美術鑑賞の現在地~中編(2000~2010)

 前回に引き続き、筆者の見えた風景を振り返りながらまとめます。今回は2005年に文部科学省初等中等教育局教育課程課の教科調査官(※1)として学習指導要領の作成に携わった時期のエピソードを二つ紹介したいと思います。

 教科調査官というのは、簡単にいえば教科の専門的な知見をもとに学習指導要領の作成や解説、指導助言などを担当する仕事です(※2)。教育現場の人間が、いきなり行政に関わることになり戸惑いはありましたが、頼もしい同期採用も大勢おり、村上尚徳教科調査官(※3)という心強い旧知もいて、すぐになじむことができました。
 文部科学省内の図画工作・美術ファンを広げようと、教育課程課の課長以下、大勢で東京国立博物館の「北斎展」に押しかけて、勝手に鑑賞会をしたり(※4)、省内で「美術倶楽部」をつくって鑑賞法の解説や絵の描き方などを体験する活動をしたりするなど(※5)、学芸員や美術教諭の経験を生かした活動も行いました。

富嶽三十六景 凱風快晴 ギメ美術館富嶽三十六景 凱風快晴 東京国立博物館

 上の「初摺(しょずり)」は浅い色合いですが、下の「後摺(あとずり)」はかなり強くまるで夕焼けに見えます。木版の欠けや潰れもみられます。朝焼けという解釈や、快晴の下で富士山の茶色い山肌を表現したなどの意見は「初摺(しょずり)」で確認できます。

学習指導要領や指導主事を起点にした鑑賞教育の動き

 2005年は、まだ「鑑賞って何ですか?」「鑑賞の授業したことありません」という声が聞かれた時期です。平成10年(1998年)の学習指導要領改訂で「鑑賞の独立」と「美術館の連携」が示されたこともあり、年に2回ほど行われる全国指導主事会(※6)でも、鑑賞教育に不安に感じている指導主事の先生が多くいました。
 全国指導主事会では、各自のレポートをもとにしたグループ協議や学習指導要領の解説などが行われます。解説では、対話的な美術鑑賞やアートカードの他、全国から収集した「美術品を時代劇の配役に喩える実践」「複数の器の中から唐津焼を選び出す実践」「美術品の前でアーティストになりきる実践」など様々な鑑賞教育の実践や、その学習効果などを説明しました。
「どれが100円?」佐賀大学教育学部附属小学校杉原世紀先生(現:唐津市立外町小学校校長) 指導主事の先生たちはこれを持ち帰って各都道府県の指導や実践に生かしたはずです。それは、各都道府県のレポートが、年々豊かになっていったことからも分かりました。散発的だった鑑賞教育の実践は、全国指導主事会を通して面のように広がったのだろうと思います。
 このような行政的な取組みは、教育実践や研究の陰に隠れがちですが、鑑賞教育の普及に果たした役割は大きいと考えています。
 私たちの仕事で特に重要だったのは、学習指導要領の解釈と解説です。当時、村上調査官と毎日のように次期改訂の方向について話し合っていました。鑑賞教育に関しては、この時、定義の更新が行われています。それは、村上調査官の「鑑賞教育は創造活動と解釈できる」という指摘からです。
 平成10年版の学習指導要領の教科目標は以下です。

図画工作
 表現及び鑑賞の活動を通して、つくりだす喜びを味わうようにするとともに造形的な創造活動の基礎的な能力を育て、豊かな情操を養う。
美術
 表現及び鑑賞の幅広い活動を通して、美術の創造活動の喜びを味わい美術を愛好する心情を育てるとともに、感性を豊かにし、美術の基礎的能力を伸ばし、豊かな情操を養う。

これを図のように解釈することができると言ったわけです。

 それまで、表現活動を中心とする図画工作・美術において「つくりだす喜び」や「創造活動の喜び」は、描いたりつくったりする喜びとほぼ同義でした。また観点別評価の位置づけも、鑑賞は「知識・理解」事項でした(※7)。しかし、教科目標の理解として「鑑賞教育は創造活動」という解釈は妥当ですし、何より宮崎県立美術館で出会った子どもたちの姿とも一致します。確かに彼らは創造的に鑑賞を行っていました。
 それまでにも「鑑賞は鑑賞者の創造的な行為だ」とする指摘はありましたが(※8)、学習指導要領の解釈としては行われたのはこの時が初めてでしょう。その結果、少なくとも指導主事の先生たちの間では「鑑賞は思考や判断などを含む創造活動」とされ、児童・生徒の能力を伸ばすために必要不可欠な学習活動だという共通理解が形成されたのです。
 この考え方については教育以外でも認める声がありました。例えば、筆者の新聞インタビューを読んだ映画監督の羽仁進氏は、著書の中で以下のように述べています(※9)

