地域独自で取り組む探究学習は、他地域での実践に活かすことができるのか?

 前回は探究学習の課題設定を取り上げて、ローカルでの生活者としての気付きから課題を設定し、グローバルなど大きな規模でも捉えていくこと、いわゆるグローカルの視点の重要性を考えてみました。こうした視点を持つことは、自身が設定した課題や気付きを通じて、誰かの困りごとに共感をすることや、対岸で起きている出来事に寄り添う資質を育むことにつながるのではないでしょうか。それは、一つの地域や国で課題が解決することが困難になっている現代社会において、地球規模で課題に向き合うことを目指すSDGsの重要な柱「グローバルシティズンシップ(地球市民)」の基盤を創ることでもあると思います。今回は、地域独自で実施している探究学習の他地域での汎用性について考えてみたいと思います。

ひろの映像教育プロジェクト

 福島県双葉郡広野町では、2015年から「ふるさと創造学」の実践として中学生が地域を題材にドキュメンタリー映画を制作する「ひろの映像教育プロジェクト」に取り組んできました。広野町がこの取り組みを開始した背景としては、東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故によって避難を経験した子どもたちが、元の地域への帰還を進める中で地域社会との関係を再構築するという課題がありました。
 ここでは紙幅の都合上、映像制作教育の詳細は省きますが、映画は総合芸術であり、多様な役割を分担させるチームプレーになります。また、テーマ設定から取材、編集、さらには上映会に至るまで様々な対話と思考を求め続けられる、まさに探究的な作業になります。広野町の実践では、それらに加え、映像作家など外部の方との協働や地域住民との接点の創出など、多様な協働の機会を通じて地域に関与し、映像作品を完成させます。これまで広野町で制作された映像作品は32本にも上り、その時々の地域を記録するアーカイブとして公開されています(*1)

広野町での町中の撮影風景

東京都における外国ルーツの若者たちとの映画制作

 広野町での実践は、2016年から豊島区での子どもたちの地域理解として、また2019年には台東区における外国人住民との共生施策の一環として参考にされてきました。
 2020年には東京都全体から参加者を募る形で外国ルーツの若者たちとの映像制作の取り組み「Glocal Cinema Meetup!」が開催され、都内に在住・在学する外国にルーツのある青少年世代が自分たちの暮らす東京都を題材に映像作品を完成させ、上映会を開催しました。この取り組みでは、参加者たちが日常的に抱えている疑問や不安を語るところからテーマ設定が行われました。当時はコロナ禍の真っただ中で、社会的な不安も高まる中、ルーツや肌の色、異文化などの差別や偏見などについての不安も増長されていた時期でもありました。そうした状況下で、参加者たちは映像制作を通じて自己と向き合いながら地域や社会にも向き合い、作品(*2)を制作しました。上映会では制作に参加したメンバーから映像制作を通じて社会に参画をしていくことの意義について語られ、アクティブラーニングとシティズンシップ形成の可能性を大いに感じる機会となりました。

台東区でのイスラム教寺院への撮影風景

私たちの教育実践は他地域でも活かされるのか?

 広野町での実践が東京都での実践の参考となった理由は大きく二つあります。一つは、アクティブラーニングを通じて地域を知る活動への期待。そしてもう一つは、越境を経験しながら地域に関わる機会の創出でした。いずれも、原子力災害によって長期避難を経験した地域での教育実践であることに着目され、都市部における地域理解への活用や文化を越境しながら地域で暮らす外国ルーツの若者たちの地域参画の機会創出としての参考となりました。

Glocal Cinema Meetup! 上映会集合写真

 「ふるさと創造学」の設置を推し進めた双葉郡教育復興ビジョンには、主たる方針の一つとして「双葉郡から新しい教育を創り出し、県内・全国へ波及させる」が掲げられています。説明には「震災、原発事故からの教育復興と持続可能な地域復興に向けた取組は、少子高齢化や産業の曲がり角にさしかかった全国の地域社会においてモデルとなる。」と述べられています(*3)。これは何も災害被災地の特殊な実践の話だけではなく、私たちが取り組んでいる教育実践が地域や規模、さらには文化を越境した時に、どのような実践として活用できるのかというイメージを膨らませることの重要性を含んでいるのだと思います。それは先述のグローカルな視点を持つことでもあり、他者の困り事や他地域の課題に寄り添う資質を育む学びにつながる可能性でもあると考えています。みなさんの実践についても、こうした視点で捉えてみると、面白い可能性が拡がるかもしれません。

*1:ひろの映像教育プロジェクト公開作品
https://youtube.com/playlist?list=PLMib7hbhcSpm-y4pv0W2xSwtrZd8pWdbp&si=iWPEPxaRK6BfUge1
*2:Glocal Cinema Meetup! 公開作品
https://youtube.com/playlist?list=PLMib7hbhcSpkoxDSyz7soRvDAyjhAvmnv&si=oOWYc10LCfHfSJGz
*3:福島県双葉郡教育復興ビジョン 平成25年7月31日報告
https://futaba-educ.net/new/wp-content/uploads/2014/06/vision20130731.pdf

探究学習の課題設定を考える

 今月から三浦浩喜先生から引き継ぎ、本連載を担当する福島大学の千葉と申します。これからは、私が所属する福島大学「地域×データ」実践教育推進室(*1)のメンバーと分担しながら、三浦先生からスタートした「みんなでやってみる」をコンセプトに、教育実践や研究活動について投稿をしていきたいと思います。

災害被災地と探究的な学び

 本連載でも度々取り上げられてきたOECD東北スクールや能登スクールなど、被災地における教育復興の取り組みは重要な役割を果たしてきました。2011年3月に発生した東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故の被災地である福島県では、全町村が長期避難を経験した双葉郡において、2014年から独自の探究的な学び「ふるさと創造学」が始まりました(*2)
 「震災で子どもたちが得た経験を、生きる力に」の思いから郡内すべての公立学校で取り組まれ、多くの挑戦的な探究学習が生まれてきました。模擬会社を設立して商品開発から販売、決算報告までを行う実践や、子どもたちがプロの映像作家と共にドキュメンタリー映画を制作する実践など、八町村八通りの探究学習に取り組んでいます。

「ふるさと創造学」の設置から11年

 被災地に限らず私たちが生きるVUCA社会では、探究学習への注目が高まっていることは教育に携わる多くの方々が実感していると思います。また、全国各地で、「○○学」や「○○探究」などの地域独自のネーミングの探究学習が設置されていることも度々耳にします。これからさらに探究学習の盛り上がりが期待できる中で、設置から11年経った「ふるさと創造学」に取り組む福島県の先生たちが直面している課題を少し紹介したいと思います。

課題の設定が課題

 双葉郡の学校現場を訪れると、「ふるさと創造学」の課題設定が難しいという声をよく聞きます。震災と原発事故から14年、「ふるさと創造学」の開始から11年、学校現場には震災後に入職した先生たちが増えると同時に、当時を知っている先生たちは異動や退職で少なくなっている状況にあります。そんな中で、探究学習の肝とも言える課題をどのように捉えるかに悩む先生たちが多いのも理解ができます。そんな先生たちによく言うのは、課題設定はそんなに大それたものではなく、「身近な生活から考えてはよいのでは?」という投げかけです。

グループワークの様子

あなたにとってその課題は身近ですか?

