対談 『13歳からのアート思考』(後編)

末永幸歩先生と筆者

 前編では出版の背景や子どもとアートの関係について語っていただきました。後編では、本書で最も伝えたかったこと、アートは世界の見方であり、生きる上での基盤だということについて伺っていきたいと思います。

美術の授業という宝

筆者:私は図画工作や美術の中には、ビジネスや医療など多くの場面で役に立つようなたくさんのお宝があると思います。もちろん、薬として役立つ草花が、そのために咲いているわけではないように、アートはアートであることが大切です(※1)。でも、美術を美術教育の中だけで消化するのはもったいないと感じています。ですから、先生のご著書が18万部を超えて多くの人々に届いた=美術で大切にされていることが広がったように感じて、すごくうれしかったんです。それが読後の第一印象です。
末永:ありがとうございます。執筆しながら、美術が好きな人や教育者だけでなく、一般の人たちにも届けたいとずっと意識していました。
 でも、それは当たり前のことです。なぜなら、そもそも授業の相手である生徒は「美術が好きな人や教育者だけ」ではないですよね。美術が嫌いな子もいるし、縁のない子もいます。授業に取り組もうとせず反発しちゃうような子もいます。そんな子どもたちが、美術の授業を通して自分なりのものの見方で立ち止まって考えたり、アートって面白いと思ったりしてくれる喜びを経験してきたので、本書は美術が好きな人々ではなく、普通の人々を対象に、そこで美術を語り合いたいと思って書きました。

筆者:それが、巷に出回っている本と違う点でしょうね。今、本屋にいくと「~のつくり方」「~の教科書」など、ずらりとノウハウ本が平積みされている。知人はノウハウ本全盛の傾向について『多くは因果律で止まっています。ヘタをすると「成功した自分(著者)の真似をすればいい」で終わっています。』(※2)と指摘しています。
 一方、この本は『13歳からのアート思考』と銘打ってはいますが、アート思考の方法を示すというよりも、読者とアートを通して対話するというか、アートを経験するというか、読者が授業に参加しているような感じがします。しかも扱われているのは、特別な話ではなくて、普通の授業でも取り扱われている内容です。固定的なノウハウや「これが新しい考え方だ!」のような思想を押しつけているわけでもありません。
末永:そこはとても意識していました。まず、ハウツーにならないようにしたい、やっぱりハウツーをいくら教えたところで、それを使える場面ってすごく限られているじゃないですか。でも自分で考えていく力があれば、いろいろな場面で応用することができます。本の中に全ての答えがあるとか、ハウツーみたいなものをつめこんで伝えるとかではなく、本をきっかけにして、読む人の中で答えが構築されたり、考えが生まれていったりするといいなと思っていました。
 だって、私自身、子どもたちが「美術の授業では何を言っても認められるんだ」とか「こんなことをしても先生ダメって言わないんだ」とか言いながら、自分なりの探求をしていく姿を観るのがすごく好きだったんです。
筆者:よく分かります。私たちは授業で「ノウハウだけ」を教えているわけではないですよね。多くの人は「かけ算九九」や「面積の公式」などのノウハウしか覚えていないのでしょうけれど、それを学んでいる場面では、九九のつくり方とか、面積の求め方など、みんなで「ああでもない、こうでもない」と考え合っています。そこに身を投じているというか、一緒に考え合っているのが先生という仕事ですよね。

末永:はい。ですから、普段の授業と同じように難しい言葉は使いませんでした。子どもたちをイメージしながら書いていくと、「これくらい知っているだろう」「これを知らないと読み進められない」みたいな前提は成り立たないですね。なので、フォーヴィスムやキュビスムなど、美術の専門用語を一切出していません。もちろんキュビスムという言葉は、美術の人々には簡単な知識で、美術史を理解するには必要な概念かもしれませんが、そんな簡単な言葉ひとつでも子どもは躓くというか、微妙なモヤモヤを抱えてしまいます。大人も同じで、言葉の意味がはっきり分からないと、それ以降の対話が入ってこなくなってしまいます。それよりも「読みながら考える」ことを大切にしたのです。
筆者:私だけの感覚かもしれませんが、上から目線で書かれた本ではないと感じました。というのは今、いわゆる「おこぼれを授ける」感が大変気になっているからです。
 美術や美術教育が世間一般的にブームになって久しく、そのきっかけをつくっておいてこう言うのも何ですが、ブームに乗ったほとんどの本は「あなたたち、知らないでしょうけど、美術はすばらしくて、美術館はアートの殿堂で……」というような大上段から始まって、その場所から「こんなすばらしい鑑賞法があって」「アートにこんな効果があって」というように教えや教義を授けている、そんな感じがするんです。
 でも、私の知っているビジネスパーソンやNPOなど様々な人は、そのようなアプローチに対して「つまんない」と言うんです。市井の人々は侮れないというか、美術館や美術教育の問題点を見抜いていると思います。
 でも、末永先生の本はピカソやデュシャン、ポロックなど、美術の授業で取り扱う宝物を高邁なものとして押しつけるのではなくて、一緒に楽しませてくれました。言い換えると、美術の授業を18万もの人々に実現してくれた。「美術の授業が本になった!」という喜びを感じたのです。
末永:そうだとしたらうれしいです。

アートは生きる基盤?

末永:「アートって何だろう」と考えたとき、それは目に見える静止した作品だけではないですよね。アーティストがどんなふうに世界を見つめたのか、そこからどう模索して自分の世界をつくったのか、そうしてできあがった作品がどのような新たな問いを社会にもたらすのか……と考えると、アートを「美術」や「学校の美術や図画工作の時間」だけに押し込めてはもったいないなと思います。
 これまでいろいろな授業やワークショップをしたり、本や論説を書いたりしてきたんですけど、そこで触れ合った人々は、自分の生活の中にアートを展開させたり、そこで何かを感じたり、何かの折にアートな考え方をあてはめたり、置き換えたりしてくれているのかなと思います。そうだとしたら、アートは全ての学びの基盤というか、生きる上の基盤になるものなんじゃないかなと思います。
 最近、総合的な探求の時間や教科横断の授業、あるいは集会のような場で話す機会も多くて、それって、読者が、アート=美術ではなく、生きる上での基盤と考えてくれたからじゃないかなと思います。
筆者:本書を18万超の人々が手に取ったのは、そこなんでしょうね。美術の授業は、世界を自分なりに広げていくこと、友達と一緒に世界を耕していくことで、人間はそれを3万年やってきた。その一番の根っこの部分がアートだとすれば、その地点で子どもとアーティストはつながるのでしょう。
 私はそれを「生存価」と呼んでいますが(※3)、『13歳からのアート思考』は、アート思考の解説本ではなく、アーティストが苦しんだり楽しんだりしたことが追体験できるような、縁を深める「生存価」の本なのかもしれませんね。
末永:固定的なものの見方や学校で教えられていた正解などは、別の角度から観たら全く異なる世界が見えたり、別の答えが引き出したりできると思います。アートでもその点が大事だとすれば、作品を正しく見る方法や上手に絵を描ける方法などを学ぶことだけが美術の授業の役割ではないように思います。
 自分のものの見方で世界を見つめなおすとか、今あるものを疑ってみてもいいんだよとか、自分が違和感を覚えたときに立ち止まって考えようよとか、そんな授業であれば、それは日常生活や仕事に役に立つのではないでしょうか。
 例えば、私はよく「新聞紙で何ができる?」というワークショップをやっています。新聞紙を一束渡して、造形遊びみたいにして遊ぶのですが、まるめたり、ちぎったりはもちろん、野球のバットをつくる人がいるかと思うと、新聞紙の文字の部分を切り抜いて言葉を並べる人もいます。ただひたすらただ高く積むなどの行為を追う人もいます。
 興味深いのは、作業後にみんなで対話するときのこと。「この作品をこういう構図や意図でつくりました」と話す人はまずいません。作品についての言及はほとんどなくて、「はじめに新聞紙に触ったときにこんな感じがして、こんなことをしてみた」とか「他の人を見てこう思い付いた」とか、作業のプロセスや、自分の感じたこと、考えたことなどを自然と話すんですよね。
 このワークショップで大事にしているのは、実は作品の出来栄えじゃなくて、制作過程において何を考えていたのか、どんな模索をしたのか、それによって自分がどう変化したのか、といったポイントです。
筆者:それ、よく分かります。私もワークショップで、ある美術作品を見せて、次にモールと色紙を渡して「何かつくってください」という鑑賞のエクササイズをやるんですが、できた後に話し合いをしてもらうと、作品だけの説明をする人は誰もいないですね。やっぱり「こうしてたら、こうなって」「このとき、こんなことを感じて」など、ちゃんとプロセスや自分の感覚、考え方などを語ります(※4)

末永:『13歳からのアート思考』 出版後に、ビジネスの世界の人たちから「変化が大きくて、先行きの見通しが立たない今の時代において、新たな価値を生むアートの授業をしてほしい」という声をたくさんいただきました。もともとビジネスに役立てる目的を第一に書き始めたわけではないので、ちょっと迷いはありましたけど、私がこの本で伝えたかったことは、いろんな人がいろんなふうに解釈してくれることでしたから、もし、私の本でいろいろ学びが深まったり、いい仕事ができるようになったりしたのなら、出版した意味はあったかなと思います。出版を通して私自身も変化しましたし、私は変わらず私が志すアートの授業を展開していければいいので……(笑)。
筆者:ある中央省庁の幹部が「日本という国はもう人口も増えないし、経済もGDPもあがらない。このままだとおそらく『かつて栄えた国、日本』になってしまう。これから日本がやっていかなきゃいけないのはアートだ」と熱く語っていました。おそらく、今後アートがますます重要になっていくことだけは確かなのでしょう。末永先生にはその担い手のお一人としてますますご活躍ください。本日はありがとうございました。
末永:ありがとうございました。


末永 幸歩(すえなが・ゆきほ)

武蔵野美術大学造形学部卒業、東京学芸大学大学院教育学研究科(美術教育)修了。
東京学芸大学個人研究員、九州大学大学院芸術工学府講師、浦和大学こども学部講師。
「絵を上手に描く」「美術史を丸暗記する」といった従来の美術の授業に疑問を感じ、アートを通して、自分なりのものの見方で「自分だけの答え」をつくることに力点を置いた探究型の授業を中学校や高等学校で実践してきた経験を持つ。
現在は、全国の教育機関や企業等で、年間100回を超えるワークショップや講演を行う。
日経STEAMアドバイザー、Eテレ「ノージーのレッツ!ひらめき工房」監修、ニュース共有サービス「NewsPicks」プロピッカーなど兼任。様々な企業や団体とアートや教育に関する事業共創に力を注いでいる。
著書に18万部を超えるベストセラーとなった『13歳からのアート思考』(ダイヤモンド社)、動画コンテンツに『大人こそ受けたい「アート思考」の授業 ─瀬戸内海に浮かぶアートの島・直島で3つの力を磨く─』(Udemy)などがある。

※1:学び!と美術<Vol.114>『美術鑑賞の現在地 後編(2010~) 第2回 ビジネスと美術鑑賞(1)』(2022)
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art114/
※2:奥村高明・有元典文・阿部慶賀編著「コミュニティ・オブ・クリエイティビティ ひらめきの生まれるところ」日本文教出版(2022)p.221
※3:生存価とは、「種」の生き残りやすさに寄与する性質のこと。言い換えれば、「飯を喰うのには不要」だけど「生きるのには必要」なもの。例えば脂肪には「生存価」があり、脂肪の形でエネルギーを蓄えられた方が飢餓に強い。言葉を交わし合えれば、生きるために必要な共同作業の精度が上がるので、言語にも「生存価」がある。同様に「歌やお絵かきにも「生存価」があるのではという考え方。学び!と美術<Vol.98>『対談:生存価としての図画工作・美術』(2020)
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art098/
※4:科学研究費補助金基盤研究(B)平成24-26年度「科研費美術館の所蔵作品を活用した鑑賞教育プログラムの開発」(研究代表者:一條彰子)の調査におけるナショナル・ギャラリーで受講したワークショップをもとにしています。

対談 『13歳からのアート思考』(前編)

末永幸歩 先生筆者

 『13歳からのアート思考(※1) 』という本が17万部のベストセラーとなりました。内容はまさに美術の授業!美術教育の本がベストセラーになるというは初めてのことでしょう。今回、著者の末永先生をお招きして、その背景やテーマなどいろいろなお話をお伺いしたいと思います。

