学び!とPBL

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OECD東北スクールから10年① 「オーナーシップ」への旅
2024.11.20
学び!とPBL <Vol.80>
OECD東北スクールから10年① 「オーナーシップ」への旅
三浦 浩喜(みうら・ひろき)

 OECD東北スクールの東北復幸祭〈環WA〉in PARISから10年経った2024年の元旦に、能登半島地震が発災しました。同年の8月には、令和版東北スクールとも言える「能登スクール」もスタートしました。OECD東北スクール(以下、東北スクール)に生徒として参加し、能登スクールのサポートをしている草野みらいさんにインタビューをし、二つのスクールの間を埋めたいと思いました。

1.コンプレックスの塊から留学へ

三浦:草野さんはいわき市の出身で、地元の高校を経て上智大学の国際教養学部を卒業して、現在は広告会社の株式会社Queに勤めているということですが、東北スクールとの関わりについて話してもらえますか。
草野:私は中学校で生徒会長をしていて、いわき市の生徒会長サミットに参加していました。そこに東北スクールの案内があり、何をするのかよくわからないまま参加することにしました。私は小学校の頃からリーダーなどの役職を務めることが多かったのですが、同時に、何かに真面目に取り組むことに気恥ずかしさを感じていました。その点、生徒会長サミットの生徒たちが本音で熱く語り合う姿には圧倒されました。今でも、仕事と私生活を問わず、困ったことや悩んだことをすぐに相談でき、語り合える大切な仲間たちです。
 同時に東北スクールでは周りに対するコンプレックスがとても大きかったです。みんなそれぞれにキャラクターを持っていて、それぞれに応じた役割が与えられているように感じましたが、自分はそのようなキャラクターがわからず、自分の役割も見いだせませんでした。
 それもあり思い立ったのが海外留学でした。どうして自分が留学しなければならないのか、両親を説得し、米国テキサス州の現地校に1年間留学しました。そこで見つけた答えは、自分らしさのようなものに憧れるのではなく、周りを気にせず思ったことを率直に言えばいい、キャラクターなど見つからなくてもいい、ということでした。英語もろくに話せないのに身体一つで留学するというのはとてもワイルドだったと思いますが、自分で判断基準を見つけて、自分で決めるというスタイルが身についたと思います。

図1 米国への留学時代

三浦:東北スクールが佳境を迎えていた時期に留学していたのでしたね。日本に戻ってきたのが東北復幸祭〈環WA〉in PARISの2ヶ月ぐらい前だったと思いますが、その意味では東北スクールに参加しつつも客観的に見ることができたということもできますね。
草野:社会人は職業や肩書という社会的に与えられた居場所や役割がありますが、東北スクールは、ある意味では競争的環境というか、役割を獲得した生徒から居場所が与えられるような面があると思います。

2.「win-win」のリレーションシップ

三浦:思春期ならではのアイデンティティ・クライシスのようにも思えますが。
草野:そのとおりだと思います。東北スクールでは資金を調達する役割の「産官学連携チーム」と「桜の植樹チーム」に属していましたが、帰国したときにはだいたい落ち着いていました。留学帰りだったので、桜の植樹のセレモニーの司会や外国人とのコミュニケーションの手伝いをしていました。
三浦:東北スクールで学んだことはありますか。
草野:最初の集中スクールで学んだwin-winリレーションシップ、というのが印象に残っています。それまでは、プランを考えなさいと言われても学校の文化祭に毛の生えたようなものしか思いつきませんでした。一つのことのためだけでなく、受け手や出資した人等、様々な人にとってもいいことを考えることが重要だと言われ、以来、ずっとこの考え方を大切にしてきました。バルーンやドミノ倒しを考えたY先生は、そこにさらに真新しさを追加した案を出していて驚いた思い出があります。
図2 東北復幸祭〈環WA〉in PARISにて三浦:いわきチームのまとまりはどうだったのですか。
草野:いわきチームはみんな生徒会長出身で能力が高かったので、いろんな仕事に駆り出され、いわき市ならではの出し物は希薄になってしまいました。「桜の植樹」は全体を通してもとてもシンボリックなものだったと思いますが、挿し木が2年続けて失敗してしまい、みんなやる気を失ってしまい崩壊状態でした。でも、もしも東北スクールがなく、他の人と同じように高校で受験勉強だけやっていたとすれば、困難を乗り越えて人とうまくやっていかないと物事を前に進めることができない、ということとか、同じものでも異なる視点に立つと見え方が変わる、といったことに気づかず大人になっていたと思います。

3.リーダーシップではなくてオーナーシップ

三浦:東北スクールで学んだことで他に何かありますか。
草野:全体を通して大人と話すことが多かったと思います。その中で当時Y社からプロボノで参加していたMさんには、大学のインターンシップでもお世話になりました。東北スクールのときは、先ほど言ったとおり何のリーダーにもなっておらず、さらに強いコンプレックスを抱いていました。リーダーのような役割を与えられないのは初めてのことで、やりきれていないような不安がずっとありました。

図3 地方創生イノベーションスクールで後輩をサポート

 それを振り返りながらMさんが「大切なのはリーダーシップではなく、オーナーシップだよね」と言ってくれたことで救われたような気がします。今でも大切にしている言葉です。リーダーといった肩書きで存在感を示すのではなく、周りとの関係を抜きに、自分の考え方やキャリア、価値観を貫くこと、つまり自分自身にとってのオーナーシップこそが大切なのだ、と気づかされました。生徒会長サミットや東北スクールでよく言われた「次世代のリーダーを育てる」という言葉に違和感を抱いていたので、「自分が求める価値観はこっちだったのか」と肩の荷が降りた瞬間でもありました。
三浦:なるほど。様々な経験の積み重ねが今の草野さんのアイデンティティを構成していることがよくわかりました。現在もいろいろなプロジェクトをサポートしていますが、そのあたりはどうつながっていくのですか。
図4 プロジェクトのサポート(左は筆者)草野:自分の中でも子どもの頃の経験は現在まで一つの線でつながっていると思っています。それは、学校教育に限定されない本来の教育の在り方に近いはずなんです。ですから、東北スクールの後のプロジェクトにも、絶対に離れないでしがみついていこうと思っていたし、今も業界は違っても教育には関わり続けたいと思っています。能登スクールもその延長線上にあります。
三浦:それでは、そのあたりを次回にお話ししてもらいたいと思います。