 今年2月に「ふるさと創造学」に取り組む双葉郡の先生たちに向けて研修をする機会がありました。その時にテーマとしたのが、「生活者視点で課題設定を考える」でした。探究学習に取り組むときに、先生たちが課題設定を行うことも少なくありませんが、これが悪いと言っているのではなく、その課題が取り組む子どもたちにとって身近であるのかという視点が重要だということです。今回の研修ではまず、個人が日常生活の中で体験した不満や不安をヒントに課題設定をする練習をしました。その上で、個人での不満や不安は、もう少し人が増えた集団や地域の枠組みではどのように捉えられるのかを考えてもらいました。そして最後にはさらに大きな枠組み、社会や国境を越えた国際社会ではどう捉えられるのかについてもグループ内で議論をしてもらいました。ローカルで起きていることを、グローバルで考える、またはその逆も含めて、そんな思考に慣れていくと子どもたちが通学路で体感したことから課題設定のヒントが得られるかもしれません。そしてそれは子どもたちの等身大の生活者の視点としての課題であり、自分事としての探究のスタートラインに立つことにつながるのだと考えています。

個人の「右ひざが痛い」から社会を考えたグループの発表
※クリック or タップでPDFが開きます。

 次回は、「ふるさと創造学」の実践が他地域の課題解決につながる可能性について取り上げたいと思います。

*1:福島大学「地域×データ」実践教育推進室
https://region-data.net.fukushima-u.ac.jp/
*2:福島県双葉郡教育復興ビジョン推進協議会「ふるさと創造学」
https://futaba-educ.net/activity/souzougaku/

未来を切り拓く教育をみんなでやってみる②

1.いくつかの異質体験

①資金問題からの当事者意識

図1 OECD東北スクールの緊迫した会議(2014年) いくつか例を挙げると、東北スクールの1年前(2013)の5月、事前視察に生徒たちと渡仏し、イベントの会場となるエッフェル塔下のシャン・ド・マルス公園を見て、パリの高校生や企業、日本人学校の生徒たちと交流し、夢のような一時を過ごしました。しかし、そこでの異文化体験よりも、1年後に本番が迫っているにもかかわらず資金が全く集まっていなかったという危機的状況の方が、はるかに生徒たちに現実の重みを痛感させることになります。困ったときは大人が何とかしてくれるという、予定調和が破綻したからです。自分たちで何とかしなければと、大人も生徒も目覚めたのはこの頃だったかも知れません。

②東北の桜の木をOECD中庭に

図2 OECDに桜を贈るアイディアは良かったが……(2012年) 東北スクールの例をもう一つ挙げると、OECDへの感謝の印として東北の桜をOECD本部の中庭に植樹するというアイディアがありました。そもそもEUでは圏外の植物の輸入を禁止しているので早々に断念したかに見えたのが、彼らは植物の専門家に話を聞き、枝だけなら持って行けそうと粘りました。東北の桜の枝を数十本フランスに輸送し、庭園美術館で接ぎ木をして1年かけて育ててもらいましたが、それが全部死んでしまいました。翌年別の枝を送り、慎重に育ててもらいましたが、本番直前にこれも全滅してしまい、担当の生徒たちは絶望してしまいます。最後はパリ在住の大人がフランス中を探し回って東北縁の桜を見つけ出し、何とかイベントを成功させます。努力に努力を重ねてもうまくいかなかった体験です。

③台湾の高校生に福島のリンゴを

図3 福島・台湾で仲良くクッキング(2017年) 福島市の高校生の台湾との交流プロジェクト(2016-2019)で、台湾の高校生を福島市に招待したときのことです。台湾では家庭で料理をするのが少ないということを調べ、日台の生徒で仲良くクッキングを行いました。福島市はリンゴが特産品なのでアップルパイを一緒につくり、おいしく食べたかに見えました。ところが、その直後に台湾は世界で最も福島の農産物に恐怖を感じている国だということがわかり、帰国した高校生に確かめたところ、「本当はとても怖かった」という本音を聞き、福島の高校生たちは「とんでもないことをしてしまった」と傷つきます。しかしこの経験を通して両者の距離は縮まり、現在も交流を続けています。

④トルコの高校生の叫び

図4 トルコの高校生を囲んで(2017年) 生徒国際イノベーションフォーラム2017の時、和歌山チームのパートナーだったトルコチームが来日しました。この頃トルコではISから逃れる難民で溢れ、クーデター未遂事件も起き、「難民」について調べていたチームの活動はテロの標的になる可能性があり、地下で行わざるを得なくなりました。フォーラムに参加するのは4人のはずでしたが、空港で一人は許可が下りず、渡航できたのは3人のみとなりました。その高校生が、全体の前で日本人に向かって「言葉が通じなくても、勇気を持って話そう!」と言い放ったことが忘れられません。その叫びとも言える言葉の根には、ISやクーデターなどの、日本では全く理解不能で強烈に「異質」な国情があるのです。

2.ボーダークロッサー(越境者)

図5 ボーダークロッサーの概念 異質との接触には、必ず文化的葛藤がつきまとい、時に混乱した状況も生まれます。その混乱を乗り越えたときに本当の成長がもたらされ、子どもたちの視野や人間観も広がると思います。私はこれを「創造的混乱」と呼んでいます。国際交流もお互いに腫れ物に触るような関係ではなく、一度喧嘩して仲直りしないと本当の関係にならないのではないか、といつも言っています。
 アメリカの批判的教育学者にヘンリー・ジルー(Henry Giroux)という人がいて、彼は「ボーダークロッサー(border crosser、越境者)」という考え方を提示します。すなわち、人間社会は子どもと大人、自国と他国、自文化と多文化、学校と学校外、といった境界をつくり安定を保とうとしますが、変化をもたらすためにはそれらの境界(ボーダー)を跨ぐ(クロス)人や考え方が必要だということです。子どもたちや教師は学校と学校の外を行ったり来たりして、学校を対象化させて、変化の担い手になっていくべきだと思います。

3.教育は越境する旅人

 以前、県外の高校生と宿泊付きの交流会を行ったことがあります。こちらで何も準備しなくても、「探究は、うちの学校はここまでやっている」「うちは全然やっていないのと一緒」などと深夜まで議論し、戻った高校生が学校に要望書を出したということがありました。
 しかし一般的な学校は、混乱を避けるためにむしろ学校と外界の壁を高くし、異質との接触を拒む傾向があります。
 子どもたちにエージェンシーを育むには、ボーダークロッサーとして育てること、そのためには教師自身がボーダーを恐れないことが重要だと思います。現在の教員研修は、むしろ教師にボーダーをしっかり教えて、それを越えない教師が優秀としているように見えますし、「越境」した教師が厳重注意を受けたといった例を挙げれば枚挙に暇がありません。また、同質の活動はしばしば忠誠競争を生み、いじめの原因となります。加えて、現在の「働き方改革」は教師の活動をミニマムに抑えようとしているかに見えます。
図6 TravelとTravail 語源的にはトラベル(旅行)とトラバーユ(仏語で仕事)は同じ「苦労」を語源とする言葉で、教育という仕事は、いろいろな世界を巡り帰ってくる旅だとします。越境することはたいへんな苦労がつきまといますが、だからこそ大きな実りがあり、ここで言えばエージェンシーを得る経験となるのではないでしょうか。