美術の授業から生まれた本


筆者:まず『13歳からのアート思考』を出したきっかけをお聞かせください。
末永:学校で美術の授業をしていて、生徒たちの反応を見ていると「実はすごく面白いことしているんじゃないか」と感じることが多かったんですね。それで、授業の様子を書いた資料を配布するなど、他の先生にも何とか伝えようとしてみたんですけど、なかなかうまくいかなかったんです。でも夫に授業の話をすると……夫は普通のビジネスパーソンで、美術に興味のない人なんですが、それでも「面白いね」と言ってくれて。そこで自家製本というか、書いたものを冊子のような形にして、簡単な表紙も付けてみたんです。
 動画やWebという方法を選ばなかったのは、本は読者のペースで考えながら読むことができますし、一連のまとまりをもったものからです。授業って、一方向的に視聴させたり、一部分だけ切り取ったりしても伝わらないですよね。読者が主体になって考えたり、前後の流れが全部あってこその授業と思ったので、まとまった授業の内容を伝えるには本が一番いいんじゃないかと。そうしてまとめた本を、たまたま夫が仕事でつながりのあった方に渡して、そこからどんどん縁がつながり、出版することになりました。
筆者:美術の授業実践から始まって、生徒、家族、仕事先と、縁が転んでいったんですね。「世界は因果だけでつくられているわけではなくて、縁起で成り立っている」というのはお釈迦様がおっしゃったことらしいですが(※2) 、名画についても「名画は描かれたとたんに名画になるわけじゃなくて、いろんな縁や動きで名画になっていく」ことを、多くの人々が指摘しています。
 ちょっとWebを引けば分かりますが、19世紀まではダ・ヴィンチよりもラファエロの方が評価は高かったそうです。しかし1911年、『モナ・リザ』がルーブルから盗まれてしまいます。盗難後、『モナ・リザ』のあった場所だけぽつんと空いている写真を見ると、『モナ・リザ』はあくまでも多くの絵の一枚に過ぎなかったことが分かります(※3)。ですが『モナ・リザ』は盗難にも遭いましたし、アメリカに持って行ったときに700億円ぐらいの保険がかけられるなど、その後も様々な縁があって最高の名画になっていきます。
 美術そのものが縁起、そして美術の授業も縁起、そこからの出版も縁起ってなかなか素敵な話ですね。その後もいろいろな縁が広がったのではないですか?
末永:はい。この本を出してから、すごくたくさんいろんな場でワークショップ、講演会、授業をすることになりました。はじめは、本を読んでくださった方々がほぼ100%だったので、本に書いてある、これまで行ってきた授業を行えばいいかなと思ってたんですけど、そうはいかなかったですね。なぜかというと、そもそも授業がそうですけど、実際授業を見てみると、子どもたちの反応を通して気付いたり、伝え方によって違うニュアンスになっていたり……本書も、自分の授業をベースにしながら、出版するまでの1年間に元の授業とはずいぶん異なるものになりました。今も出版、講演会、ワークショップなどを通して、自分自身が変化している感覚です。
筆者:なるほど、今も縁起は進行中で、しかも、その縁を通して先生自身も変化し続けているんですね。この本は、その貴重なひとつの「切片」なんですね。
末永:そうかもしれません。

アートと子ども


筆者:
それでは本書の内容についてお話をいただけますか?
末永:本書は20世紀のアートに絞って、アーティストが苦悩したり、格闘したりしたことをもとに、読者と対話を進めています。
 そのひとつが、ピカソの「子供はみんなアーティストだ」という有名な言葉です。多くの人は、子どもが思い切り描いた絵を、私たちのものの見方で「アーティスティックだ!」ととらえる、そのような意味で納得していると思うんですが、決してそうではないですよね。
 子どもは自分なりのものの見方で世界を観ている。そこから活動が生まれていくというか、模索をしている。それは、ピカソはじめ20世紀のアーティストたちが試みてきたことでもあります。自分なりの見方で世界を見て、自分なりの答えをつくっていく……それを子どもは自然にできているんだという気付きがピカソの中にあって、「子供はみんなアーティストだ」と発したのでしょう。
筆者:だからピカソは「問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ」と続けているのですね。この「芸術家」は特別な技能や才能をもった美術家という意味ではないですよね。

末永:ええ、もちろん意識的にしているか、していないかでアーティストとの違いはあると思うんですが、2歳3ヶ月の我が娘を観ているとそう思います。目の前のものに対して、文化や社会的な見方に染まらない自分なりのものの見方で、その都度世界に出会っていると感じます。それこそがアート思考だと思うのです。
 例えば、つい最近の話なんですけど、娘がブロックで遊んでいたんですね。ブロックで滑り台をつくって、最初は小さい人形をシューッと滑らせて遊んでいたんです。そして、しばらくしたら娘自身がシューッと言いながら滑り始めたんです。娘のつくった滑り台は小さいですし、見た目も滑り台の要素はないんですけど、娘はトコトコと登って何度もシューッと滑るんです。それは、誰かに見せる演技ではありません。娘の見ている世界の中には、今、滑り台があって、それを滑っているんだなあと思いました。
 何かの対象をきっかけに心に浮かんだものを見ているというか、「見る」って広い意味をもっているなと思いました。もちろん娘の世界を100%理解できているわけではありませんが、娘になったつもりになって世界をとらえなおしてみると、もうひとつの全く違う縁が生まれるというか、パラレルワールドのように同じ世界が何層にも広がっていく感覚がありました。
 それは、私自身が20世紀のアートにすごく興味をもったことと同じなんですね。「アーティストたちは何を模索していたのか」ということを学んでいくうちに、目の前に見えている世界が「これって絶対じゃないのでは?」とか、ものの見方が広がったような感覚があって、そこですごくアートって面白いと思ったんです。
 そのときに近い感覚を、今、我が子も含めて子どもたちと出会う中で感じています。ですから、アートと子どもの世界は近いんじゃないかなと考えています。
筆者:娘さんと、お母さんと、ブロックと、様々な資源が取り囲む場で、アートな世界が成立しているんですね。
 末永先生は本書の中で、モネの睡蓮を見て「カエルがいる」と発言した大原美術館の有名な事例を紹介されていますが、私も西洋美術館で睡蓮を前にギャラリートークした際、「風が吹いている」「水面の中に地球がある」と言う子どもたちに出会ったことがあります。画面には水面だけが描かれていますが、画面の奥や手前にはたくさん世界があって、子どもたちはそこを見て話すんですね。子どもは、作品からいろんなものが見えるというか、世界に入り込むというか、それがピカソの言ったアートという意味なのかもしれません。アートと子どもは、世界との出会いという深いところでつながっているのでしょうね。決して目前の作品だけではないと思います。
末永:本当に、子どもが生まれてから見えてくるものが違ってきましたね。今は子どもと関わる時間が学びの時間になっているなと感じます。
筆者:あ、ひらめきました。子育てがアートと言ってもいいかも!「子育てというアートをやっているんだ」「世界が豊かに広がっていくことを体験する時間なんだ」と思えると、世の中の頑張っている保護者の方々を少しは応援できませんか?
末永:じゃあ、そんな本を一緒に出しませんか?(笑)


末永 幸歩(すえなが・ゆきほ)

武蔵野美術大学造形学部卒業、東京学芸大学大学院教育学研究科(美術教育)修了。
東京学芸大学個人研究員、九州大学大学院芸術工学府講師、浦和大学こども学部講師。
「絵を上手に描く」「美術史を丸暗記する」といった従来の美術の授業に疑問を感じ、アートを通して、自分なりのものの見方で「自分だけの答え」をつくることに力点を置いた探究型の授業を中学校や高等学校で実践してきた経験を持つ。
現在は、全国の教育機関や企業等で、年間100回を超えるワークショップや講演を行う。
日経STEAMアドバイザー、Eテレ「ノージーのレッツ!ひらめき工房」監修、ニュース共有サービス「NewsPicks」プロピッカーなど兼任。様々な企業や団体とアートや教育に関する事業共創に力を注いでいる。
著書に18万部を超えるベストセラーとなった『13歳からのアート思考』(ダイヤモンド社)、動画コンテンツに『大人こそ受けたい「アート思考」の授業 ─瀬戸内海に浮かぶアートの島・直島で3つの力を磨く─』(Udemy)などがある。

※1:末永 幸歩 『「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考 』ダイヤモンド社(2020)
※2:奥村高明・有元典文・阿部慶賀編著「コミュニティ・オブ・クリエイティビティ ひらめきの生まれるところ」日本文教出版(2022)p.224
※3:ウィキペディア「モナ・リザ」(2022)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B6

対談:「コミュニティ・オブ・クリエイティビティ ひらめきの生まれるところ」(前編)

日本体育大学 教授 奥村高明 先生筆者

はじめに

 今回は私、東京学芸大の西村德行が、奥村高明・有元典文・阿部慶賀・編著「コミュニティ・オブ・クリエイティビティ ひらめきの生まれるところ」について編著者の一人である奥村先生にいろいろ話を聞きたいと思います。

なんで「ひらめき」?

筆者:とっても読みやすかったのですが、同時に、いろいろな疑問もたくさん生まれました。今日はそこにお答えいただきたいと思います。まず、表紙を見て「あれ?」って思うのは、なぜ脳科学の人じゃないのかなと、なぜ阿部先生や有元先生等心理学の研究者と一緒に書くことになったのですか? 「ひらめき」を語るために「心理学」というのがよく分からないです。
奥村:今、脳科学者の知人がいないので(笑)。でも、かつて著名な脳科学者から「奥村さん、脳は信じたらだめですよ、何も分かっていないから」と言われたのは心に残っています。脳科学の研究は別として、それを引用する人々の話は我田引水になるという警鐘でした。その教えを守っています。また、本書では、脳から語ったら個体主義から出てこれないだろうと阿部先生が指摘していますね。ひらめきはどうやら、個人の頭の中で突然啓示のように生まれるという「ある種の錯覚」(※1)らしいですよ。
筆者:けっこう身近な理由なんですね(笑)むしろ納得しました。次に、気になったのが、「創造性」を「ひらめき」と置き換えた理由です。私には、「ひらめき」って素朴で、素敵なもので、即興的で、個人的に起因するところが多いと思います。でも、「創造性」は、飛び抜けた天才に宿る創造性とか、長期の鍛錬によって育まれるなどのイメージがあります。それでも「創造性」=「ひらめき」なんですか?
奥村:まず、創造性の個人性を否定したいというのは、本書の主張の一部です。天才も市井の人も切り離せないというか、天才の創造性をすべて一人の業績に集約することはできないということです。有元さんは、それをダーウィニズムとしてとらえています。天才の発明は多くの創造性が淘汰された結果にすぎないというわけです。
 私はクーベルタン(※2)の例を出して、全体がないと天才は存在しないと述べています。クーベルタンは山の喩えを持ち出して、人々の健康のためには、多くのスポーツに親しむ人がいて、一部に専門的にスポーツする人がいて、その頂点にトップアスリートが必要だと言っています。トップアスリートも、まちの人々も、すべて大事なんですね(※3)。それは、体育の世界ではスポーツマネジメントとして、わりと共通理解されていますが、図画工作とか美術とかは、作家の天才性、個体主義的子どもの創造性とか、過度に重宝しすぎるきらいがあるとは思っています。
 アートについても同じ見方はできます。マルセル・デュシャンは、ずいぶん前に、芸術家だけで創造活動を完遂することはできないと言って、アーティストと普通の人が同じ地平でつながっていることを指摘していますよね(※4)
 同じように長期の鍛錬によって育まれた創造性というのがあったとしても、それは即興的で個人的なひらめきと切り離せないでしょう。それが「ひらめき」という日常的な言葉を用いた理由の一つですね。
 それに、とびぬけた天才という「個体主義」的なとらえ方をすると、それは教育では応用のできない話になってしまいます(※5)。天才だけを育成するために学校教育が行われているわけではないですよね。クリエイティビティが天才の個体内にあるというのは、どうにも実際の教育現場でやっていることとは、そぐわないでしょう。学校教育という実践からも、市井の人々の姿からしても、創造性を行為的に表した「ひらめき」という言葉を選んだのが二番目の理由かな?

