日)
国会図書館デジタルコレクションで閲覧可
*7:文部科学省(1900)「小学校令改正(抄)(明治三十三年八月二十日勅令第三百四十四号)」
https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318016.htm
*8:官報第7136号(1907)「文部省訓令第6号」
国会図書館デジタルコレクションで閲覧可
*9:中村満紀男・岡典子(2016)「師範学校附属小学校特別学級設置勧奨に関する明治40年文部省訓令第6号の政策的再評価」『福山市立大学教育学部研究紀要』4,pp.69-83
*10:文部科学省(2017)「教員需要の減少期における教員養成・研修機能の強化に向けて -国立教員養成大学・学部、大学院、附属学校の改革に関する有識者会議報告書-」
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/077/gaiyou/__icsFiles/afieldfile/2017/08/30/1394996_001_1.pdf
*11:文部科学省 国立大学附属学校の新たな活用方策等に関する検討のための有識者会議(2009)「国立大学附属学校の新たな活用方策等について」
https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/giji/__icsFiles/afieldfile/2009/04/02/1259551_15.pdf