 7年間にわたって本連載をさせていただいたことに感謝いたします。今回をもって私の連載を終了し、福島大学の千葉偉才也先生、前川直哉先生にバトンを渡します。今後ともよろしくお願いいたします。

未来を切り拓く教育をみんなでやってみる①

 本連載が始まってもうすぐ7年となります。この連載のサブタイトルは「未来を切り拓く教育をみんなでやってみる」です。理論を頭の中で組み立てるのではなく、まずは子どもたちと動き出すことの大切さを書き記してきたつもりです。しかし筆者自身が実践の現場から離れて久しく、「みんなでやってみる」になっていないと考え、一区切りをつけさせていただくこととなりました。今回と次回とで、ここまでのまとめを書かせていただきます。

1.PBLにこだわる意味

 美術教育を専門とする私がPBLにこだわり続けたのは、子どもたちの「○○を実現させたい」「助けてやりたい」といった現実的な目的を達成する上で、PBLは手段に制約がないということが理由の一つです。学校で教える「教科」は大切です。教科の一つひとつは、現実の問題を解決するための「足場」「足がかり」になり得ます。しかし、たくさんの教科を教えれば、自動的に子どもたちの中でミックスされ、目的を達成するための手段が生まれるかというと、必ずしもそうではありません。英単語をたくさん覚えれば英語が話せるようになるのではないのと同じように、知識や技術の集まりが手段に変化するには次元の異なる変化が必要です。
図1 東日本大震災の避難所で その変化とは、「英語を話さざるを得ない状況に追い込むこと」、つまり「そうせざるを得ない状況に出会い、自ら何かしらの行動を起こそうとすること」です。若い教師が校内暴力に遭遇し「この学校をなんとかしたい」と思ったり(本連載 Vol.02 PBLのはじまり①)、東日本大震災で「目の前の子どもたちを助けてやりたい」と考えたりする(本連載 Vol.04 PBLのはじまり③)退っ引きならない現実との出会いが、人々との新たな連帯を生み、実践がつくられ、結果として新しい能力と方法が生み出されるのだと思います。
 PBLは特別な状況にある特別な人だけが必要なのではありません。人類が今直面している環境問題や平和の問題、日本が直面する人口減少や少子高齢化、それらへの危機感を真摯に感じ、何とか行動を起こしたいという人は少なくありません。すべての現代人は退っ引きならない状況に追い込まれているのです。むしろそうした状況を見えなくしている「何か」を取り除き、問題意識を直接行動に移すことが必要な時代となっています。

2.エージェンシー──「世界への参画」

図2 大震災ボランティアに志願する学生たち 全体を貫くキーワードは「エージェンシー」でした(本連載 Vol.23 Education 2030と新しいコンピテンシーの定義②)。一般的には主体性や当事者意識などと解されますが、私は勝手に「世界への参画」と意訳しています。生徒一人ひとりの能力を指す概念ではなく、個人と個人、個人と世界との関係性を意味する概念だと考えています。自分が周りの世界にどれだけ関与しているかによって、問題意識のレベルは異なります。
図3 子どもたちを励ますワークショップ OECD東北スクール(本連載 Vol.05〜10)で得た最も大きな知見は、子どもたちは「異質との接触」を通して学び、成長していくということでした。他者の視点で住み慣れた「日常」を捉え直すことで、それまで気づかなかった強さや弱さを知り、同時に多様な価値観を会得し、「日常」をつくり変える糸口が見えてきます。その「異質」とは、異世代だったり、学校の外だったり、海外だったり、失敗体験だったり、自然災害だったりするかと思います。言い方を変えれば「生々しい現実」「抜き差しならない状況」「真正性(オーセンティシティ)」と言えるかも知れません。それらの気づきや出会いには、多くの場合「痛み」が伴います。自分がこれまで理解していた世界の、その真相は少し違っていた、全く異なるものだったと知ったとき、傷つくこともあればめまいを感じることがあるかも知れません。「アウシュビッツの悲劇」や「大震災時の救命活動」、「ウクライナの子どもたち」など、まさにこれに当たると思います。これらはエージェンシーを考える上で重要なヒントを含んでいるものと思います。

3.体験の「異質性」

 総合学習や探究活動が活発になるにつれてこのような異質との接触を内容とする実践は増えているように思えますが、問題はそれらが本当に「異質」になっているのか、ということです。ややもすると、それらは学校の境界をただ広げている(同質の拡張)だけ、コンフォートゾーン(快適な場所)の拡張ということも少なくありません。子どもたちが総合学習で学校を離れ町歩きすることは認識の幅を広げる貴重な機会ではありますが、それがここでいう異質性との接触かと言えば、必ずしもそうではないと思います。町歩きの最中、何かイレギュラーなこと、例えば高齢者が転んで動けなくなったところに遭遇し、これが「異質性」となって、高齢者を助けつつ高齢者に優しいまちづくりを考える展開になるかも知れません。
図4 子ども支援のケーススタディ学習会 学校の教師は混乱を避け、整然とした時間と空間と、最近では人間関係まで整理した状態で教育活動を展開しようとします。ある小学校のサツマイモ掘り体験で、畑の前で6人ずつ一列に並ばせ、一人1個掘り出したら次の人に替わるというのですが、これが体験にすらなっているのかどうか疑問です。本来の活動では様々な想定外、つまり虫がいて騒いだり、子ども同士でいざこざが起きたりして、雑然とした整理しきれない様々な要素が生まれます。私たちが対峙している社会とは、このように整理されていない、混沌とした性質が主で、予め一つの答えが準備できている状況は希有です。教育の本質とは、時間軸に沿った整然とした物理的な変化ではなく、異質なものとの不可逆的な化学反応にあり、今は存在しない答えをつくることだと思います。

OECD東北スクールから10年③ 能登スクールへ

 OECD東北スクール(以下、東北スクール)に生徒として参加し、能登スクールのサポートをしている草野みらいさんへのインタビューの3回目です。 東北スクールからちょうど10年となった2024年、元日に大地震に見舞われた能登で「OECD能登スクール」が開催されました。東北スクールの元生徒で、能登スクールのサポーターとして参加している草野さんに状況を報告してもらいました。