図画工作・美術と「ひらめき」

筆者:創造性を人々の日々の実践と分けたくない、私たち教師の言葉で言えば子どもの姿と切り離したくない、だから「ひらめき」という言葉を用いたというのは分かります。確かに、「ひらめき」という言葉であれば、図画工作の授業で、新しい「ひらめき」が子どもたちの中でどんどん生まれていく場面に出会うことをすぐ思い出しますね。図画工作は、それが起こりやすい教科なのかなと思うのですがどう思いますか。
奥村:「図画工作で起こりやすい」と言ってしまうと、「ひらめきは図画工作の専売特許だ」みたいな主張に聞こえてしまいそうで慎重になってしまいますが、図画工作で子どもたちの「ひらめき」が「どんどん生まれていく場面に出会う」というのは、その通りだと思います。なかでも造形遊びですね。やっぱり造形遊び。
 編集の過程でも「図画工作とかアートとかが得意なところじゃない?」と再三、話題になりましたね。この本は全教科、学校教育以外もターゲットにしているのですが、図画工作・美術の事例がたくさん載っているのはそういうわけです。
筆者:奥村先生は図画工作・美術の「ひらめき」を紹介する時に、「造形遊び」をよく使っていますよね。私などは「なるほど」と思うんですけど、でも教育現場では造形遊びが理解されているかというと、そうではありません。
 すると、出版したばかりの本を前に申し訳ないのですが、同じ理由で「ひらめき」も理解されないというか、学校現場や人々が「ひらめき」を大事に思うことはないんじゃないかと思うんですけど……。
奥村:実は、私たち自身もそうだったんです。本書の編集を始めたとき3人とも考え方はバラバラで、有元さんにいたっては「創造性かぁ……あまり面白くないな」と思っていたらしいです。でも、対談したり、お互いの原稿を読んだりしていくうちに、いろいろひらめいて、「ひらめき」の楽しさや大事さに気付いて、みんな変化して、いい歳して「発達」できたんですね。最終的には「ひらめき」こそ「教育の新展開かも」と思うようになりました。
 つまり、最初は編著者自身が「ひらめき」自体を評価してなかったので「ひらめきが学校で重視されていないことは問題だ」と主張するつもりはないですね。本書は「私たち自身がひらめきの大切さが分かってなかった」という宣言かもしれない(笑)。
筆者:本書自身が、人と人との関わりの中で何かが生まれる場所であったのかというのは面白いと思いますが……けっこうな冒険ですね(笑)。他にも今まで本を作ってきたことと違う関わり方などありましたか?
奥村:今だからいえる話ですけど、当初は「ひらめき」を現場に持ち込みたいという上から目線のスタートだったんです。はじめに目指したのは「ひらめきが生まれる授業とは?」みたいな内容でしたから。まあ、よくある啓発本や教育書のたぐいでしたね。
 でも、今は、普通の人が「ひらめき」なんだよって変わりました。本書の用いている言葉で言えば「ひらめき」は「リ・クリエーション」、「ひらめき=創造性」というよりは「ひらめき=再創造」と言い換えてもいいかもしれません。
筆者:フィリピンの学校壁画制作で、図画工作の題材「魔法の種」を実施して、現地の子どもたちがさまざまに「ひらめき」ながらかいていったことが書かれていました。その「ひらめき」に新規性はないけれども、子どもたちにとっては大切な「ひらめき」であると語られていましたが、そこはとても共感しました。
 教師にとって、子どもたちの発想などはある程度想定できますが、その子たちにとってははじめての経験であり、子どもたちにとっては大切な発見や気付きです。そんな場面に出会うことを、私たち教師は楽しみにして授業をしています。教員間で、そんな場面を紹介し合うこともたくさんあります。私たち教師はそんな場面に出会うために教師をしているのではないかとすら思いますね。
奥村:まったく同感です。あの味は蜜の味で、あれを味わったら、もう教師はやめられません。先生たちは子どもと一緒にひらめいている。それが図画工作や造形遊びを通して実感できると思います。
 ただ、もう一つの視点として、教育課程としての図画工作というのもあります。図画工作・美術は単独の教科という役割があるだけではないという意味です。例えば、先日「図画工作のプログラミンングについて考えないといけないので困っているのですが……」という質問がきたのですが、「『図画工作のプログラミング』を考えるのではなく、『プログラミングに図画工作を』って考えたらいいんじゃないですか?」と答えました。相手は喜んでいましたが、図画工作には図画工作の教科特性がありますから何でもかんでも取り込むわけにはいきません。でも図画工作の「ひらめき」が教育課程に役立つとすれば、それは本書の願いでもありますね。

 ひらめきをめぐる対談は、さらに深まり、本書の核をなす「縁起」の話へと続きます。(次回は12月に掲載予定です)。

■新刊のお知らせ
コミュニティ・オブ・クリエイティビティ ~ひらめきの生まれるところ~

編著:奥村高明、有元典文、阿部慶賀
→書籍の詳細情報はこちら

<学び!と美術 関連リンク>
■奥村高明先生と有元典文先生との対談
Vol.98 対談:生存価としての図画工作・美術
Vol.99 対談:ともにかなでる教育実践
■奥村高明先生が阿部慶賀先生の書籍を紹介
Vol.103 「ひらめき」が生まれる授業

西村 德行(にしむら・とくゆき)
東京学芸大学教職大学院准教授
1971年、京都市生まれ。都内中学校、筑波大学附属小学校を経て、2014年より現職。専門は美術科教育学、鑑賞教育。日本文教出版小学校図画工作科教科書編集委員

※1:「「ひらめき」って結局のところ個人の主観的体験でしかなくて、それはある種の錯覚みたいなものではないかということは、心理学の世界でもわりと合意を得られていますね。」奥村高明・有元典文・阿部慶賀 編著「コミュニティ・オブ・クリエイティビティ ひらめきの生まれるところ」日本文教出版 p24
※2:ピエール・ド・クーベルタン 1863~1937。近代オリンピックの父と呼ばれるフランスの教育者。
※3:「百人が体育をおこなうには、五十人がスポーツをおこなわなくてはならない。五十人がスポーツをおこなうには、二十人が専門のスポーツに専心しなければならない。二十人が専門スポーツに専心するには、五人が素晴らしい技能を完成する能力をもっていなければならない」 前掲註1 p32
※4:デュシャンについては「学び!と美術 <Vol.114> 美術鑑賞の現在地 後編(2010~)第2回「ビジネスと美術鑑賞(1)」」2022、https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art114/
※5:個体主義については、前掲註1 用語解説 p236及び「学び!と美術 <Vol.98> 対談:生存価としての図画工作・美術」 https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art098/ を参照。

〈子ども―作品―題材〉

 作品や題材とは何でしょう。作品が完成すれば題材も終了、学力の発揮と成長はできたわけですから、役目は終了でしょうか? 本稿では、一つの作品が自分の夢と固く結びつき、今も生き続けている事例を通して考えてみたいと思います。

12年後のわたし「溶接女子ゴー」

奥村(以下奥):もし、タイムマシンで、これをつくった頃の自分に出会えたら、なんと言いますか?

 今治工業高校機械造船科3年生の村井珠夏さんは即答しました。

珠夏さん(以下珠):今のまま、溶接女子目指して頑張れって言います。

 そう話す彼女の前には、小学校の頃つくった作品があります。題名は「溶接女子ゴー」。溶接工場で働く未来の自分の姿です。お母さんへのあこがれと、溶接の道に進みたいという思いから製作しました。
 10年前、急逝した珠夏さんの祖父が請け負っていた仕事の納期を守るために、お母さんは図面も読めないゼロの状態から溶接工場を引き継ぎました(※1)。幼い珠夏さんは、工場の事務室で宿題をしたり、近くで遊んだりしながら育ちます。珠夏さんにとって、お母さんの姿は「かっこよくて、楽しそう」でした。小学校4年生のとき珠夏さんは溶接の道に進もうと心に決めます。そして、小学校6年生の時、未来の私を粘土でつくる「12年後のわたし」という題材に出会います(※2)。友達は何をつくろうか迷っていましたが、珠夏さんはすぐにこの作品に取り掛かりました。

作品を訪ねて

 作品は、「第44回えひめこども美術展」に入選し、長く自宅の応接間に飾られていましたが、あるきっかけで今治を紹介するTV番組に用いられました(※3)。私たちは、その番組で珠夏さんの作品に出合い、もっと作品について詳しく知りたい、題材の意味を探りたいと思い、取材に向かったのです。

奥:作業服の膝や腰などに茶色を入れているのは?
珠:座って仕事をするからそこが汚れます。
奥:肩やタンクの白い部分は?
珠:溶接の光が反射しているところです。

 作業着の色やダメージ、床の鉄板など、一つ一つの色には明確な意味がありました。ところどころに塗られた白は光の反射を表しています。溶接の際には、強いアーク光が出ます(※4)。その光は工場全体をまばゆく照らします。この作品には、空間全体が溶接の光で輝いている様子も表されていたのです。本人に尋ねなければ分からないことでした(※5)

奥:握っているのは?
珠:溶接のトーチで、指はスイッチを抑えています。
奥:左手は?
珠:溶接用の手持ち面(※6)を握っています。

 一つ一つの形にもすべて意味があります。右手と左手は道具をしっかりと握り、人物の視線は溶接場所の一点を見つめています。片膝をつく姿勢は、溶接する手元がぶれないように体を安定させるためです。フランジ(※7)や取っ手は正確にタンクに「溶接」されています。足元のハンマーはフランジの角度を修正する大事な道具で、リールには溶接ワイヤーが巻かれています。自宅の近くにある工場を訪ねると、トーチ、フランジ、ハンマーなど全て同じ道具がありました。その工場で、幼い珠夏さんは溶接の光で影絵遊びをしたり、作業用のチョークで床の鉄板に落書きをしたりしていたのです。
 この作品について「今、どう思うか」と尋ねると、珠夏さんは次のように答えました。

珠:本当は(・・・)帽子をかぶらないといけないので、そこを直したいです。

 この作品をつくって4年後、珠夏さんは造船科に進みます。帽子以外は、今、この作品通りの作業服姿で溶接に取り組む毎日を過ごしているのです。7月末には溶接の四国大会が行われます(※8)。2枚の鉄板を制限時間内に溶接するのですが、準備の的確さ、ふるまい、仕上がりの美しさなど細かく採点されます。珠夏さんはそのために毎日学校で練習をしています。その姿について、担当の藤田先生はこう語ってくれました(※9)

珠夏さんは本当に頑張り屋さんです。部活と学業の両立も頑張りました。今、溶接を頑張っていますが、頑張り過ぎないように配慮するのが私の仕事ですね。周りの友達からも頑張りは認められていて、部活を引退した男子が応援団といって、勝手に片付けや準備を手伝ってくれるほどです。

 珠夏さんは、造船科初めての女子生徒、友達や先生たちに支えられながら、楽しく学校生活を送っているようです。

作品は、かけがえのない縁起

 本作品には、祖父の病気とお母さんの頑張り、工場や溶接の道具、幼いころ珠夏さんが過ごした時間など様々な資源がつまっています。明るく笑うお母さん、珠夏さんを見守る先生や友達など多くの人々が作品を支えています。「えひめこども美術展」や地域の図画工作教育(※10)、「造船の町」今治市(※11)などともつながっています。それらすべての資源が織りなす縁によって「溶接女子ゴー」は生まれ、そして今も、珠夏さんの夢と結びつきながら、生き続けているのです。
 それは、この作品だけのことではありません。同じことが、全ての子どもたちの作品に言えるのだろうと思います。子どもたちが思いを込めて「未来のわたし」を表す。それは、子どもたちがそれまで生きてきた経験や家族、学校や地域など様々資源をもとに豊かな縁を紡いだ結果です。決して作ったら終わりではなく、様々な縁とつながりながら、今も意味を持ち続けているはずです。それが6年生の終わりを飾る「12年後のわたし」という題材なのでしょう。

 子どもの作品や題材には、「この作品をつくったら、このような学力がつく」という因果だけでなく、多くの縁起が含まれています(※12)。その子の思いや願い、経験や友達との交流、人々の支えや地域などの縁によって作品は生まれ、題材は成立します。
 そうであれば、目の前で行われている学習を作品づくりや学力育成だけでとらえるのは、あまりにもったいないでしょう。想像を膨らませながら子どもたちの世界をとらえ、作品の生まれる様々な縁を感じる必要があるのだろうと思います。そうすることで、先生と子どもたちは、一緒になって、もっと図画工作や美術の豊かさを楽しめるのではないか、そんなことを感じる取材でした。

 「学び!と美術」も、福島大学の天形先生から引き継いで、ちょうど10年となりました。これまでのように筆者が様々なテーマをエッセイ的に書くというスタイルは今回で終了します。今後は、より読者のニーズにあった企画を実施し、新しい著者も加わって連載していきます。

■新刊のお知らせ
コミュニティ・オブ・クリエイティビティ ~ひらめきの生まれるところ~

編著:奥村高明、有元典文、阿部慶賀
→書籍の詳細情報はこちら

<学び!と美術 関連リンク>
■有元典文先生との対談
Vol.98 対談:生存価としての図画工作・美術
Vol.99 対談:ともにかなでる教育実践
■阿部慶賀先生の書籍を紹介
Vol.103 「ひらめき」が生まれる授業

※1:それから10年、お母さんは評判のよい職人さんとして活躍しています。
※2:「12年後のわたし」『図画工作5・6下 見つめて 広げて』日本文教出版 pp.46-47(2015)
※3:NHK総合、小さな旅「船が生まれて~愛媛県今治市~」2022年5月29日放送
※4:服や首元が開いていると日焼けするほど紫外線や赤外線を含む強い光がでます。
※5:子どもの作品を見るときには、絵から分かることは「ほんの一部」に過ぎないことを踏まえておく必要があります。奥村高明「子どもの絵の見方―子どもの世界を鑑賞するまなざし」東洋館 p.77(2010)
※6:紫外線や赤外線を含む強い光から目や顔を守る面。
※7:フランジ(flange)とは、タンクと他の配管などをつなぐツバのこと、円形が多く、接合するための出っ張り部分全体をフランジと呼ぶことが多い。
※8:取材後、第11回四国地区高校生溶接技術競技大会で今治工業高校は団体優勝、珠夏さんは個人第3位入賞(全国大会出場)、さらに全国選抜高校生溶接技術競技会(第6回溶接甲子園)では優秀賞(2位)に輝き、大会史上初めて女子で上位3位に入りました。
https://www.ehime-np.co.jp/article/news202208070008
※9:愛媛県立今治工業高等学校 機械造船科 科長 藤田誠人先生
※10:愛媛県は図画工作教育に熱心な県として有名です。
※11:今治市は愛媛県北部、高縄半島の先端にある人口約15万人の都市、タオルの生産量は全国生産高の60%、湾の両岸には14の造船所が並び、200件の造船業、一万人以上が船をつくっている「タオルと造船の町」です。
※12:作品を「○○さんがつくった見事な作品」というような「個体主義」でとらえることには慎重であるべきでしょう。