 帰ってきたら、新聞に「小中学校、美術館と連携強化」という興味深い記事が出ているのをみつけた。
 単に美術館の見学をするのではなく、そこから生徒たちが新しいものをみつけ出す行為を、双方が力をあわせて探りだそうということらしい。
 お役人であるだろう国立教育政策研究所の調査官の方も、「見ることはつくることと一つ」という素敵な談話をよせている。
 「鑑賞は自分を発見する行為であり、作品の創造ともつながっている」。子どもたちの姿の中に「すっと作品に身を重ねて、自分の世界から鑑賞する」姿を見た、と言う。
 これはなかなかの急所だ、と僕は思う。

 今では、当たり前のように思われている「鑑賞は創造活動」について、当時このような経緯があったことは、鑑賞教育が現在に至るまでの一つの側面でしょう。

国立美術館を起点にした動き

 2005年は美術館の民営化も議論されていた時期でした(※10)。簡単にいえば「美術館はお金がかかるから指定管理者に任せたら」という意見です。
 国立美術館の民営化は、東京藝大平山郁夫学長や河合隼雄文化庁長官(いずれも当時)など関係者の尽力もあって避けることができたようです。ただ「国立」としての役割をもっと果たすべきではないかという声もあり、専門者会議として「国立美術館の教育普及事業等に関する委員会」が立ち上がります。私は突然その座長を担うことになり(※11)、短期間でメンバーを集めて提言をまとめることになりました(※12)
 提言の一つは、鑑賞教育活性化のために鑑賞教材の開発・普及を行うことでした。当時の教材カタログを開けば分かりますが、鑑賞用の教材は掲示用作品や画集しか掲載されていません。教師の能力は、単独で成立するものではなく、教科書や教材など様々な資源から成り立っています。その意味で、鑑賞教材の不足は鑑賞教育を豊かにする方向に働いていませんでした。
 提言の後、委員会は「国立美術館アートカード」を作成します。国立美術館5館の名品が13枚ずつセットになった65枚の鑑賞教材です(※13)。アートカードにした理由は、アートカードが様々な鑑賞法をすぐに実践できる汎用性を持っていたからです。
 他に教材として「鑑賞の理論を構築し、それをテキストという形で提供する」という意見もあったのですが、それは「実践や知見が十分ではなく時期尚早」ということで断念します(※14)
 今、美術館の収蔵品にそった様々なアートカード・セットが各地で作成され、民間でも販売されています(※15)。当時、アートカードを活用していた美術館は数館程度でしたから「国立美術館アートカード」は、鑑賞方法の多様化に貢献したのではないかと考えています(※16)
 提言のもう一つは、国立美術館は地方の実践をつなぐ結節点やハブとして機能すべきというものでした(※17)。当時の鑑賞教育の状況は、優れた実践が地方で個人的、局所的に起こっていました。委員会では「何か理想的なモデルをつくって現場に示すよりも、優れた実践をつなぎ合わせることが大事だ」「指導者を育成することが必要だ」という意見が大勢でした。
 それを具現化したのが「美術館を活用した鑑賞教育の充実のための指導者研修(※18)」です。全国の都道府県・政令指定都市から指導主事、教諭、学芸員などが集まって、お互いに実践を発表し合ったり、対話的な美術鑑賞やアートカードなどを体験したり、講演を聞いたりする研修会です。結果的に、参加者がそこで得た成果を各地に広げてくれるのではないか、というわけです。
 手探りで始まった研修会は、少しずつ手ごたえを感じられるようになります。報告される実践の内容は毎年充実し、研修会をきっかけとして参加者同士のネットワークも形成されました。研修会に参加できるまで数年の予約待ちという先生もいるほどの都道府県も生まれます。当初、10年程度で役割を終える予定だった「指導者研修会」は、国立美術館内での事業評価も高く、今も継続されています。
 当時の状況をまとめた簡単な報告を書いているので再掲したいと思います。

「今だからこそ言えるが、当事者として、この研修がどのような成果を生むか半信半疑だった。(中略)しかし、年を経るごとに徐々に「自分の地域ではこのような実践を行っている」「鑑賞教育はこの点が大事ではないか」という意見が聞かれるようになった。(中略)参加者が各地で発表をしたり、実践を広げたりしているという方向も相当見聞きした。先日はその現場を調査してきた。当時の参加者が鑑賞教育の熟達者として研修会をリードしていた。(中略)学校と美術館の制度や立場の違いを理解し合って協力するという姿勢も見られる。何より「子どもを育てるために学校や美術館は何かできるはずだ」という考え方が形成されつつあると思う。」(※19)