1.東北スクールから能登スクールへ

図1 アイスブレーク三浦:草野さんはどのような形で参加したのですか?
草野:第1回の能登スクールは昨年8月でしたが、その2ヶ月ぐらい前にOECDの方から力を貸してくれないか、という打診がありました。東北スクールのプロジェクトは1回だけの打ち上げ花火ではなく、その卒業生は財産で、次のプロジェクトに関わってもらいたい、過去から現在につないで、未来の教育にも意味づけをしたいと、おっしゃっていました。それで、東北スクールの卒業生で、現在もそれぞれの地元で働いている人などが集まりました。特別支援学校の先生、造船工、市役所職員などで、また、東京や奈良の仲間も結集しました。
図2 パレットタイムワークシート三浦:能登スクールは、ある意味東北スクールの反省をもとに企画されていると聞いていますが、具体的にはどのようなことを目指したのですか。
図3 自分のアバターを作る草野:コンセプトは「過去・現在・未来への旅」です。そこから自分の色を見つけるという目的もありました。つまり、より良い未来を描くために過去の教訓から学ぶ、けれど、過去の成功にとらわれない。現在の自分自身と地域を見つめる。自分の軸を持ちながら、能登半島のあってほしい未来の姿を考えられるようにという思いです。さらに、時代も地域も超える旅の中で、支援する側・される側、大人・子ども、能登の人・外の人など、二項対立で「ひと」を分断せず、互いの色や個性を尊重し、それぞれ属性が異なるからこそ生まれる新しい見方・考え方を活かしながら、共創する旅を目指しました。
図4 輪島高校にて三浦:東北スクールに比べると、生徒一人ひとりのあり方に重心が移動しているように思えます。東北スクールの場合は、パリでのイベントというゴールが決まっていて、その成功のために汗だくになって動き回り、がんばる人とそれを頼ってしまう人の間に温度差ができてしまいました。まさに昭和の価値観から令和の価値観への移動と言えるのだと思います。

2.アウトライン

三浦:スクール全体のアウトラインはどうでしたか。
草野:全体は3泊4日、能登青少年自然の家で行い、参加者全体で70人ぐらいだったと思います。そのうち中高生は30人ぐらいで、能登出身は10人程度でした。その他は、OECD共同ネットワークの事務局の方や群馬、大阪からの参加者もいました。輪島高校にも出かけていき、そこには40〜50人ほどの高校生が参加していました。
三浦:具体的にはどのようなことをしたのですか。
図5 大きな輪になっておしゃべり
草野:「過去」のセクションのワークショップでは、私たち東北スクールの卒業生が一人ずつグループに入って体験を語ったり、それが現在にどのように生きているか、一緒に考えたりしました。その後で、このスクールに参加することでどのような「リターン(見返り)」がほしいのか、すなわち「ナレッジ・リターン(どんな知識を得たいか)」「ネットワーク・リターン(どんな仲間に出会いたいか)」「ハッピー・リターン(どんな楽しみを見つけたいか)」など、自分を見つめ、それぞれに得たいものを書き起こしてもらいました。
三浦:どのような意図があったのですか。
草野:一つは、参加者一人ひとりが、誰かに与えられた目的のためではなく、自分自身の興味関心から生まれる課題意識に即して、このプロジェクトでやりたいことを見つけてもらうことがねらいです。二つ目は、東北スクールもそうでしたが、一人ひとりが、経験・出会い・知識・夢・エネルギーなど、挙げるときりがないぐらいいろいろなことを得られる場所だったので、この能登スクールに参加する意欲を育てたいと思ったからです。

3.どんなプロジェクト?

図6 バルーンアートの制作草野:いろいろな設定はあえて行わず、大きな目的すら明文化されていません。東北スクールの時のような詰め込みカリキュラムではなく、とても余裕のある日程が組まれていました。「何もしない時間」も組まれていて、自分で目的を見つけて自由に過ごす時間になっていました。一見「何をするプロジェクトなの?」と思われるかも知れませんが(私も実は、特に学生にとっては、自分がここで何をするのか考えることも難しいのではと思っていました)、学生を見ていて確かに学びがあったと感じています。能登に行くという非日常体験自体が目的になり、そこでの出会いや体験が自己開示につながっていたと思います。
図7 バルーンの中で三浦:東北スクールからは考えられないですね。自己開示とは、どのようなことですか?
草野:能登に向かうバスの中で、中学生が隣になりました。良いチャンスだと思い、ワークショップで使う予定になっていた、さっきの「リターン」について、参加者最年少の中学生でも理解ができるか、その時に一緒に考えてもらっていたんです。すると、その中学生は「グロース・リターン(成長)」では「青少年の家に泊まるので、掃除をしっかりやりたい」、「ネットワーク・リターン(仲間)」では「能登に友だちをつくりたい」といいます。そこから派生して、「将来何になりたいの?」と聞くと、「イラストを描く仕事に就きたい」と話してくれたんですよね。それで「私は広告の仕事をしているから、周りにはイラストレーターがたくさんいるよ、そんな人に会ってみたい、でもいいんだよ。」といいました。そしたら「そうなんですか!?」と目がキラキラしていましたね。憧れの職業が、そう遠い、夢だけで終わってしまう話ではないと思ってもらえた瞬間でした。同時に、私としても、能登スクールがどんな存在になるのか、参加者がより実感を持ちながら4日間を過ごせるように、序盤でより丁寧なセットアップが必要だと、気づけたんです。その子は4日間の中で、少しずつ積極性を発揮できるようになり、最終日の朝の集いには国旗掲揚の旗係を買って出るようになりました。
図8 寝そべって作戦会議三浦:なるほど。成長はあったということですね。
図9 輪島高校にて草野:そうですね。ただ注意も必要だと思いました。それがプロジェクトによって生まれた成長なのか、いつもと違う環境(非日常)だから生まれたものなのか、それは現時点では結論が出せないものだと私は思っています。東北スクールの時に、体育館で大きなバルーンをつくり、その中に入って非日常的な体験をして盛り上がったことがありましたが、能登でも新潟大学の先生にお願いしてバルーンアートのワークショップを行いました。同じように生徒も大人も中に入って大はしゃぎでしたが、これに象徴されるように、この非日常性をどのように次のプロセスに結びつけていくかが課題だと思います。学びや成長には、継続性(習慣になって日常に根付く)という側面も必要ですし。それこそ能登スクールが、打ち上げ花火的な、単なる良い思い出として終わってほしくはないので。まだ始まったばかりなので、全体の形が見えてくるのはこれからだと思います。

図10 能登スクール報告書
※クリック or タップでPDFが開きます。

OECD東北スクールから10年② 「越境者」と「媒介者」

 今回も前回に引き続き、OECD東北スクール(以下、東北スクール)に生徒として参加し、能登スクールのサポートをしている草野みらいさんのインタビューを紹介します。

1.「足かせ」ではない学び

三浦:草野さんの教育観について話してもらえますか。
草野:私は中学生時代に生徒会長をやっていて、自動的に「いわき中学生サミット」のメンバーになりました。震災が起きて、地域の復興を担うリーダーになることが期待され、いろいろな活動に参加しました。けれども、当時から地元で働きたいとは思っていなかったので常に違和感を感じていました。ある先生に相談したら、「必ずしもここに残らなくても、いろいろなところでやりたいことをやって、それが結果的に地元に還元されることになるのだとしたら、それは十分意味があることだ」と言われ、気持ちが軽くなりました。私は「学びは足かせであってはならない」と思っています。
三浦:日本では「勉強」という言葉が定着していて、我慢する、無理をするという意味で、学んだり認識したりする意味は含まれていません。学ぶことは我慢すること、と理解されていて、学びという苦役に耐えた人だけが成功を手にすると、本気で考えている先生も多いのではないでしょうか。
図1 東北復幸祭〈環WA〉を終えて(2014.9)草野:そう思います。学びというのは、自分がやりたいことを見つけたり、それを前に進めたりするためにある、その原点には好奇心があるのだと思います。だから「リーダーシップ育成プログラム」といった教育を大人が提供するのなら、生徒の自主性を尊重するという名目に甘えず、生徒の学びが最大化される枠組みを考える努力が大人の責任だと思います。学びというのは本人にとって楽しくて夢中になるものであってほしいので、その環境をいかに設定できるかが重要な気がしています。