鼎談:「技能」の話

早稲田大学 教授 大泉義一 先生東京都目黒区立五本木小学校
主任教諭 鈴木陽子 先生
筆者

 描き方、技法、技術など技能に関する内容はけっこう誤解されがちで、中には創造性の敵のように語る人もいます。でも、子どもにとっては、技能は喜びだったり、発想のもとになったりしています。今回は、そんなお話です。

技術と技能は分けて考える

筆者:お恥ずかしい話なんですが、最近、老後に備えてギターレッスンに通い始めました。それまで独学だったんですが、プロに教えてもらうといろんなことが学べるんですね。例えば、チョーキングという弦を持ち上げる奏法があるんですが、それまで「指」で持ち上げていて、思うように音が出ていなかったわけです。先生は「手首です。ドアノブを持つみたいにひねってみてください」と。すると、実に楽にできて、音程もしっかりする。「今まで何やってたんだ!」みたいな感じです。何より新しいことを学ぶ喜びがあって、これが格別なんです。
 そこで、「技術を学んでるけど、学んでいるのはそれじゃないな」と思いました。例えば、喜びとか意欲とか?すると、学校にいる子どもたちは毎時間、毎日、何か新しいことを学んでるわけですよね。「うれしいだろうなあ」と思って、じゃあ「技能」って何だろうなと、それで、鈴木先生と大泉先生に教えてもらおうとなった次第です。
鈴木:私も老後対策でヨガに通っているんです(笑)。そして、ひたすら深い呼吸の仕方を教えてもらうのですけど、ヨガって有酸素運動なんですね。呼吸なんて意識したことなかったので、目からうろこでした。たぶん、私は、ヨガを習っているのでしょうけど、体の使い方とか、生き方とか、違うことを獲得していますね。
筆者:習っている技術と、そこで成立していることは異なるものなのでしょうか?
大泉:まず「技術」と「技能」の違いを抑えておいた方がいいですね。「技術」はそれだけで独立して伝えることのできる「テクニック」です。一方、「技能」は使い手に身体化された能力です。図画工作の学習指導要領で言えば、子ども自らが「感覚や行為を通して」獲得して活用していく「技能」ですね。お二人の場合は、奏法や呼吸の仕方は「技術」ですが、そこから「技能」を獲得しています。学習意欲や喜び、「主体的に学ぶ態度」なども高めています。
筆者:なるほど。「技能」という能力を獲得するために、技術とか描き方とか、用具とかいろいろな資源があるわけですね。私の場合だと「表面的に弾けた」ということよりも、技術が技能になっている実感がうれしかったのかもしれませんね。
 でも実際は区別していない人が多いんじゃないですか?「この技法を教えたら、子どもの発想を制限してしまうんじゃないか」とか「この描き方を教えたら、○○式のように同じ絵が並んでしまうんじゃないか」とか。私もよく質問されて、答えに困ることが多いです。また、「絵の描き方を教えてほしかった」みたいな発言に代表される「何か技法を教えたら、身につく」という単純な「因果」として「技能」をとらえている人も多いと思います。

技能は子どもが生み出す

鈴木:「技術」や「技法」と違って「技能」は子ども自身が生み出します。そのプロセスを踏まえないといけないと思います。
 例えば、先週、2年生の「ローラー・あーと」という授業をしました(※1)。絵の具とローラーを使っていろいろ試しながら、そこで生まれてくる形や色などから思いついて絵に表すものです。まず、導入では、絵の具の色が重なって新しい色が生まれることや、ローラーで予想外の形が生まれてくることなどを、教師が簡単にやってみせます。絵の具の性質とかローラーの使い方とかは大泉先生の言う「テクニック」でしょう。でも、そこから発揮されるのは子どもの「技能」ですよね。
 Kさんは、横長の画面下から上へと繰り返し色を重ねていました。いろいろな色味を塗っては、その上に白を重ね、また色を重ねては白を重ねていくのです。でも、コロコロと転がす感じではありません。両手でしっかりとローラーの柄を握って、腰をかがめながら、ぐっと力を込めてゆっくり下から上へローラーを押し上げていくのです。ローラーがぶれないようにゆっくりと慎重に動かしているんですね。
 そして、時々、絵の具缶に入っている筆で画面にすっと線や点を置きながら、また両手でローラーで色を押していきます。ずっと立ったまま(!)で2時間つくり続けていて、まるでKさんの身体とローラーが一体になっているようでした。
 Kさんに尋ねてみると、「力を入れてローラーで絵の具をぬると、段ボールのもようが出てくる。それが面白くてこうしてローラーを使った」と言っています。確かに、Kさんが力をこめた画面は、へこんでいました。
 基底材として、片面に白い紙が貼ってあるW板段ボールを用いたのですが、堅牢なのに、程よく紙に絵の具がのっていくし、水分も適度に吸収してくれるので、子どもが色を重ねると段ボールが応えてくるような感じが持てるのだろうと思います。
 私は、画用紙、ローラー、絵の具などの中で、この活動を繰り返すKさんの姿こそ「技能」を発揮している姿だと思います。同時に、技能を生み出していること自体がKさんにとって「つくりだす喜び」でもあると思います。

Kさんの作品:「オーロラ」(段ボール 30×90cm)

筆者:「つくりだす喜び」ってよく図画工作では言うんですけど、多くの先生たちは、何か「個人が作品をつくり終える」ことの「喜び」みたいに思っているんですよね。「作品ができました。うれしいですね」みたいな。
 でも、それは結果論でしかなくって、実際は鈴木先生が紹介してくれたように、材料や用具などと呼応しながら「技能」を生み出す過程そのものに「つくりだす喜び」があるんだと思います。そこには、一人だけでなく、子どもたちの共同性も働いているし、先生がテクニックを教えることも含まれているので、みんなで「つくりだす喜び」をつくりだし、感じ合っている縁起があるのだろうと思います。
鈴木:そうですね。「技能」が真空状態で、単独で、生み出されるわけではありません。材料や友達や私自身や、いろいろな資源が編み込まれているといった方が適切でしょう。
 例えば、初めての個人用水彩絵の具を使う題材があります。2年生の一番最後から「絵の具となかよし」という活動です(※2)。 絵に表すというより、色や水を混ぜて自分の色をつくり、思いのままにぬったりかいたりすることを楽しむものです。
Uさんの作品:無題(画用紙 15×21cm) Uさんは写真のような作品をつくっていました。そこにIさんがやってきて、Uさんがつくっている色を見て「きれい!どうやってつくったの」と聞きます。すると周りの友だちも集まってきます。まず、ここでUさんの技能は多くの友達から認められていますよね。
 そして、Iさんは、Uさんのつくりかたをもとに色をつくり始めるのですが、なかなか同じ色にはなりません。そこでIさんは自分のパレットを持ってUさんのところに行くのです。
 すると、Uさんは、「えーっ!Iさんのこの色すごくきれいだ」と言います。それがうれしくなったのか、Iさんは色味を変えながら色をつくることにますます夢中になりました。つまり、Iさんの「技能」はUさんから認められたことによって、さらに進化するわけです。
 その頃、Uさんの隣にいたKさんは、筆洗用の水入れの中をずっとのぞき込んでいます。「なんだろう?これ、きれいだなあ」と言っています。それに気づいたUさんは、「どうやったの!」と尋ねますが、Kさんは「わからない」と答えました。
 そこで、Uさんは自分の筆洗用の水入れに色を落としたり、混ぜたりしてます。しばらくすると、「わかった!!暗い色水をつくって、白をつけた筆を、こう、ゆらゆら動かすとできるんだ。オーロラだ!」と声をあげ、その興奮は教室中に広がりました。
 このように、子どもたちが、もの、ひと、ことに働きかけ、働きかけられながらつくっていることを見失ってはならないと思います。そこで「技能」も生まれているのです。

「技能」には、教師の「観」が大事

大泉:「技能」については、子どもが能動的な学習者であるという教師の「観」が、そもそも必要でしょうね。教師の「子ども観」や「教育観」、あるいは「技能観」などは、あらゆる指導に大きな影響を及ぼします。そこを転換しなければ指導は変わりません。でも、そこを転換することが大人である教師にとっては極めて難しいことでもあります。
 まあ、結局、幼児の粘土遊びを理解するためには、私たちが粘土遊びをするしかないですけどね。一方で、授業研究会を見ていると、授業の「指導技術」は協議しているんだけど、教師の見方とか、考え方などは検討していないですね。肝心の教師の「観」は置き去りと言うか……それが気になって、今、教師が自分の「観」に自覚的になるプロジェクトに取り組んでいるんです。
 例えば、先生の「これ何だろう?」とか「さあ、見よう、見よう」など何気なく発した言葉には「子ども観」や「教科観」などが含まれているんですね。逆に言えば、何気ない言葉からは、その先生の「観」が見えるというか。
 そこで、現場の先生方が、自分の授業中の発話を振り返り、その意味を考え合う中で、お互いの「観」について語り合おうというプログラムをやるんです。そうすると先生たちは内省や交流が深まっていきます。この研究が進んでいけば、先生たちの「技能」に対する「観」についても、何か分かるかもしれません。
鈴木:「子どもが能動的な学習者であるという教師の「観」が必要」というのは、本当に大きく頷けます!!
 私が教師になったばかりの頃、けっこう描き方中心の指導をしていて、でもそこに何か違和感があったんです。そのとき、ある子どもの展覧会を見たときに愕然としたんですね。「この先生が指導した絵は、私と違う。何が違うのだろう」と作品に見入ったのです。どの作品からも子どもの声や息づかいが聴こえてくる。こう手を動かしたであろうとか、こんな身体のリズムがあったのだろうというようなことを感じるのです。まるで子どもがそこにいるかのように思えました。つくりだしている喜びが伝わってくるのです。この体験は、私の「観」が転換する大きなきっかけになりました。
 それからは図画工作・美術の研究会や研修会にどんどん出かけて行って、素晴らしい実践者や研究者とたくさん出会って、自分の「感覚や行為」を大切にすることや、「感覚や行為の経験」を積み重ねていくことが大事だなと思うようになりました。
 今は、図画工作の時間に子どもが何事かを起こしていく瞬間に立ち会えるのが何より嬉しくて、これからも学びの環境を編み直し続けていければなと思っています。
大泉:「技能」は、子ども自らが「感覚や行為を通して」獲得して活用していくこと、そして、そこに教師が立ち会うことが大事なんでしょうね。また「技能」は他の資質・能力と独立していませんから、「思考・判断・表現」や「学びに向かう力、人間性」とも密接に考えていかなくてはいけないと思います。
 問題は、それが切実な要請に応じた切実な問題解決の中で生じてくるということです。果たして図画工作の授業の中で、そうした「切実さ」をどれだけ位置付けているのでしょうか?図画工作に限らず学校教育全体で大事にしていかないといけないことだと思うのですが。
筆者:「技能」が生まれる切実な学習や、そこに立ち会うような指導が大切で、それは図画工作だけでなくだけでなく、学校全体でつくっていかないといけないわけですね。それは今、カリキュラム・マネジメントで求められていることの一つかもしれません。
 また、子どもの技能を支えるために、教師の確かな「観」が必要で、そこには人々との出会いや縁が大切だという指摘も大変心に残りました。技能は、それが生まれる状況、教師の「観」、カリキュラムなど様々な縁起があって、はじめて技能として成立するのでしょうね。
 今日はありがとうございました。

※1:ともにかなでる図工室 第26回「オーロラ」
https://www.zukonomikata-nichibun.net/tomonikanaderu26/
※2:ともにかなでる図工室 第22回「絵の具となかよし」
https://www.zukonomikata-nichibun.net/tomonikanaderu22/
コミュニティ・オブ・クリエイティビティーひらめきの生まれるところ(2022年7月末発刊予定) 日本文教出版 ひらめきスケッチ1「ひらめきが連れていくところ」参照。

知識の話

 先日、対話型の鑑賞に参加したという2人の知人から、「美術館で対話型の鑑賞に参加して、がっかりした」という感想をもらいました。一人はビジネス、もう一人は学術研究と異なるフィールドで活躍する方です。「がっかりした」理由はどちらも同じ。「自分の意見に何の意味があったのか」でした。「いろいろな人がいろいろな意見を言ったのに、すべて実際の事実でまとめられた」「いろいろ意見を言っても、次々と事実でぶった切られた」のだそうです。実際にその場にいなかったので、詳細は分かりませんが「知識を使うときの注意事項がおさえられていなかったのかな?」と思ったので、本稿ではその点について検討します(※1)

知識の聞き方

 知識のポイントは「聞き方」です。
 「知識の与え方でなく、聞き方?」
 ええ、進行役は参加者の表面に表れた知識ではなく、参加者の中で活用されている知識をとらえることが大事なのです。具体例で説明しましょう。
 ゲルハルト・リヒターが自分の10歳の娘の後姿を描いた『ベティ』(1988)という作品があります(※2)。描かれた対象が何で、表現の主題が何なのかはっきりしない作品です。この作品を用いてトークを行うと、きまって次のような発言をする参加者がいます。

参加者:これは男の子だと思う。

 これに対して、次のように答えるとどうなるでしょう。

進行役:いいえ女の子で、この作家の娘を描いています。

 おそらく発言した人は、がっかりするでしょう。「事実でぶった切られた」と感じるかもしれません。
 そもそも、参加者は「これは男の子だ!」と主張したいのではありません。それはとりあえずの結論であり、むしろ言いたいのは「男の子だと思った複数のポイントがあった」ということです。例えば、華奢な肩、洋服の色、模様などであり、そこから「男の子だという可能性がある」ということを指摘しているのです。
 もし、小学校の先生であれば、こう聞いたでしょう。

子ども:これは男の子だと思う。
先生:男の子だと思ったんだね。どこからそう思いました?