 2000年から2010年は、鑑賞教育がいわばブームのようになった時代です。対話を用いた鑑賞方法は「対話型鑑賞」と呼ばれ盛んに実践されるようになりました。鑑賞に関する研究会(※20)や研修会も様々な場で行われます(※21)。海外の高名なエデュケーターを招聘して講演会を開催したり、教育普及の展覧会を企画したりすることも行われました(※22)
 海外から実践を積んで帰国し活躍している研究者や学芸員、編集者なども次々と現れます。作家サイドの動きも活発になり、例えば国画会では、作家自身が自分の作品の前でギャラリートークをする「トークイン」を2007年から全部門に広げ、毎年国立新美術館で実施しています(※23)
 このような流れの中で、保守的な性格のある教育現場に対して、文部科学省や指導主事、国立美術館等が、鑑賞教育の実践を後押ししたり、考え方を整理したりしたのは一つの事実でしょう。

 後編は、2010年から2020年にかけて見えた風景についてまとめ、美術鑑賞の現在地にたどり着きたいと思います。

※1:専任は国立教育政策研究所の教育課程センター教科課程調査官であり、文部科学省初等中等局の教科調査官はあくまで併任となります。
※2:ほぼ10年ごとの学習指導要領改訂にあわせて、全国から指導主事や研究者など担当者が集められます。
※3:現:環太平洋大学副学長。平成10年版図画工作指導要領や解説書の作成で一緒に仕事をしました。
※4:「北斎展」は世界中から北斎の浮世絵を500点以上集めた大回顧展。初摺は海外に保有されていることが多く、国内で後摺との比較ができる貴重な展覧会でした。しかし、大勢で来館し、勝手にギャラリートークをしていくのですから、今思えば冷や汗ものです。平成館 特別展示室 2005年10月25日(火)~2005年12月4日(日)
https://www.tnm.jp/modules/r_calender/index.php?date=2005-11-20
※5:宮崎大学附属小時代に知り合い、同学年ということで親しかった教育課程課の吉冨芳正課長補佐(現:明星大学教授)のアイデアで始まりました。対話型鑑賞のワークショップ、国立新美術館開館記念「大回顧展モネ 印象派の巨匠、その遺産」の作品解説、5秒で描ける年賀状イラストなどその時々で内容を工夫して半期2~3回程度実施しました。
※6:俗称です。時期によって「新教育課程説明会(中央説明会)」「各教科等担当指導主事連絡協議会」など内容や名称が異なります。
※7:観点別学習状況の評価では音楽や図画工作・美術の「鑑賞の能力」は「知識・理解」に位置づけられていました。〔共通事項〕を設定したことから扱いがやや変更されますが、正式に「思考・判断・表現」として評価されるようになるのは平成29年の改訂からです。
※8:例えば、1957年にマルセル・デュシャンは講演で鑑賞者の創造的行為に言及しています。「要するに、芸術家は一人では創造行為を遂行しない。鑑賞者は作品を外部世界に接触させて、その作品を作品たらしめている奥深いものを解読し解釈するのであり、そのことにより鑑賞者固有の仕方で創造過程に参与するのである」マルセル・デュシャン著 ミシェル・サヌイエ編 北山研二訳『マルセル・デュシャン全著作』未知谷 1995
※9:羽仁進「僕がいちばん願うこと エピクロス的生活実践」岩波書店 2007 pp.96-97
※10:当時の状況は http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/gakujutu/siryo.pdf などに詳しい。
※11:当時の国立美術館理事長は初等中等教育局長だった辻村哲夫氏、全国の指導主事先生の結節点でもある教科調査官が有効だと思われたのだろうと推測します。
※12:「国立美術館の教育普及事業等に関する委員会」第1回目2005年12月22日開催。その後、1月19日、2月4日、2月14日と立て続けに委員会を開き、3月3日付けで「座長提言」を取りまとめ、指導者研修の大枠が決定されました。
※13:鑑賞教材「国立美術館アートカード・セット」
http://www.artmuseums.go.jp/kensyu/art_card.html
※14:個人的な心残りから出版したのが、ロンドン・テートギャラリー編 奥村高明・長田謙一監訳 酒井敦子 品川知子訳『美術館活用術 鑑賞教育の手引き 』美術出版社 2012です。美術鑑賞の理論や、様々な鑑賞活動が紹介されています。