2.学ぶ人は「越境者」

三浦:そう思いますが、その楽しさというのも表面的なものと、深いものがあって、どうしても表面的なものに流されがちです。表面的な楽しさはすぐに飽きるので、もっと刺激的な楽しさへとエスカレートしがちです。深い楽しさを勝ち取るためにはいろいろな苦労も必要です。むしろいろいろな苦労を通り越したところで深い楽しさに出会えると思っています。私はそれを「経験の質」と呼んでいます。子どもたちが夢中になると好奇心がどんどんつながり出して、大人が線引きしている境界を越えてしまうことがよくあります。
図2 高校生たちの通訳サポート草野:例えば、歴史と美術をつなぐと、歴史的な出来事がいろいろな絵に表されており、かつ、その時代ならではのとらえ方があって、いろんなことが学べると思います。先日、OECDのグローバルフォーラムで、シンガポールご出身で幼児教育のエキスパートの方が、大人と子どもでは学びの形が異なる、大人は何事にも枠組みや結論や目的を必要としてしまい逆算型になってしまいがちだが、子どもは結論を必要としないため、学びが好奇心のままにどんどん広がる、とおっしゃっていました。子どもの方がクリエイティビティに優れていると言われる理由の一つだと思います。
三浦:大人の知の形は、境界内にまとまるようにパターン化されています。子どもにはそのパターンというものがない。大人は混乱を避けるために、様々な形で線引きをする、つまり境界をつくり、線を越えないように注意します。子どもはその境界が何たるかを知らないので、足が届けばどこにでも進んでいきます。本当は今のような変化の激しい時代、大人もその境界を越える、「越境」することがとても大切なのではないかと思っています。確かに越境することは危険を冒すことではありますが、新しい経験に付きもののワクワク・ドキドキ感も伴います。
草野:日本の学校教育しかり、引いては社会全体の話にもつながりそうですが、境界線への意識が根深いようにも感じます。先生と生徒の立場を明確に区切り、そこを越えると叱られたり白い目で見られたりします。先生と他の職業の間にも一線を引く、みたいなことがよくあります。東北スクールの時にも、そんなことがよくありました。少しずつ「越境」するようになりましたが。先生も生徒もお互いの声に耳を傾ける姿勢は必要だと思います。
三浦:そうですね。力のある先生は生徒を頼りにするけど、力の弱い先生はどうしても自分の力だけに頼る傾向があるように感じます。教師という職業は、他の職業から見ても極めて特殊です。なぜなら、生涯学校の外を知らないで仕事ができるからです。それを教師は自覚しなければなりません。

3.「媒介者」としての教育者

図3 OECD本部で桜の植樹の準備草野:先生は「聖人君子」ではないということを、東北スクールでよくわかりました。往々にして先生はスーパーマンでもあるかのように語られてしまい、全て完璧であることや間違いがないことを求められてしまうけれども、実際は生身の人間です。東日本大震災で学校が避難所になったとき、先生があたふたしていて「こんな時どうしたらいいと思う?」と聞いてきました。先生も困ることもあれば我慢することもある、万能ではないと、あの時初めて知りました。
 先日、児童養護や社会的養護のお話を伺う機会があり、わかったことがあります。それは、私たちの誰もが、世の中には支援を必要としている人がいて、支援が必要だというはわかっているけれども、実際の当事者やその周辺で活動している人とただ認知しているだけの人とのギャップはとても大きいということです。教育でも福祉でも、いわばその両者のギャップを埋めることが、コミュニケーションの役割かなと。知っているだけの人が支援する意味を見出せるように、困っている当事者の声を代弁することで、誤解や隔たりを除いていくことだと思います。
図4 高校生と大学生とで作戦会議三浦:困っている当事者が「誰か助けてください!」と言っても、なかなかうまくいかないことがあります。第3者が客観的な立場で代弁すること、「媒介者」、わかりやすくいえばお節介やきの存在は問題を解決するときにとても重要です。当事者は、その問題状況に目を奪われていて、本当に自分や自分たちがよく見えないのです。当人に鏡を見せて状況を認識させるだけでもとても大切です。

OECD東北スクールから10年① 「オーナーシップ」への旅

 OECD東北スクールの東北復幸祭〈環WA〉in PARISから10年経った2024年の元旦に、能登半島地震が発災しました。同年の8月には、令和版東北スクールとも言える「能登スクール」もスタートしました。OECD東北スクール(以下、東北スクール)に生徒として参加し、能登スクールのサポートをしている草野みらいさんにインタビューをし、二つのスクールの間を埋めたいと思いました。

1.コンプレックスの塊から留学へ

三浦:草野さんはいわき市の出身で、地元の高校を経て上智大学の国際教養学部を卒業して、現在は広告会社の株式会社Queに勤めているということですが、東北スクールとの関わりについて話してもらえますか。
草野:私は中学校で生徒会長をしていて、いわき市の生徒会長サミットに参加していました。そこに東北スクールの案内があり、何をするのかよくわからないまま参加することにしました。私は小学校の頃からリーダーなどの役職を務めることが多かったのですが、同時に、何かに真面目に取り組むことに気恥ずかしさを感じていました。その点、生徒会長サミットの生徒たちが本音で熱く語り合う姿には圧倒されました。今でも、仕事と私生活を問わず、困ったことや悩んだことをすぐに相談でき、語り合える大切な仲間たちです。
 同時に東北スクールでは周りに対するコンプレックスがとても大きかったです。みんなそれぞれにキャラクターを持っていて、それぞれに応じた役割が与えられているように感じましたが、自分はそのようなキャラクターがわからず、自分の役割も見いだせませんでした。
 それもあり思い立ったのが海外留学でした。どうして自分が留学しなければならないのか、両親を説得し、米国テキサス州の現地校に1年間留学しました。そこで見つけた答えは、自分らしさのようなものに憧れるのではなく、周りを気にせず思ったことを率直に言えばいい、キャラクターなど見つからなくてもいい、ということでした。英語もろくに話せないのに身体一つで留学するというのはとてもワイルドだったと思いますが、自分で判断基準を見つけて、自分で決めるというスタイルが身についたと思います。

図1 米国への留学時代

三浦:東北スクールが佳境を迎えていた時期に留学していたのでしたね。日本に戻ってきたのが東北復幸祭〈環WA〉in PARISの2ヶ月ぐらい前だったと思いますが、その意味では東北スクールに参加しつつも客観的に見ることができたということもできますね。
草野:社会人は職業や肩書という社会的に与えられた居場所や役割がありますが、東北スクールは、ある意味では競争的環境というか、役割を獲得した生徒から居場所が与えられるような面があると思います。