 小学校の先生は、国語であれ、図画工作であれ、子どもの意見をまず受け止め、次に、そう判断した理由はどこにあるかを探ります。「男の子だ」と話された表面的な言葉の正否ではなく、その奥にある活用された知識をとらえようとします。
 同時に、それによって、その知識をみんなで共有することができます。この活動を続けることによって、みんなの知識は、より深まります。授業の後半では皆の言葉をもとにまとめたり、必要があれば事実を伝えたりします。このような活動であれば、発言した子どもは「自分の発言が認められた」と思うことはあっても、「事実でぶった切られた」と感じることはないと思います。
 美術鑑賞でも同じです。鑑賞という活動の中で、知識が編み込まれていくその行為自体をみんなで楽しむのが大切です。進行役に求められるのは、参加者が活用した知識を聞こうとする姿勢であり、「正解はこれだ!」と示すことではありません。「知識のご披露」にはくれぐれも慎重でありたいものです。

鑑賞者と作家がつながる知識

 実際に鑑賞活動を行ってきた経験からは、鑑賞者が活用する知識に的外れなものはなく、「正確に作品の特徴をとらえている」というのが実感です。作品を用いて、具体的にみていきましょう。
 宮崎県立美術館で学芸員をしていたときに、ギャラリートークで必ず盛り上がる作品がありました。瑛九の「つばさ」(1959)です(※3)。この縦2m以上ある作品の前に立つと、参加者は自然に語り始めるので、ギャラリートークがしやすい作品でした。
瑛九「つばさ」(1959) 
宮崎県立美術館蔵
 よく聞かれたのは「虫!」「蟻!」「吸い込まれそう!」などの発言です。もちろん、参加者が言いたいことは「虫」や「吸い込む」ではありません。真意は「点が虫のように動いて見えた」ということであり、作品から「絵の向こうにいくような流れを感じた」ということでしょう。
 興味深いのは、それが作品の事実と重なることです。この作品は瑛九の絶筆であり、様々な表現を繰り返しながら最後にたどり着いた場所です。瑛九は慢性腎炎で体調を崩しており、『自宅療養をしながら、気分の良い時に少しずつ絵筆をにぎり完成させた(※4)のが、この「つばさ」』なのです。
 寝込みがちだった瑛九は、調子のよいときに起き上がって脚立に登り点を打ちました。一つ一つの点は彼の命に他なりません。参加者の「虫!」「蟻!」は一つ一つの点に命を感じている証拠だとも言えます。
 「吸い込まれそう!」も同じです。瑛九は、制作中に見舞いにきた友人の木水育男(※5)に「筆がね、こうして、すーっと画面に吸い込まれるのですよ」と話したそうです(※6)。私もこの絵の前に立った時、いつも吸い込まれるような、作品に包み込まれるような感覚を持ちました。それは、単に作品の大きさや構成の話だけではないのかもしれません。まるで瑛九の昇華していく命そのものを共有しているように思えるのです。
 「つばさ」は、他の鑑賞活動でも作家と鑑賞者がつながり合うような姿が見られます。
 その一つ、近著で紹介している鑑賞活動のアクティビティ「感覚のポエム」の事例を紹介しましょう。「感覚のポエム」とは、 参加者が擬音語や固有名詞などの知識を活用しながら、作品から得た嗅覚、味覚、視覚、聴覚、触覚などの感覚を言葉に置き換え、それらを並べ替えて、詩にまとめていくアクティビティです(※7)
 次の2点の詩は、瑛九の「つばさ」から生まれました(※8)

1.バサバサバサ 羽ばたく音
空に向かって 虫が集まる
突き刺すような 苦い味
香りのよい 焦げた匂い
秋の風が 私の頬を 撫でる

2.ザワザワ ザラザラ ツブツブ
にがい砂嵐
遠い花火 痛いひまわり
焦げた匂いのする岩石
大地の営みのかすみ

 AとBは、全く異なる場所と時間、参加者で作成された詩なのに、視覚的にとらえた光や動き、匂いや味、音や触覚など、様々な感覚が共通しています。進行役は、鑑賞者の知識と作品を結び付けていくのですが、毎回、生み出された詩が瑛九の命とつながっていることを実感します。

 美術鑑賞で、進行役が事実や知識を伝えることは必要です。しかし、参加者が感じていることを否定するために知識を用いるのはよろしくありません。進行役は、表面的な発言にとらわれることなく、鑑賞者が知識をどのように活用しているかをとらえ、それを共有し、深め合い、さらに作品と一体化させていくことが大切だと思います。

※1:学び!と美術 <Vol.49> 図画工作・美術における知識の行方(2016.9.13)
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art049/
※2:アートスケープ
https://artscape.jp/study/art-achive/10154147_1982.html
清水 穣『ゲルハルト・リヒター《ベティ》──仮象のジレンマ』「柔と硬、静と動、父と娘の距離、親密さと近寄りがたさの間で揺れる。焦点のぼやけた写真を用いて、視覚の習慣への盲目的な追従を突き崩す、新たな視覚体験を呼び起こすリヒターの代表作。美しく可憐な画面に魅了されながらも、心理的には近付くことが難しい肖像に戸惑う。この宙づりにされた中間的な感覚がリヒター芸術の真骨頂である。」
※3:瑛九「つばさ」(1959) 宮崎県立美術館蔵 259.0×181.8 油彩。この年代に点描だけでの抽象画は国際的に見ても例がなく、海外の来訪者が来ると、絵を見て、キャプションの年代を見て、また作品を見るという二度見エピソードのある宮崎県立美術館の宝ともいえる作品です。
※4:宮崎県立美術館『宮崎県立美術館開館記念 魂の叙情詩 瑛九展』(1996)164p
※5:美術教師として児童画の研究を続けた福井県鯖江市の教育者
https://www.city.sabae.fukui.jp/about_city/shinoshokai/sonota/senjinwoshinobu/kimizuikuo.html
※6:前掲註4 114p
※7:奥村高明・有元典文・阿部慶賀「ひらめきってなんだ?~創造性のレッスン(仮)」(2022)日本文教出版社(印刷中)、テート美術館/奥村高明・長田謙一監訳『美術館活用術 鑑賞教育の手引き』美術出版社(2012)92p の『かたちデ詩』をヒントに著者が開発したアートゲーム。短冊を並べ替えながら詩にまとめる過程では、何度も作品を見直すプロセスが生まれる楽しい鑑賞活動です。
※8:2つ目の詩については参加者が作成した詩を筆者が一つにまとめたもの。

題材名は縁起のはじまり

 題材名は導入時に提示され、子どもの学習を開く役割を果たします。同時に、若い先生や学生が指導案作成で悩むポイントのようです。Q&A形式で、題材名について考えてみましょう。

Q なぜ図画工作は他の教科みたいに「単元名」と呼ばないのですか?

A 「学習のまとまり」が比較的少ない時間だから。

 「題材」は、「単元(※1)」同様、児童の学習過程における学習活動の一連の「まとまり」です(※2)。そこには目標や計画、用いる材料や用具、学習活動などが含まれます。単元は小単元が複数組み合わされ、様々な教材などを用いながら長い時間をかけて実施されますが、図画工作や音楽などでは、比較的少ない時間で実施されることが多く、単元と言わず題材と呼んでいます(※3)。この「題材」を子どもたちに提示する際の名前が「題材名」となります。
 歴史的な背景からこうなっていますが、将来、教科等連携の実践や「単元」的な実践などが行われるようになると題材名の位置づけも変わってくるかもしれません。

Q 「題材名」はどのように設定すればよいですか?

A 子どもの心が動き出すように設定しましょう。

 まず、子どもが進んで取り組める題材を考えます。それができたら、その題材に子どもをいざなうような気持ちで題材名を考えます。

 題材は、前項で述べたように、児童一人ひとりが進んで表現の主題やテーマを見付けたり、それによって創造活動を展開する学習活動のまとまりであり、それを表す「題材名」は、望ましい創造活動や提案の意味をもつものである。―中略―
 なお、「題材名」には、児童にさわやかな創造活動への案内的な意味と、「このような活動はどうですか」というような発想をふくらませるような提案の意味などを多く含む方が望ましい(※4)

文部省『小学校図画工作指導資料 指導計画の作成と学習指導』日本文教出版、1991、11p 写真は「空にはしごをかけたら…」 図画工作の題材名は学習活動への案内や提案の役割を果たします。同時に、そこから様々な学習が展開されることを保証します。題材名を提案したとたんに、子どもがこわばったら台無しです。子どもの心や体が柔らかになるように、意欲がわくように、同時に、子どもが色や形、イメージなどの学習活動の手掛かりがつかめるように設定することが望ましいでしょう。

Q 「から…」「して…」「たら…」など、なぜ図画工作の題材名は途中で言葉を止めた感じが多いのですか?

A それから先は、子どもが考えることだから。

 「から…」「して…」「たら…」が多いのは、「きっかけ」だけを提示し、それから先は「子どもに任せた!」という意味です。「きっかけ」は、造形的な行為や出会う材料、発想の手掛かり、技能のポイントなどです。例えば、「空にはしごをかけたら…(※5)」の場合、「空に梯子を掛ける」のが発想のきっかけで、「掛けたら」以降は、子どもが想像を膨らませることになります。「一枚の板から…」「粘土を立ち上げて…」「紙を破ってみたら…」なども同様でしょう。
 「一枚の板から生活に役立つ工作をつくろう」のように、きっかけの先まで言わないことがコツかもしれません。導入時に先生が長々と説明していたら、子どもが「先生もういい、ぼく考えることなくなっちゃうよ」と言ったという話もあります。学習の主人公は子どもたち、活動の中心となる行為や発想などを端的に伝えることが題材名では求められるでしょう。

Q 図画工作の題材名には「夢」「不思議」「世界」「魔法」などの言葉が多いのはなぜですか?

A 学習の主人公は子どもだから。


昭和36年図画工作科教科書の目次 上 2年生 下 5年生 日本文教出版株式会社 「夢」「不思議」「世界」「魔法」などの言葉は、平成に入った頃から、増えてきました。それ以前は「物語の絵」「木はん画」「つるすかざり」など大人のジャンルをそのまま題材名に提示していました。当時は、絵を描くこと、木版画や飾りなどを作成すること自体に文化的な意味や子どもの意欲などが含まれていましたが、物が溢れる現代においては難しいでしょう。
 題材名を提示したとたん、「ああ、わたしはこれをやるのか」「風景画を描くんだな」とがっかりさせたくないですよね。でも、夢、不思議などは子ども自身のものです。学習の主人公は子どもであることをはっきりさせている言葉だといえるでしょう。子ども同士の夢や不思議が響き合いながら、多様な展開になることも期待できます。

子供たちは、どの子も夢を描くような素敵な思いをもち、子供らしい想像力を働かせて、自分の表現製作の方法で、思いのままに表したいと願っている(※6)

 これは文部省の指導資料に記された30年前の言葉です。同じことが今の子どもたちにも言えるはずです。子どもの思いや願いを大切にしたときに、夢や不思議、世界などの言葉が題材名に入るのは妥当なことではないでしょうか。
 ただし、題材名に「夢、不思議などという言葉を入れればいい」というわけではありません。
文部省『小学校図画工作指導資料 指導計画の作成と学習指導』日本文教出版、1991、173p 例えば「夢の箱をつくろう」という題材名はどうでしょうか? 「え…夢の箱…」。漠然過ぎて、子どもは戸惑ったり、不安に思ったりするのではないでしょうか。同書には「夢を箱に」という題材が紹介されています。自分の夢を入れる箱の形も、その中身も考えるという題材です。「夢の箱をつくろう」と「夢を箱に」、ほんのちょっと言葉が違うだけで方向性が生まれ、学習内容が明確になります。前後の言葉を考慮して、子ども自身が夢を広げたり、不思議をふくらませたりできる題材を考えたいものです。

Q 先輩の先生から「○○をつくろうとか、○○を遊ぼうというのはよくないよ」と言われました。なぜですか?