※15:美術出版サービスセンターの教材SCOPE
https://www.bijutsu.biz/bss_bsc/scope/
日本文教出版の指導書付録にも含まれており学校現場で活用されています。
※16:学び!と美術<Vol.60>「アート・ゲーム再考」2017.08.10
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art060/
※17:当時千葉大学教授の長田謙一委員が理論的な支柱でした。
※18:国立美術館「美術館を活用した鑑賞教育の充実のための指導者研修」
http://www2.artmuseums.go.jp/sdk2018/
※19:奥村高明「5年間の指導者研修を振り返って」『平成22年度 美術館を活用した鑑賞教育の充実のための指導者研修』独立行政法人国立美術館 2011 140p
※20:例えば、美術科教育学会第7回西地区研究会〈シンポジウムin〉京都概要集「これからの鑑賞教育—美術を身近なものにするために、学校と美術館がいま、できること—」平成15-17年度科学研究費補助金(基盤C)鑑賞教育研究プロジェクト(代表者:石川誠)2004
※21:例えば、京都造形芸術大学福のり子教授が中心となって実施しているアートコミュニケーション研究センター「ACOP」。
https://www.acop.jp/
※22:例えば、岡山県立美術館。
https://okayama-kenbi.info/ 2005年度-館ニュース(69-72)/
※23:第13回国展トークイン
https://kokuten.com/32885

美術鑑賞の現在地~前編(1980~2000)

 美術鑑賞の現在地を確認するために、1980年以降の美術鑑賞について振り返りたいと思います。正確な教育史的位置づけは、多くの方が著書や研究等で発表されていますので、ここでは筆者の見えた風景を振り返りながらまとめます。なお、個人的な取り組みが含まれるので雑感めいた話になることをお許しください。

1980年代~美術鑑賞の授業

ギュスターヴ・クールベ『嵐の後のエトルタの断崖』1870年 オルセー美術館蔵 1982年、私は中学校美術教員として採用されました。ひたすら、ポスターや絵画など「A表現」の授業に取り組んでいました。初めて鑑賞の授業をしたのは1983年1月、学校訪問の日にクールベの風景画(※1)と浮世絵を比較鑑賞する授業でした(※2)。進行は教師、空の色の違いなどから気候や湿度、風土や文化などを観点に生徒の意見をまとめる教師主導型の学習でした。
 記憶として残っているのは、最後まで怖い顔で指導主事の先生が座って参観していたことと、あまりうまくいかず「前のクラスではうまくいったのになあ……」という残念な思いの二つです。その後、人前で鑑賞の授業を行うことはありませんでした。

当時の指導案恥ずかしい内容ですが、採用1年目ということでご容赦ください

 1980年代、学校で行われていた鑑賞教育は、おおむねこのようなものだったと思います。教育研究会で美術鑑賞が話題になることもなく、私の目標も「平面構成」「風景画」「ポスター」などで立派な作品を完成させることでした。

1990年代~鑑賞教育との再会

 その後、1990年、僻地の小学校教員を経て、附属小学校に異動します。実習校ですから、教育実習中は、毎日学生に国語や社会、算数などの授業を見せていました。授業研究会では図工部でしたが、研究授業では、毎回、他教科からの容赦ない指摘が飛んできました。ずいぶん授業技術を鍛えられたように思います。
 ただ鑑賞の授業は行いませんでした。興味があったのは、「新しい学力観」と「造形遊び」で、その実現を目指した表現活動です。その成果を調べるために自己流で始めたビデオ分析が、「相互行為分析」や「状況論」として学問的に確立していたことを知ったのも、この頃でした(※3)
 1990年代中頃あたりから、美術教育の学会に参加し始めます。鑑賞教育の研究が増えていることを知り、愛知教育大の藤江充先生からアートゲームを教えてもらったり、美術作品鑑賞の研究発表を聞いたりしました。「小学校の普通の国語や社会の授業と変わらないのに、研究する意味があるのか」と失礼な発言をして、ずいぶん叱られた記憶もあります。
 でも、「鑑賞学習で求められる教師のスキルは、学校の授業と同じ」という考えは今も変わりません。例えば「意見を認める」「意見をつなぐ」「参加者の言葉でまとめる」などはどちらも大事で、基盤の部分は共通していると思います。
 1998年、学習指導要領の作成協力者に加わります(※4)。鑑賞の議論をしたときに「視覚だけでは鑑賞しない。子どもは身体全体を働かせている」と鑑賞の身体性を主張しました。当時月刊誌の編集を担当していましたが(※5)、佐賀県の先生に陶芸の名人の制作風景を鑑賞する授業をしてもらって「ろくろを回している時に、粘土が伸びると自分の首を伸ばす子ども」の姿を確認した思い出があります(※6)
 それが反映されて、平成元年学習指導要領「第2 各学年の目標及び内容」のB鑑賞に鑑賞の対象として「親しみのある美術作品や製作の過程など」と「製作の過程」が入りました。学習指導要領解説書には「器などをつくる人の様子を見る児童の姿は、体全体の感覚を働かせて見入ると言われる」と記述されました(※7)
 1990年代は、じわじわと鑑賞教育の研究や実践が増えていった時代でしょう。学習指導要領にも、「第3 指導計画の作成と各学年にわたる内容の取扱い」に、鑑賞学習を「必要がある場合には、独立して行うようにする」と入り、博物館活用の視点から「地域の美術館などを利用すること」という文言も加えられました。