2.「win-win」のリレーションシップ

三浦:思春期ならではのアイデンティティ・クライシスのようにも思えますが。
草野:そのとおりだと思います。東北スクールでは資金を調達する役割の「産官学連携チーム」と「桜の植樹チーム」に属していましたが、帰国したときにはだいたい落ち着いていました。留学帰りだったので、桜の植樹のセレモニーの司会や外国人とのコミュニケーションの手伝いをしていました。
三浦:東北スクールで学んだことはありますか。
草野:最初の集中スクールで学んだwin-winリレーションシップ、というのが印象に残っています。それまでは、プランを考えなさいと言われても学校の文化祭に毛の生えたようなものしか思いつきませんでした。一つのことのためだけでなく、受け手や出資した人等、様々な人にとってもいいことを考えることが重要だと言われ、以来、ずっとこの考え方を大切にしてきました。バルーンやドミノ倒しを考えたY先生は、そこにさらに真新しさを追加した案を出していて驚いた思い出があります。
図2 東北復幸祭〈環WA〉in PARISにて三浦:いわきチームのまとまりはどうだったのですか。
草野:いわきチームはみんな生徒会長出身で能力が高かったので、いろんな仕事に駆り出され、いわき市ならではの出し物は希薄になってしまいました。「桜の植樹」は全体を通してもとてもシンボリックなものだったと思いますが、挿し木が2年続けて失敗してしまい、みんなやる気を失ってしまい崩壊状態でした。でも、もしも東北スクールがなく、他の人と同じように高校で受験勉強だけやっていたとすれば、困難を乗り越えて人とうまくやっていかないと物事を前に進めることができない、ということとか、同じものでも異なる視点に立つと見え方が変わる、といったことに気づかず大人になっていたと思います。

3.リーダーシップではなくてオーナーシップ

三浦:東北スクールで学んだことで他に何かありますか。
草野:全体を通して大人と話すことが多かったと思います。その中で当時Y社からプロボノで参加していたMさんには、大学のインターンシップでもお世話になりました。東北スクールのときは、先ほど言ったとおり何のリーダーにもなっておらず、さらに強いコンプレックスを抱いていました。リーダーのような役割を与えられないのは初めてのことで、やりきれていないような不安がずっとありました。

図3 地方創生イノベーションスクールで後輩をサポート

 それを振り返りながらMさんが「大切なのはリーダーシップではなく、オーナーシップだよね」と言ってくれたことで救われたような気がします。今でも大切にしている言葉です。リーダーといった肩書きで存在感を示すのではなく、周りとの関係を抜きに、自分の考え方やキャリア、価値観を貫くこと、つまり自分自身にとってのオーナーシップこそが大切なのだ、と気づかされました。生徒会長サミットや東北スクールでよく言われた「次世代のリーダーを育てる」という言葉に違和感を抱いていたので、「自分が求める価値観はこっちだったのか」と肩の荷が降りた瞬間でもありました。
三浦:なるほど。様々な経験の積み重ねが今の草野さんのアイデンティティを構成していることがよくわかりました。現在もいろいろなプロジェクトをサポートしていますが、そのあたりはどうつながっていくのですか。
図4 プロジェクトのサポート(左は筆者)草野:自分の中でも子どもの頃の経験は現在まで一つの線でつながっていると思っています。それは、学校教育に限定されない本来の教育の在り方に近いはずなんです。ですから、東北スクールの後のプロジェクトにも、絶対に離れないでしがみついていこうと思っていたし、今も業界は違っても教育には関わり続けたいと思っています。能登スクールもその延長線上にあります。
三浦:それでは、そのあたりを次回にお話ししてもらいたいと思います。

PBLで得た力③――新しい旅のために

 様々なプロジェクトを経験し、今年福島大学を卒業し福島市役所で働く社会人の本多美久さんのインタビューの3回目となります。プロジェクト学習を通してどのような力が伸長するのか、考えてみたいと思います。

1.「きょうそうさんかくたんけんねっと」

三浦:本多さんが中心になって活動した国際プロジェクト「きょうそうさんかくたんけんねっと」 (*1)について教えてください。
本多:東日本大震災から10年となった令和3年、「地方創生イノベーションスクール」の終わり頃に、同スクールに関わっていた高校生や大学生で「10年目の節目」になるようなことはできないか、OECD側の方から提案されました。始めは、手伝いのようなことだったらやりたいと思っていましたが、気がついたら主要な役割を引き受けることになっていました。
三浦:OECDが本多さんの人間性や能力を高く評価したということでしょう。
本多:私は、教育や学校のあり方についてずっと問い続けていきたいと思っていました。福井や広島、東京などの仲間と、どんなプロジェクトにするのか、まず、ネーミングから入りました。競争ではなく共創、蹴落とす競争ではなく高め合う競争、傍観者ではなく当事者として「参画」する、「保護者と生徒と教師」、「企業と自治体と学校」のような三角関係を無限につくっていく、プロジェクトのトーンを真面目なだけではなく「ワクワクドキドキ」するような「探検」的要素を入れる、さらに、生徒や大人だけでなく子どもも入れるように平仮名にしていろいろな読み取りができるようにする、などから「きょうそうさんかくたんけんねっと」という名前に決まりました。


図1 きょうそうさんかくたんけんねっとのホームページ

2.「昭和・平成」型から「令和」型プロジェクトへ

 イベントの名前は「あれから。これから、」(*2)です。「あれから。」というのは、過去を大切にしつつ、区切りをつけるという意味合いがあり、東日本大震災だけでなく、これまでの教育や社会のあり方も含まれます。「これから、」というのは、これまでの学びを止めない、新しい旅のようなものを意味しています。
三浦:なるほど、そのような意味があったのですね。その前の「地方創生イノベーションスクール」「OECD東北スクール」は、それぞれの時代背景が大きく影響していて、いい意味でも悪い意味でも結果につながりました。具体的には、指導する側の大人に「昭和」の熱血的な感覚が残っていて、生徒に同じようなヒーロー像やヒロイン像を求めてしまう傾向がありました。そして、大きな結果を残す、そのためには個人的な能力に頼ってしまう、という問題があったと思います。言わば、「昭和・平成」型のプロジェクトから「令和」型のプロジェクトに変える転換点をつくろうとしていたのだと思います。
本多:個人の犠牲に頼らない、緩やかな組織にしないと組織が持たないという面もあります。全国に散らばっている「一緒に旅してくれる仲間」を集めて、「あれから。これから、」のワークショップを組み立てていきました。東北スクールの先輩方や被災地で活動している人たち、海外で同じような活動をしている高校生たちをつなごうとしました。このような活動をすることで意識も強くなったと思います。
 コロナ禍の中ですべてバーチャルでしたが、被災地の大熊町での実況映像などは衝撃を与え、「あれから。これから、」は成功したと思っています。