A 呼びかけのふりをした命令だから。

 「○○をつくろう」は、一見呼びかけのようにありますが、結局、「○○」を「作品化しなさい」という先生の命令です。子どもは「はい」としか言いようがありません。「○○を遊ぼう」も、先生の提示した遊びを強要しているように思えます。遊びは本来的には、子ども自らが、ルールや方法などを開発していくものです。「遊びなさい」「自由にしなさい」というのは、少し矛盾した感じもします。おそらく、先輩がそう言ったのは、先生の決めた「○○」を学習するという「強要」になってはいけないというアドバイスだと思います。

Q 同じ先輩から「ドキドキ、ワクワクもやめようね」と言われたのですが…。

A 発達や学習内容との関わりで判断しましょう。

 子どもの心が動けば「ワクワク」してきますから、わざわざ題材名で期待感を表す言葉を使う必要はないという意味でしょう。聞きようによっては、「ワクワクしなさい!」「ドキドキしましょう!」という強制に聞こえるかもしれませんね。題材名は「ワクワク」「ドキドキ」なのに、中身は先生の指示通りだと、子どもの思いや願いと矛盾することも考えられます。まあ、題材名にNGワードがあるわけではないので、前後に含まれている言葉や発達段階、学習活動などとの関わりで適切に判断すればいいと思います。

Q 鑑賞の題材名に「よさ」や「美しさ」などの言葉をいれて、鑑賞の視点を明確にしたいのですが?

A よさや美しさを決めるのは子どもです。

 子どもが見つけた結果を「よさや美しさ」としてまとめることは重要だと思いますが、学習が始まる前から決まっていることではありません。鑑賞の場合、その対象から、何が見つかるか分からないから面白いわけです。「子どもが探検するような活動」を鑑賞活動としてとらえれば、鑑賞活動では子どもたちが「何を見付けるのか」「何を探し出すのか」という視点が重要でしょう(※7)。視点を明確にすることは大切ですが、活動の幅を狭めることには慎重でありたいものです。それに、案外子どもは怖いものやグロテスクなものも大好きだったりするので、子どもが感じている実際と、大人の目標や期待のズレには注意したいですね。
 ただし高学年や中学生にもなれば、文化的に定義された「美しさ」や「美」などから学習を始めることは可能になってきます。私たちが思うよさや美しさなどを押し付けないように配慮しつつも、発達を考慮して、子どもたち自身が視点をつくりだす力を伸ばすことが大切です。

Q 「題材名」は必ず必要なのですか?

A 提示しないこともアリです。

 私自身の話で恐縮ですが、図画工作の授業で、題材名を提示しないことはしょっちゅうでした。
 「今日はいろんなものを立ててみようと思うんだけど…」
 「ねえねえ、体が小さくなって、シャボン玉に乗ってみたらどうなるかな…」
 導入時は案内や提案ができればいいわけですから、必ずしも「これが今度の題材名です」と明示する必要はないと思います。ただ、週案や時間割、記録などには必要ですから、授業をした後に子どもたちに、「ねえ、来週の時間割にのせなきゃいけないんだ、なんて書いたらいいかな?」とよく聞いていました。すると、「版の国から」「風をつかまえて」など素敵な題材名を子どもたちは考えてくれました。ということは、題材名は、時間割、指導案、解説書、教科書のような「書」に必要なものといえるかもしれませんね。

Q 中学校美術では主題が明確になるように題材名を工夫することが大事だと言われました。小学校でも同じですか?

A 小学校では学習活動の中で主題が生まれます。

 中学校で、例えば「風景画」という題材名を、「光のある風景」とするだけで、それを聞いた生徒は「光のある風景?」「なんだろう」「どこだろう」「あそこかな」「あ、あの時だ」などと様々に思いを巡らすでしょう。同時に、生徒一人ひとりの主体性や多様性も保障されます。中学生にとって主題は重要な要素であり(※8)、題材名を提示した時点で主題が明確になれば、その題材は半ば成功したと言えるかもしれません。
 一方、小学校は、ひたすら板を彫ってみたり、紙を切ったりするなど、自分の造形的な行為から主題を見付ける傾向があります。作品が出来上がってから、これが主題だったと気づくこともあります。発達の特性を考えれば、まず、子どもたちが造形活動に没頭できるようにすることを優先し、成長の実態に応じて主題性を反映していけばよいのではないでしょうか(※9)

 題材名は、学習という縁起が始まるきっかけです。多くの資源が立ち上がるような題材名、子どもが新しい自分に出会えるような題材名、先生も子どもも一緒になって豊かな縁起が展開するような題材名を考えたいものです。
 教科書の歴史や変遷を調べている中村先生は、以下のように述べています。

題材名は、子どもたちの心を動かす大切な要素です。題材名は時代を追うに連れて、活動そのものから、活動のイメージや感覚を大切にするようになってきました(※10)

 題材名も昭和から平成へと徐々に変化してきました。令和にはどのような題材名が生まれるのでしょうか。楽しみです。

※1:文部科学省「今、求められる力を高める総合的な学習の時間の展開(小学校編)」第3章、86p
※2:文部省『小学校図画工作指導資料 指導計画の作成と学習指導』日本文教出版、1991、82p
※3:「単元を大単元、小単元に分ける場合のほか、図画工作科のような表現教科では比較的小単元中心となるのが多く、単元と言わず題材と呼ぶ場合が多い」文部省「図画工作指導資料」開隆堂、1980、60p
※4:前掲書2、83p
※5:前掲書2、103p
※6:前掲書2、11p
※7:表現の場合でも、子どもがいろいろやっていたら「あ、これ面白い!」「ここはきれいだ」と気付く側面があるので、同様の配慮は必要です。
※8:日本文教出版『中学校学習指導要領(平成29年告示)解説美術編』2017、7pなど
※9:高学年くらいからは、中学校との接続も考慮に入れるとよいでしょう。
※10:東京藝術大学専門研究員・宝塚大学講師・国士舘中学校・高等学校講師 中村儒纏

美術鑑賞の現在地 後編(2010~) 第4回「ビジネスと美術鑑賞(3)対談:アートのある生活という『動き』」

株式会社MAGUS 代表取締役
上坂真人
筆者

 企業の力で日本をアートで素敵にするためには、確かな企業戦略が必要と力強く語る上坂さん。対談の後編では新たに立ち上げたMAGUSについて語ってもらいます。

MAGUS設立の願い

筆者:以前シンガポールに調査に行ったときに、美術館で幼稚園生が英語でディスカッションしている姿を見たんですね。思わずその時、20年後、この子たちが大人になったときに、日本人は勝てるのかなと不安になってしまいました。
上坂:英語問題もありますが、それよりも、欧米もアジアも、ほとんどの国は、子どもの頃から「アートについて語る」教育です。そして、アートの専門教育機関での大事な学習内容は「アート作品を言葉で主張する事」です。村上隆さんも相当書いていますが、皆さんの周囲に、海外のアート大学経験者がいたら聞いてください。皆さん言います。「海外と日本のアート教育は全然違う」って。決定的に違うんです。変革以前のステップなんです。
 「人々がアーティストと語り合う」
 「メディアがアートを多面的に批評する」
 「素敵なギャラリーやアートフェアで作品を買う」
 「富裕層がアートを購入する」
 「住まい、オフィス、商業の各空間がきちんとしたアートで彩る(普通の映画の中で見ることができます)」
 「来訪者とアートについて語り合う」
 「自国文化を語る事が日常……」など
 このようなギャップが結局、日本の文化や経済など様々な停滞につながっているのでしょう。似たような社会制度なのに、北欧や米英、中国などと比べると、明らかに文化への時間の使い方、スタンス、保有欲、関連ビジネスも見劣りというか選択肢に入っていませんね。たぶん、美術館に行くスタンスが違います。
 MAGUSを設立したのは、2021年3月です。生活提案、流通、空間、教育、メディア、批評などいろいろなところにあるギャップをつなぎ、アートに働きかけることで、日本をもう少し素敵にしようという事で始めました。この趣旨で、寺田倉庫、三菱地所、TSIホールディングス、東急の4社が2億円以上を出すのは素敵ですよね。
 ちなみに、行政には頼りません。民間で……です。
筆者:なるほど。アートのギャップに目を向けて、そこからいろんな事を起こしていく、それがMAGUSという感じでしょうか。まだ設立間もないですが、どのような事業に取り組んでいるのですか?
上坂:すべて実験とも言えますし、やってみて柔軟に変わりますが、まずは、アート教育、アートトレード、メディアの順でお話しましょう。

MAGUSアートスクール(※1)

上坂:2021年8月~10月に、個人向け事業として、MAGUSアートスクールを立ち上げました。奥村さんにも講師として登場してもらいましたよね。
筆者:ええ、「アートが育む感性とは?」というお題でした。でも、「アートが感性を育てるかもしれないけれども、証明されていないし、そもそも感性のためにアートがあるわけじゃない」と言ってしまいました。そして、「生存価」の観点から、アートはアートであることを大切にした方がいいし、アートの縁起に参加するという考え方の方がうまくいくのではないかという話をしました。
上坂:ええ、「アートはこんな感性を育てる!」と力強く言ってほしかったのですが……やはり期待を裏切ってくれました(笑)。もちろんいい意味です。
 なぜなら、このスクールは、分かっていることを教える学校ではないからです。教育や美術などの講師は3名のみにしました。その他は、医師、歴史学者、地球科学者、社会学者、僧侶、小説家、法律家、銀行、ジャーナリストなどから多様な視点で語ってもらいました。
 実は、これ以降、企業からのアートセミナーの話がたくさん来るようになりました。大手企業の若きエリート(たった8人の新規事業チーム)向けだったり、対法人営業向けやカード会社のVIP向けだったり……そこではもっと踏み込んだ内容にしています。例えば、海外美術館広報、海外アートフェア出展ギャラリスト、海外オークショニアなど世界でアートの実務で取り組んでいる人々の話ですね。
筆者:それは、聞いてみたいなあ! 最近、盛んに行われるようになったビジネスとアートに関する企画や研修会は「主催者側(美術館や美術教育など)が保有しているノウハウを提供する」という形が多いです。でも、主催者側の視野が狭かったり、既存の概念のままだったりすると、その問題点の再生産になってしまいます。
上坂:それは避けたいですね。日本における最近の動きを考えれば、既存の教育が求められているわけではないのです。例えば、現代アートのニュースは増えているし、最近ではNFT等の価格面での報道が相次いでいます。また、若い人や富裕層はアートを実際に購入しています。
 私はよく「買った後にどうしたらいい?」「保存は、修復は、相続が、税金は?」と尋ねられます。「個人美術館をつくりたい」「世界のアートマーケットが知りたい」「オークションに参加したい」などの積極的な声もあるんですよ。このような声に対応できる教育の場が必要だと思います。

CADAN ROPPONGI presented by Audi(※2)

上坂:法人向けには、2021年10月~11月、期間限定のギャラリーを六本木ヒルズのヒルズカフェにつくりました。ギャラリーの資金を出したのはAudi、作品を提供したのは日本の信頼できるアートギャラリー集団「日本現代美術商協会」です。そしてメガバンク、証券PB部、百貨店外商、カード会社などが、それぞれの「顧客」から、このところのセミナー等でアートに関心を持ち始めた「顧客」を呼んでくれました。
 公開対談では、普通は知られていないアートコレクターが、「アートを買う愉しさ」について語りました。また、米国のナショナル・ギャラリーに多数の現代アートのコレクションを寄付した夫妻のドキュメンタリー映画「Herb & Dorothy」も上映して、コレクションについて考えてもらいました。
 結果として、参加企業には新しい「顧客」と接する場を提供し、アーティストには作品の売却を通して利益を還元することができたかなと思います。
筆者:ギャラリーを通してコレクター同士が交流したり、買い方を知ったりするわけですね。それぞれの企業論理に閉じ込められた「顧客」をアートによって開くというか、新しい消費者の開発というねらいもあるのではないですか?
上坂:そうですね。複数の企業が「買う」視点でアートを観る機会がないというのは、本当に世界の常識とかけ離れていると思います。企業がアートを通してつながり合ったり、「顧客」を見直したりするという視点も、これまでなかったでしょう。
筆者:期間中にギャラリーに訪れましたが、オープンな雰囲気で、明るくて、「コアなファンが個展に集まって作品を購入する」という感じではありませんでした。二層、三層に色が動く作品はNFTでの販売でしたけど、相当ほしくなって……かなり心が動きました。やはり「買える」という条件で作品を観ると、その作品を「どこに置こうか」「どう活用しようか」と意識が変わりますよね。
上坂:世界では常識の愉しさです。海外旅行に行く、ジャズに親しむ、ちょっと服でおしゃれする……のと同じなんですよ。楽しみが。そして、知人がうらやんでくれたり、友人との会話が弾んだりする。そして、それがかっこいいと分かれば、人はエネルギーとお金を割きます。
 でも、これまで日本では「どこで、何を買ったらいいの?」「アーティストと直接話したい!」という層にアプローチしてこなかったのでしょうね。そのような人々は、いまだに誰を信じればいいのか分からないし、どのような情報をもとにすればいいのか分からないままの状態におかれていると思います。そこで世界の愉しさを伝える。いわば、明治維新です!
筆者:そこで立ち上げたのが国際メディア「ARTnews JAPAN」ですね。

「ARTnews JAPAN」(※3)