図2 「あれから。これから、」のホームページ

3.世界と日本、東京と地方……

三浦:その後のプロジェクトの活動はあまり見えませんでしたが、どうなっていたのですか。
本多:個人的な事情で参加できない期間があり、その後再び参加すると状況が一変していました。東京の大学の先生もメンバーだったのですが、国際的なプロジェクトは無理が多く、日本は日本のやり方でやりたいということになり、主要な方が離れてしまったことが一番大きかったと思います。また、地域の課題に根ざすと言いながら主要メンバーのほとんどは東京を拠点にしており、地方との間で不調和が生じたことも小さくありませんでした。
 加えると、コロナ禍で始まり比較的時間に余裕があったものが、学校が再開し時間がなくなったことも活動を困難にした原因です。いずれにしてもゴールが大きすぎて着地点が決められなかったことは反省点だと思います。
三浦:最終的にどのような形になったのですか。
本多:決して自然消滅したわけではありません。いろいろな問題はあったけれども、オンラインで知り合ったメンバーでグローバルな研究を続けていました。1年以上にわたって個人やグループで、関心のあることを調査しました。私はある先生とペアになって、卒論とも関連付けて「地域防災組織」の研究を行いました。このように自然体で学校や社会の問題について話せる場をつくれたことは大きな意味があったと思います。プロジェクトは予定どおり、3年で終了となりました。
三浦:本当に苦労したんだと思います。うまくいった部分もいかなかった部分も、これからプロジェクトを始めようとする人たちの参考になると思います。


図3 きょうそうさんかくたんけんねっとの活動

 本多さんは、今年(令和6年)元旦に発生した能登地震被災地の教育復興プロジェクトに参加しています。8月に第1回の能登スクール(*3)が開催され「令和版東北スクール」として始動しました。彼女はボランティア休暇を取って同スクールに参加し、状況を報告してくれました。中学2年生の時からしっかりした生徒だと思っていましたが、その彼女が9年を経て、他地域の子どもたちを守るとても頼り甲斐のある女性に成長していたことがとても感慨深く感じられました。一連のインタビューを通して、プロジェクトの中では感じられなかった意外な一面に気づかされました。


図4 令和6年8月の能登スクールの様子(左の写真の中央のTシャツは10年前のOECD東北スクールのもの)

*1:きょうそうさんかくたんけんねっと
https://www.edu-kstn.org/
*2:「あれから。これから、」
https://jupiter354.wixsite.com/website/kyososankaku
*3:国際共創プロジェクト「壁のないあそび場-bA-」 2024年8月能登スクール
https://gakugei-asobiba.org/2024notoschool

PBLで得た力②――教育と社会の間で

 今回も前回に引き続き、今年福島大学を卒業し福島市役所で働く社会人の本多美久さんのインタビューを紹介します。

1.学校教育から離れて

図1 シンポジウムで(奥から2番目)三浦:本多さんは社会科学系の学部を出て市役所に就職していますが、もともと教師を目指していた本多さんがどうして進路を変えたのですか。
本多:小さいときから教師に親しみを感じ、憧れを抱いていました。けれども、中学校から高校にかけてプロジェクトを通して地域活動をしていたら、将来も地域のことをやっていきたいと考えるようになりました。地域の中で困っている人のために何かできないか、学校の外でやりたいと思うようになりました。
三浦:学校の教師でもできないことではないと思いますが。
本多:確かに一部の先生は学校の外でもプロジェクト等の活動をやってくれましたが、多くの先生が同じようなことをするのは難しいと思います。私は特に高校の時は、まだ探究活動が始まる前だったので、私が学校の外の活動に参加していることを否定的に捉えられていました。やっぱり、先生は教育の中心は学校にあると思っていて、そこから考えが変わることはないと感じました。
 私は、実は自分が学校に向いていないと思っています。みんなと足並みを揃えることが苦手で、かといってみんなと別なことをやって目立つのも苦手です。みんなの後に教室に入ってみんなに見られるのが嫌なので、いつも誰よりも先に教室に入っていました。自分は孤立しやすいというか、集団が苦手なんだと思います。
三浦:意外ですね。集団を引っ張っているように感じることが多かったですが。大学で社会教育の研究を始めたのはどうしてですか。

2.学校教育と社会教育

図2 台湾の高校で記念品の贈呈本多:大学で学ぶ中で、学校教育ではなく、社会の中でまちづくりや若者の居場所づくりのようなことを考えてみたいと思うようになり、それが社会教育ということになります。当時の学校から見れば「はみ出しもの」だった私たちの活動が、社会教育の中でちゃんと市民権を持っていたことに救われたような思いでした。私としては、高校時代のプロジェクトのように社会教育と学校教育の接続のようなことをやりたかったのですが、社会教育の概念を十分に理解してからでないと学校教育の延長になってしまうと言われ、そこまではできませんでした。
三浦:社会教育は社会教育で独自の領域があり、学校教育は学校教育で独自の領域はあるのですが、そもそも教育とは何かという大きな哲学というか考え方で、いろいろな教育に横串を通しておかないと、ますますバラバラになってしまうのでは、とは思いますが。福島市高校生フェスティバルは社会教育であることを意識してやっていましたが、学校現場とつなげないと、そもそもプロジェクトを進めることはできません。
図3 全国の高校生と意見交換本多:学校は教育の最後に先生が評価しますが、高校生フェスティバルなどはほぼ自己評価でルーブリックを使って到達度を見ます。社会教育も個々の満足度で測るので、とても似ていると思いました。社会教育では住民同士で話し合うことの大切さや市民権の意義、生きがいを形成することなどを学びました。
三浦:教育を大別すると「定形教育」と「不定形教育」があり、前者は学校教育が主で、メンバーが固定していて教育課程がありその到達度で評価します。後者は社会教育が該当し、メンバーはいつも入れ替わり固定したカリキュラムはなく学校のような評価のしかたはしません。私の恩師は生涯、学校教育を研究してきた方ですが、震災後に会ったときに「今は社会教育の方が可能性がある」と言っていたことを覚えています。

3.自分たちの周りにはいいものがたくさんある

図4 東京でワークショップを運営三浦:本多さんはこれからどんなことをやりたいと思っているのですか。
本多:今の仕事も楽しいですが、視野が狭くならないうちに社会教育の仕事ができたらいいなと思っています。住民の方と話して、地域にはどんな方がいるのか、何を望んでいるのか知りたいと思います。先日、子ども・若者と行政が話し合う機会があり、私はファシリテーターをやらせてもらいました。このような、行政が若い人たちの言葉をすくい取ることはとても大切だと思っています。
三浦:ただ、満遍なく聞くということではなく、本当に大切な言葉に気づくことができるかどうかが勝負所だと思います。大人は若者たちの言葉を聞いて、それに反応する責任(responsibility) があります。子どもたちの言葉を飾りに使ってはいけません。
 本多さんは社会のあり方について考えることはありますか?
本多:このままではいけない、と思うことがたくさんあります。本来自分で、あるいは自分たちでやらなければならないところを、行政に過剰に頼る傾向、一般的なサービスを過剰に求めている風潮が気になっています。どこか他人任せで、自分で何とかしようとしないまま、自分で学んだり解決したりする姿勢がないと、VUCA社会に負けて(?)しまうのではないかと思います。地域の結びつきが弱くなると、地域でやっていたことが消費活動に置き換わっていきます。地域の問題を他人事ではなく自分事として考え、行動することが大切だと思います。
三浦:若者に対して何かありますか。
図5 高校生フェスティバルで熟議
本多:先日高校生と話していたときに、自分は結婚したいし、子どもも持ちたいと思っている、しかし子どもを育てる自信がない、子どもが不登校になったり、いじめられたりしたら怖い、という人がいました。そういう問題をどのように解決しようとしているのか聞くと、インターネットで調べる、というのでビックリしました。自分の子どもをインターネットの情報で育てようとする、「子育てチャート」のようなものがあればいい、とも言いました。私とそんなに世代の違いはないのですが、地域の中で子育ての経験のある方とか、自分の母とか頼れるものがたくさんあるはずで、地域の中にはもっと、いいものがたくさんあることに気づいてもらいたいです。都会的な豊かさではない、地域の人や自然などのもっと身近な豊かさにも気がついて欲しいし、それを伝えられるような人になりたいなとも思います。
三浦:高校生フェスティバルをやったときに、アンケートで地域のことを考えている高校生が予想以上にたくさんいることに驚きました。でもそれは、潜在的にいるというよりも、アンケートを取ってその結果を活動につなげることで意識化され形になったのだと思います。活動を通して意識を引き出すことが大切だと思います。

PBLで得た力①――リーダー像の転換

 今回から数回に分けて、実際のPBLで身につけた力は何だったのかを、リアルタイムの生徒ではなく、数年後大人として現在活躍している人たちへのインタビューを通して、考えていきたいと思います。
 今回の本多美久さんは、今年福島大学を卒業し福島市役所で働く社会人です。中学2年から9年間、福島市や国際的なプロジェクトで活躍してくれました。

1.9年間のプロジェクトの遍歴

図1 プロジェクトの遍歴三浦:本多さんとのつきあいはOECD東北スクールの翌年からということになりますが、これまでどんなプロジェクトに関わってきましたか。
本多:中学2年生のときに「地方創生イノベーションスクール2030」(本連載 Vol.15〜30 参照)のプロジェクトに参加し、福島市チームとしての取り組みを始めました。自分たちで作った福島市の観光プランを内閣府の「地方創生☆政策アイディアコンテスト」に応募したところ、高校生以下の部で大臣賞を取り、これがその後の大きな励みになりました(本連載 Vol.17 参照)。そのまま「生徒国際イノベーションフォーラム2017」に参加(本連載 Vol.28〜30 参照)し、高校生になったときに「福島市を創る高校生ネットワーク(FCN)」(本連載 Vol.38〜44 参照)を作り、高校生フェスティバルを毎年開催し、台湾とも交流を続けました(本連載 Vol.31〜38 参照)。大学生になってからは、高校生プロジェクトのサポートを続けてきました。OECDのプロジェクトにもずっと関わってきました。
図2 生徒国際イノベーションフォーラム2017
三浦:たくさんのプロジェクトに関わってきましたが、自分の中で一貫したものはあったのですか。
本多:中学生の頃は先生に言われるがまま、という感じでした。台湾との交流の始まりのタイミングはちょうど高校受験と重なったために休止しており、エンジンがかかったのは後からのことです。「福島市高校生フェスティバル」のときに、本当に自分たちの考えで、自分たちの力でやれるんだと、その後につながる一貫した軸ができたような気がします。
図3 福島市高校生フェスティバル
三浦:あのときは、大人がやってもらいたいことと、生徒がやりたいことがぴったり重なったと思いました。
本多:高校の部活動は競争の世界で、強いところしかステージに立つことができません。高校生の本音は、勝つことだけでなく、自分たちのキラキラしているところをみんなに見てもらいたいんです。この高校生フェスティバルなら点数はないし、自分たちで決めて、やりたいことをやりたいようにできるので、多くの友達に喜んでもらうことができました。高校の生徒会を福島市サイズに拡張したようなものでした。
図4 高校生フェスティバルの準備
三浦:それらは今の自分にどのようにプラスになっているのですか。
本多:大学では防災サークルを作って活動していました。目的を決めて、何をやるか考えて、これをやるにはこんな人が必要、じゃあ誰がその人に声をかけるか、といった段取りは高校生フェスティバルの経験が生きていると思います。自分の力はたいしたことはないので、人の力を借りる、引き出すことが得意なのかな、と思います。
三浦:名前に出てこなかった「きょうそうさんかくたんけんねっと」(KSTN)はどうだったのですか。OECDと連携した国際プロジェクトだったと思いますが。
本多:KSTNのキックオフとなった「あれから。これから、」のイベントを大学1年生のときに手がけました。ここでも高校生フェスティバルの経験が生きましたが、コロナ禍でほとんどの作業をオンラインで回さざるを得ませんでした。オンラインは元々慣れていたのですが、運営は難しかったです。
図5 大学生とプロジェクトの総括
三浦:具体的にどの辺りに難しさを感じましたか。
本多:関わってきたどのプロジェクトも、「大人と子どもの協働」が根幹になるくらい重要だったと思いますが、実際は子どもと大人がバラバラになってしまいます。両者間で話が通じないことが多く、次第に参加者が少なくなってしまいました。国際プロジェクトとしてのOECDの提案が日本の大人には受け入れにくいところもあったと思います。
三浦:日本の学校や行政の文化からすれば、OECDの提案は無茶振りに受け止められることはよくありますね、一皮剥けるチャンスでもあるのですが。自分が身についた力についてもう少し話してもらえますか。
本多:一番大きなものはリーダーシップだと思います。それまでリーダーというのは、人の話を上手にまとめて、正解を知っていて、全体を仕切ることができる人、というイメージでした。だから「高校生ネットワーク」でリーダーを引き受けたとき、自分よりリーダーシップのある人はたくさんいるのに、と思いました。
図6 台湾の高校で福島のブース出展
 実際にリーダーをやってみて、周りには自分の意見を言い出せない人がたくさんいることに気がつきました。1対1だと話せるのに、みんなの前だとダメという人がいます。自分の役割はそうした声を拾うことだと思いました。些細な声を大切にし、整理しないで曖昧なまま伝えることが大切だと気づきました。あと何分以内に意見をまとめて、という状況では意見は出にくいです。心にゆとりがないといいアイディアは生まれてきません。FCNのロゴをみんなで考えていたとき、三浦先生が「何も考えないで手を動かしているといいアイディアが生まれてくることもある」と言っていたことに通じると思います。
三浦:特に大学生になると、大人と子どもの中間の立場で、大人と子どものそれぞれのコミュニティをつなぐ重要な役割があります。大学生はOECD東北スクール以来、その辺りを重要な使命としてこなしてくれました。世代には世代の役割があるのですね。リーダーは部活動のランニングを例にすると、前から構成員を引っ張る役割と、後ろから全体を把握する役割があると思います。本多さんは後者のリーダー像に近いと思います。私は、リーダーの最も重要な役割は、構成員の一人ひとりをよく理解することで、それを踏まえて何をするのか、できるのかを判断することだと思います。リーダーシップは、構成員つまりフォロアーとの関係なしに成り立ちません。