上坂:「ARTnews」は、1904年創刊のアメリカの老舗アートメディアです。「ARTnews JAPAN」はその信頼性をもとに、2022年1月にスタートしました。Webマガジンとニューズレターとたくさんのイベント、企業との共同事業(ギャラリー、イベント、教育)を通して、読者と世界を接続したいと考えています。
 例えば、「ARTnews USA」の全訳記事を毎日1本提供して、世界のアートシーンの愉しさとビジネス度を具体的に伝えます。UBSなど世界的な銀行のアートレポートの概要も紹介します。奥村さんはご覧になったことありますか?
筆者:どちらもNoです。うっすら情報として知っているだけですね。私の場合、美術や美術教育とかに偏っていますし、そもそも、そのような情報にアクセスする手段を持っていません。
上坂:日本では、アート情報に偏りがあるのが現状です。世界では、まず企業が乗り出すための数字がたくさんあります。UBSは毎年300ページのデータです。富裕層の中のアートへの関心と超具体的な用途等々、まあHPで見てください。膨大なデータが公開されています。JPMorgan、AXA……。この事実を日本の企業は知らないわけです。アメリカの大手美術館には営業が10人くらいいます。各美術館ごとにですよ。そして、数値で企業を口説きます。
 世界のアートに関するマーケティングやブランディングの具体事例を紹介したり、日本のビジネスパーソンにとってのアートを考えたりするメディアもありませんでした。世の中にたくさんいるアートコレクターが直接語る場もなかったのです。それでは企業も戦略を立てようがないですよね。「ARTnews JAPAN」はそこを担います。
 ただし、単なる情報提供で終わるつもりはありません。「ARTnews JAPAN」を通して、日本から世界に向けたアーティストやアート情報の発信も行いたいし、ワークショップや交流会を通して、アートコレクターやトップコレクター、既存の美術関係の人脈、文化人やタレント、さらに、ファッション企業、航空会社、銀行、証券など様々な人々や組織などをつなぎたいです。
筆者:情報提供だけでは、因果で終わりますが、そうではなくて、直接、縁起を起こしていこうというわけですね。具体的にはどのようなことを行うのですか?
上坂:分かりやすいところで言えば、「ARTnews JAPAN CLUB」では、リベラルアーツ講座、現代アート体験ツアー、アートコレクター・トーク、アーティストとの交流会、企業戦略としてのアートを考えるセミナー、アートとファッションを研究するワークショップなどを行う予定です。
 他には、個人宅のキュレーションや美術館の貸し切りも提案したいし、顧客に向けたアート購入のアドバイスや、アーティストが個人向け制作をする手伝いなどもしたいですね。サザビーズやクリスティーズでオークションを体験したり、トレードフェアの海外ツアーも楽しいでしょう。でも、トップコレクターから、2000万人ともいわれる美術鑑賞人口までを視野に入れれば、まだまだいろんなことができそうです。
筆者:上坂さんの仕掛けは、それが終わったら「おしまい!」ではなくて、その先も物事が転がっていく感じがします。
 そういえば、先日、上坂さんの紹介で、都市再開発チームに講義とワークショップを行いましたが、あれも具体策の一つなのでしょうね。面白かったのは、そこでの反応や質問などがこれまでと違うことでした。例えば、こんな感想をもらいました。
 「私は、仕事をしながら、アートとエンタメは何が違うのだろうとずっと考えていました。分かったのは、エンタメは単なる因果の提供だけど、アートはそうじゃないんだなということです。すごく腑に落ちました」
 この方は、アートにもエンタメにも仕事で関わっていて、そこで悩んでいたようなんですね。こういう感想はこれまでもらったことがなかったので、とても勉強になりました。
上坂:今までのように、何か一つの事業を行って満足したり、既存のノウハウで収斂したりしているだけではダメなのです。横に、縦に、つなげていって、人や企業を動かしていかないと。だってアートは「社会や文化、経済も含めたダイナミックな『動き』(※4)」なんですから。
 MAGUSとしては、すでに様々な企業に対する経営戦略や事業企画の提案、国際的なブランディング、顧客へのセミナー、社員教育などを始めています。将来的には「世界標準のインターナショナルアートスクール」や「世界への出口があるアートアワード」も立ち上げるつもりですよ。
筆者:上坂さんのお話を伺っていると、そのダイナミックな方向性に目が回ってしまいそうです。また、今回、特に心に残ったのは、冒頭の「すべて実験とも言えますし、やってみて柔軟に変わります」という言葉です。
 それは、小学校図画工作の造形遊びの考え方と同じなんですね。教育とビジネス、まったく異なる実践なのだけれども、基礎の部分で互いに共通性をもつということは、そこに大事なことというか、真髄があるような気がしました。
 2回にわたった対談ありがとうございます。

※1:MAGUS NEWS『MAGUSアートスクール(プレ版)開校のお知らせ』
https://magus-corp.jp/news/1.html
※2:美術手帖『アートが身近にある生活を。「CADAN ROPPONGI presented by Audi」が六本木ヒルズでスタート』
https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/24724
※3:『ARTnews JAPAN』
https://artnewsjapan.com/
※4:上坂真人『学び!と美術<Vol.115> 美術鑑賞の現在地 後編(2010~) 第3回「ビジネスと美術鑑賞(2)対談:アートの動き」』より
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art115/

美術鑑賞の現在地 後編(2010~) 第3回「ビジネスと美術鑑賞(2)対談:アートの動き」

株式会社MAGUS 代表取締役
上坂真人
筆者

 2015年のことです。ある人が突然「美術鑑賞の話が聞きたい」と大学に訪ねてきました。広告制作や写真素材を提供する企業アマナの上坂さんです。語り合ううちに美術の現状や問題意識など、すっかり意気投合しました。ビジネスと美術について語るには最もふさわしい方だと思いますので、今回ご登場いただき、上坂さんの話を通して2010年以降のビジネスと美術鑑賞の関係について見ていきましょう。

アートをもっと「動き」に

筆者:なぜ、私のところに訪ねて来られたのですか?
上坂:そうですね……では、突然で申し訳ないですが、藤原聡志とか、水谷吉法とか、日本人アート写真家をご存じですか? 今、世界でとても高い人気を誇っていますが……。
筆者:不勉強ですみません……分からないです。
上坂:いえ、奥村さんの責任ではありません。まさに、そこが問題なのです。海外では、アート写真家のブランディングや、センスのある消費者とアーティストが交流する機会などを企業がきちんとサポートしています。日本でも音楽やスポーツにお金を使うことはありますけど、アートにはそうでもないですよね。世界的に活躍しているアスリートや音楽家は知られていても、アーティストはほとんど知られていません。一方で、アート業界側も、アートにお金を投じるメリットを企業に提案しているとはいえない状況でした。当時、このままだと、日本は世界とますます分離してしまうという問題意識があったのです。
筆者:なるほど、そういえば、その話で盛り上がりましたよね。「アートの普及に対して社会は何もやっていないんじゃないか」とか「アートを健全に批判したり、資産的に価値づけたりするなど、多面的に評価するメディアが不在だ」とか。海外では、新聞や雑誌のトップニュースがアートだったり、レコード大賞みたいなアートアワードがあったりするのに、日本はそうじゃない。ただ「このアートが高い」とか「なんか評判がいいらしい」だけで終わっているという話だったと思います。
上坂:アートは、人や企業、資金、作品や評価などが連動する生き生きした「動き」だと思います。社会や文化、経済も含めたダイナミックな「動き」です。でも、メディアや教育がそこを踏まえているようには思えないし、「動き」自体がニュースになっていません。そこで、まず、世界的な視点で、かつ、経済的な視点からも、きちんと評価できるメディアを日本で立ち上げようと思いました。ようやく今年の1月に『ARTnews JAPAN』をロールアウトすることができたところです。
筆者:アートをもっと「動き」にしようというわけですね。
上坂:アマナはアートフォトを手掛けている会社なので、2005年あたりから、アートを「見る」だけではなく「買う」、あるいはアーティストと「語る」、アートを通して文化を「考える」、そんなライフ・スタイルの実現を目指しました。
 その活動の中で、日本精神科看護協会の末安民生会長が「アートには効用がある」と話していて、じゃあ「アートが心を静める効果を数値化し、医薬品企業を巻き込んでセミナーをやったら面白い」と思いついたのですが、その時、奥村さんの本が目に飛び込んできました。
筆者:ビジネスと美術鑑賞を結び付けた題目に引っかかってしまったわけですね。
上坂:ええ、まんまと(笑)。居住空間、オフィス、医療施設などの空間コーディネイトに関心のある方を対象に、3回連続セミナー「アートは人の心を鎮めるか」を企画して、その一つが、奥村さんと末安会長の対談「アート鑑賞が心に効く三つの理由」でした。
 でも、奥村さんの話は「アートが心を静める」というよりも、むしろ「脳を活性化させる話」でした。期待とは正反対だったのです(笑)。でも、面白かったので今もお付き合いを続けさせていただいているというわけです。
筆者:そうだったんですか。期待に応えられずに、申し訳ない(笑)。どうも生来「アートは心を豊かにする」とか「生活を美しくする」という言説が苦手で、「本当にそうか?」と思ってしまう性格なんです。

アートのある生活

上坂:世界のアートシーンと接しながら、日本と感じるギャップはそれだけではありません。例えば、日本には展覧会とか画廊とか、息が苦しくなるような空間はあるのですが、街の人々が気軽に入ったり、アートを買ったりする『空間』がないんですね。気軽に楽しめる『フェスやフェア』も少ない。作品の前でこの作家はああだとか、この作品はこうだとか、「語り合う」スタイルも見られない。そこで、街の人々が楽しめる開放的な『空間』としてギャラリー『IMA CONCEPT STORE』を六本木に作りました。セミナーで使った場所です。
筆者:大好きな海外の作家の作品があって喜んだことを覚えています。同時にそれが気軽に買える場所でした。
©Shinichi Ichikawa上坂:最近は『イエローコーナー』といって、高品質の写真を購入できるギャラリーを「東京ミッドタウン日比谷」に作りました。「絶対、当たるはずがない」と言われましたけど、若い人がよく買ってくれて、今「ニュウマン横浜」に二号店を開店しています。
筆者:自分たちと今の若い人では、かなりアートに対する感覚が異なっていると思います。クラウドファンディングなどもその現れかなと思いますけど、商品として買うというよりも、縁に参加するというか、アートを共有する感覚で購入しているんじゃないでしょうか。
上坂:そうかもしれません。海外では、ミレニアム世代の70%が家にアートを飾り、30%が1年間に1度はアートを購入しているんですよ。それは単なる投機や消費ではないと思います。日本でも若者を中心に気軽にアートを楽しんだり、語り合ったり、時に購入したりするような動きが出ているのかもしれません。
 『フェスやフェア』では、世界8カ国から作家が参加する『浅間国際フォトフェスティバル』を行いました。長野県の東、浅間山麓の御代田町に、旧メルシャン美術館跡地がありますが、PR活動なし、ほぼ一か月半で2万人来場しました。視察に来た企業はANA、資生堂、電通、博報堂、ヤフー、ソニー、パナソニック、野村不動産、三菱地所、三井住友銀行、三菱商事、第一生命保険など70社ほどです。企業側にも、スポーツや音楽のようにアートを企業戦略として「活用する」風潮が見えてきたのかなと思います。
筆者:以前この連載でも取り上げさせてもらいました(※1)。写真が落ち葉に埋もれていたり、プールに沈んでいたりしていて、「こんな展示があるんだ!」と驚きました。町の人々や参加者が作品の前で語ったり、その空間を楽しんだりする姿も素敵でした。
上坂:新しい文化・高原公園都市を目指していた御代田町にも、まちづくりや不動産価値の向上という点で貢献できたかなと思っています。
 アートフェスやイベントを行う自治体は多くありますけど、そのほとんどは人口減少に歯止めがかかってません。ただ北海道の東川町だけは例外で、「東川町国際写真フェスティバル」「全国高等学校写真選手権大会」「高校生国際交流写真フェスティバル」というイベントをきっかけに1994年に6973人だった人口は2018年には8216人まで増加しています。もちろん、アートだけが原因ではないのですが、自治体にちゃんと貢献しているかとか、アートの自己満足で終わってはいけないとかは大切な視点だと思います。
筆者:上坂さんは次々とというか、「事を起こして」いきますよね。私は、今「アートは縁起だ」とよく話しているのですが、まさにそれを実践している方だと思います。

アートとビジネスの新しい動き

筆者:新しい動きは様々なところで現れていますね。2018年には文化庁が「総合的な文化行政の推進に向けた機能強化」として組織再編していますが「文化経済・国際課」「文化資源活用課」「参事官・文化創造担当」などの組織名からも新しい概念が見えると思います。
 2019年度から文化経済戦略に基づいた「文化経済戦略推進事業」というのも行われているんですが(※2)、そこでは「アーティストと企業の共創事業」「アーティストによる企業向けワークショップ」「アーティストと企業・起業家のネットワーク」「文化芸術への投資の測定・評価」「アーティストとの交流が企業にもたらす好影響」「文化を源泉としたビジネス課題解決」「民間企業の美術品コレクションの形成と活用」などが提案されています。一昔前を考えれば、アートのとらえ方はずいぶん変わったと思います。
 美術教育だけを見ていると、このような動きは中々見えません。でも教育はあくまで社会の一部ですから、できるだけ物事を広く見ていく必要があると思います。私にとって上坂さんは教育以外の視野を獲得する大事な出会いでした。
上坂:ありがとうございます。世界のアート市場はどんどん拡大、拡張していて、日本だけが取り残されている感じです。まだまだ世界で、日本の存在感は薄くて、近年「日本のアート市場を1兆円規模に」という話も散見するようになりましたが、まだ0.3兆円くらいじゃないかなあ。
筆者:以前働いていた宮崎県立美術館はマグリットの「現実の感覚」を所蔵しているんです。国立新美術館「マグリット展」でも展示されていた名作です。1990年代に購入した時は2億7千万でした。「今、いくらくらいですか?」って画廊関係者に効いたら20~50倍はするだろうと言っていました。世界と日本で大きなギャップがあるようですが、知らない方は多いですね。
上坂:企業がどんどん仕掛けていくべきだと思います。アマナは膨大な写真コレクションを持ち、いろいろな作家とつながっているのですが、作家の代わりにギャラリーやメディアと交渉したり、世界の主要アートフォトフェア・フェスに出展して、アーティストを招聘し作品を販売したり、企業のブランドに応じて高品質なイベントを企画運営したりしています。そのようなプロジェクト「IMA」を立ち上げたのが、2011年でした。
筆者:取り組みは2010年代から始まっているのですね。上坂さんのお話を伺っていると、「ビジネスと美術」という狭いとらえ方ではなくて、企業も人々の創造的な生活をつくりだしていく「動き」であって、その一つにアートがあるという感じがします。
上坂:私たちは、アートの愉しさや深さを広げ、民間企業の力で日本をアートでもう少し素敵にすることを目指しています。ただ、よく誤解されるのが企業の社会貢献という考え方です。私たちが行っているのは、単なる社会貢献ではないし、社会貢献ではダメだと思います。提案しているのは地道な企業戦略です。それが欠けると、何十年も前に起きた「企業によるアートの買占め」につながって、「○○社が○○の名作を○○億円で購入した」みたいな「あだ花」で終わってしまいます。
 ただ、2018年あたりからは、はっきりと流れが変わり始めました。私たちのところに、商業施設がから「アートのコーナーを作りたい」という話が次々と来るようになりました。彼らも、もうグルメやファッションでは差がつかないことに気付いたのでしょう。
 でも、「アートだったら、なんでもいいので」みたいな感じもあって、まだまだ抽象的な依頼です。アートを日常にするシナリオに欠けるというか、消費者構造を変革する前提に欠けています。「アートは社会問題の表出物」であり、「アーティストと語ることを通して生まれるものがある」という観点もないですし、自国のアーティストを育てようとする意識もありません。
 海外では金融機関が膨大な調査を発表していて、アートが産業化する基礎ができています。富裕層はほぼ全員がアートコレクターなんですが、そこにアプローチする意識も明確です。アートの専門教育では、アートに関わるディベート、マーケット調査、契約実務、プレゼンまで行っています。そのあたりも世界とのギャップでしょうね。
 企業がアートを支えるのは、確かな企業戦略が必要で、一般的な消費者だけでなく、富裕層も含めてビジネス的意義と社会的意義をしっかり見つめていかないといけないと思います。
筆者:その解決策の一つが、今、取り組んでいらっしゃるMAGUSですね。アートスクールのような個人向け事業、コレクターを増やす手立てなどいろいろ実践されているようですが、そのあたりを来月じっくりと伺わせていただければと思います。

※1:学び!と美術<Vol.75>「写真は地域社会を変える?」
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art075/
※2:文化経済戦略推進事業
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunka_gyosei/bunka_keizai/92916901.html

美術鑑賞の現在地 後編(2010~) 第2回「ビジネスと美術鑑賞(1)」

 ビジネスと美術鑑賞……この話題は、意図的に避けてきました。理由は、筆者が、①ビジネスの専門家でもないのに、②美術鑑賞とビジネスの「言い出しっぺ」になってしまったからです。教育界の人間としては、どうにも居心地が悪く、本連載で語ることには抵抗がありました。
 とはいえ、「ビジネスと美術鑑賞」については、すでにいろいろな人が語っています。また、この連載も10年目で一区切りを迎えようとしています。本連載のテーマは「図画工作科・美術科が今できること」、その第1回では「図画工作科は子どもの何に役立つのか」「美術科は世の中の何に貢献するのか」とも書いています。「美術鑑賞の現在地」という観点から「ビジネスと美術鑑賞」について取り上げないわけにはいきません。しょうがない……重い腰を上げましょう。

「言い出しっぺ」

 「言い出しっぺ」になったきっかけを振り返ってみます。
 筆者は2015年にビジネスと美術鑑賞が直結するようなタイトルをつけた本を出版します(※1)。理由の一つは、2012年の科研の海外出張(※2)でビジネスパーソンが美術館で朝早くからギャラリートークに参加している姿に出会ったことです。もう一つは、本の対談で、女子美術大学の前田基成教授から海外では企業がビジネススクールではなく、アートスクールに社員を派遣していると教えてもらったことです。
 どちらも一瞬「?」と思う事例ですが、子どもの鑑賞活動に関わってきた筆者にとっては至極当然でした。子どもの美術鑑賞は創造的で、かつ論理的に展開します。それはビジネスに必要な力を高めることにもつながるでしょう。そこで、美術鑑賞が問題解決力などを高めること、脳を活性化させる活動であることなどについて、子どもの具体的な姿を紹介しながら、学校教育における鑑賞教育についてまとめました。要するに、タイトルは「ビジネス書」っぽいけれども、中身は「教育書」だったのです。
 特に売れ行きが良いという話は聞きませんでしたが、タイトルの効果か、美術教育以外の分野で取り上げられることが数回ありました。ところが、その後、2017年に山口周氏の『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』がベストセラーとなり、秋元雄史『武器になる知的教養 西洋美術鑑賞』、ニール・ヒンディ『世界のビジネスリーダーがいまアートから学んでいること』(※3)など、ビジネスと美術鑑賞に関する本が次々と出版されます。美術を用いてビジネスを活性化しようとする動きも目立つようになり、一種のブームのような状況が生まれ、筆者の講演や研修などの依頼も1/3がビジネス関係になっていきます(※4)
 おそらく、私の著書は、ビジネスと美術に関する大きな動きの一つに過ぎず、指摘したのが早かったので「言い出しっぺ」になっただけでしょう。ただ、学校教育のノウハウや美術鑑賞が一般社会に認知されたことはうれしいことでした。

美術鑑賞はビジネスに役立つ?

 「美術鑑賞」と「ビジネス」を結び付けることには、当初から批判の声がありました。この批判から「美術鑑賞とビジネス」について考えてみましょう。それは筆者の立場を表明することになりそうです。
 出版してすぐに、教育界からは「美術教育はビジネスのためにあるのではない」と言われました。ビジネス側からも「ビジネススキルを上げるために美術鑑賞に行きたくない」という声をもらいました(※5)。どちらも妥当だと思います。「美術鑑賞がビジネスに役立つ」という言説は直感的に胡散臭い匂いがします(※6)
 美術史や美術館学を研究する半田滋男教授は、ある会議で、美術をビジネスと結びつける功利的な傾向を次のように批判しています。

草花が薬として役立つことはあるが、そのために咲いているわけではない(※7)

和光大学
半田滋男教授
 同感です。草花の効用と、草花の存在は、本来、別の話です。同じ会議で、研究者の平野智紀氏は、自身が関わったアートプロジェクトで、ミュージアム・エデュケーター会田大也氏との議論の中で出てきた「アートはあくまでアートのためにあり、何かのためにあるものではない」という言葉を紹介してくれました(※8)。確かに、アーティストは教育やビジネスのためにつくっているわけではありません。
 その会議の結論は、「美術館や学校には目的や役割があるけれども、美術に価値や役割があるという話はどうも怪しい」「美術という花が開いていること自体を大切にするべきで、美術の効果を因果的に語るのは違うだろう」ということに落ち着きました。

美術鑑賞は創造過程

 そもそも美術鑑賞は、それ自体で意味のある貴重な実践です。65年前のマルセル・デュシャンの指摘「創造過程」を引用しましょう。
 多くの人々は「芸術家こそが、創造的な作品を生み出すことができる」と思っています。それは、芸術家という個人の中に創造性やひらめきがあるという個体主義的な考え方です。これに対して、デュシャンは芸術家だけで創造活動を完遂することはできないと断言します。

「要するに、芸術家は一人では創造行為を遂行しない。鑑賞者は作品を外部世界に接触させて、その作品を作品たらしめている奥深いものを解読し解釈するのであり、そのことにより鑑賞者固有の仕方で創造過程に参与するのである。こうした参与の仕方は、後世がその決定的な審判を下し何人かの忘れられた芸術家を復権するときに、一層明らかになる(傍線筆者)(※9)

Portrait de Lisa Gherardini, dit La Joconde ou Monna Lisa | Image via Louvre Museum 創造は芸術家が作品を作り終えた時点で終了するのではなく、そこに鑑賞者が参加することによって成立するというわけです。美術鑑賞は鑑賞者が創造行為のプロセスに参加する「創造行為の遂行」の一部であり、それ自体がかけがえのない創造活動といえるかもしれません。
 そういえば、あのモナリザも1800年代までは今ほど高い絵ではなく、ラファエロの方がよほど高価だったようです。しかし1911年の盗難事件とそのニュース、海外で展示される際に掛けられた保険金額、数々のパロディなど様々な出来事によって世界最高の絵画になったといわれています。芸術の創造、言い換えれば「芸術という草花が咲く」ためには鑑賞活動を始めとして、様々な縁起が不可欠なのだろうと思います。

「証明」できないことが大事

 人々は常に「AだからBである」というような因果を求めます。でも、因果で証明できないことも大事です。
 以前取り上げたOECDの報告書『アートの教育学』では、世界中の研究を分析した結果、美術教育と学力に一定の相関が見られたことを紹介しています。「空間認知」「心的イメージ力」「推論する力」「粘り強さ」「問題を発見しようとする力」「他者と異なる方法で解こうとする態度」「学力」「メタ認知力」「欠席率」「学習意欲」「非行減少」等々、これらの学力等と美術には、それなりの相関はあるようです。しかし、どれも因果は証明できませんでした。そこから、OECDの出した結論はこうです。

究極的には、たとえ芸術教育が芸術以外のスキルにインパクトを与えるというエビデンスを見付けたとしても(中略)芸術は本来それ自体が教育にとって重要なものである(※10)

 芸術教科が他教科の学力を育てることが本当だとしても、それが因果として証明できたとしても、芸術は芸術それ自体が重要で、だからこそ教育に必要だというわけです。因果を求める人々には申し訳ないのですが、おそらく因果として語ったとたんに、大切なことが見失われると思います。OECDの報告書はその警鐘としてとらえたいものです。
 そこで、この言い方を借りて、「ビジネスと美術鑑賞」に関する筆者の立場を表明しておきましょう。

美術鑑賞がビジネス、教育、医療等、何かの役立つとしても、そのために美術鑑賞があるわけではない。美術鑑賞は、それ自体に意味がある。

 美術鑑賞を単純な因果としてとらえるのではなく、縁の紡ぎ合いのような実践として、あるいは、それ自体を意味あることとして考えていくこと、実践していくことが大事なのだと確認しておきます。その上で、今号以降、ビジネスに関連する動きを紹介していきましょう。

※1:奥村高明『エグゼクティブは美術館に集う 「脳力」を覚醒する美術鑑賞』(2015)
※2:科学研究費助成事業「美術館の所蔵作品を活用した美術鑑賞教育プログラムの開発」基盤研究B 課題番号24300315 代表者:一條彰子。大髙幸放送大学客員准教授(当時)のコーディネートで行われた調査の一つでMoMA(ニューヨーク近代美術館)を訪れたときに気付いたことでした。
※3:2017年から2020年にかけて、山口周「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」 」(2017)、秋元雄史「武器になる知的教養 西洋美術鑑賞」(2018)、ニール・ヒンディ著、長谷川雅彬監修、小巻靖子訳『世界のビジネスリーダーがいまアートから学んでいること』(2018)、電通美術回路「アート・イン・ビジネス — ビジネスに効くアートの力」(2019)、堀越啓著『論理的美術鑑賞 人物×背景×時代でどんな絵画でも読み解ける』など多くの書籍が発行されました。
※4:ビジネス研修に役立つ美術鑑賞のゲームやプログラムも開発しましたが、その一部が以下です。本連載で紹介した「<Vol.78>ラウンド・スケッチ~人気の鑑賞アクティビティ」「<Vol.90>「ラウンド・ダイアローグ(役割交代鑑賞)」」です。
※5:NewsPicks編集部の新刊紹介に寄せられたコメントより(2015)。
※6:「美術は将来ビジネスに役立つぞ!」と言って美術の授業を行う先生もいるとか……それは違うなあ。
※7:「美術検定」監修者会議(監修者:橋秀文・半田滋男・奥村高明・平野智紀)で「アートの価値」という議題に対する和光大学表現学部芸術学科半田滋男教授の発言。
※8:内田洋行総合研究所平野智紀主任研究員の発言。
※9:1957年4月に開催されたアメリカ芸術家連盟の集会で口頭報告した「創造過程(The Creative Act)」より。マルセル・デュシャン著、ミシェル・サヌイエ編、北山研二訳『マルセル・デュシャン全著作』(1995)286p
※10:OECD教育研究革新センター編著「アートの教育学 革新型社会を拓く学びの技」(2016)。学び!と美術「<Vol.61>美術への期待と学力のエビデンス」でも紹介しています。