2000年代~鑑賞教育の実践

 2000年に中学校美術教諭に戻ります。この頃から、依頼されて対話型の鑑賞授業を行ったり、関連図書を購入し勉強したりしました。ただ「見様見真似」のレベルに過ぎず、本腰を入れたのは2003年宮崎県立美術館の学芸員になってからです。ギャラリートーク、アートゲーム、地域との関連という視点から振り返ってみます。

対話的なギャラリートーク

 当時、宮崎県立美術館では学芸員が当番でギャラリートークをしていました。しかし、一方的な解説型だったので、会議で「もっと対話を取り入れるべきだ」と意見をしました。当初、懐疑的だった先輩学芸員も、解説の間に参加者の意見を尋ねるようになり「けっこうおもしろいね」と言ってくれるようになりました。「ギャラリートークは何か正解があるわけではなく、その人なりの方法でよい」と思いました。
 自分が当番の日は、ひたすらオープンエンドなトークを進めていました。その方法は、小学校教員時代に培った授業技術です。主な留意点は

  • まず教材研究をすること
  • 参加者の意見は表面的なもので、本当に言いたいことはその奥にあること
  • それを引き出すように話し合いを深めていくこと

などです。対話型鑑賞の全国的な研修会に参加し、考え方や技法を整理できたのもこの時期です。
 美術館でのギャラリートークは、毎回のように発見があって楽しみでした。例えば同じ日本人が描いた絵でも、洋画と日本画では、参加者の話題が変わります。洋画だと描かれた人物の個性や人物史に話が進むのですが(※8)、日本画だと描かれた植物や着物の柄など季節や風物の話に進みます(※9)。トークの主題は、鑑賞者の経験や文化を背景に生まれるのです。
 また、鑑賞者の言葉に「はっ」とすることも多く経験しました。例えば、点描で描かれた2mほどの瑛九の絶筆「つばさ(※10)」の前でおばあさんがしばらくたたずんで「吸い込まれるようだね……」とつぶやくのです。確かに瑛九はその絵を描いて空に昇ったのです。
 トルッビアーニの抽象彫刻作品の主題を、小学2年生が言い当てたこともありました。「どうしてそう思ったのと!」と尋ねると、形から分かることを組み合わせと教えてくれました(※11)。子どもは、いつも先入観なしに作品を味わい、探索的に見ます。それが美術鑑賞に有効に働いて、主題にたどり着くのでしょう。そのような姿は子どもや高齢の女性に多く見られました。

アートカードをはじめとした様々な鑑賞法

宮崎県立美術館で用いた手作りのアートカード 学会で藤江先生にそんな話をしていたら「奥村君、対話だけじゃないよね?」と言われて、アートゲームにも取り組みました。収蔵作品の絵ハガキを集め、手作りのアートカードセットをつくり、出前授業や研修会などで活用しました。名古屋市美術館や滋賀県立美術館の実践を参考にしました(※12)
 展示室に入ってきた子どもが、ある絵を指さして「あ、俺の!」と叫んだ声は、今も耳に残っています。それは、出前授業で自分が遊んだアートカードの絵でした。「いや、君のじゃないから……」と心の中で突っ込みつつ、おそらく「自分の手に持った」ことが、作品を「自分」のように感じた理由でしょう。手に持つことによって作品と一体化するのがアートカードの効果だと思います。
 夏休みになると、宮崎県立美術館は「たんけんミュージアム(※13)」という教育普及的な展覧会を開催していました。学芸員全員で知恵を出し合って、作品ごとに鑑賞法を工夫し、仕掛けや資料などを作成します。高いところに登って作品を見たり、作品の前で手作りの楽器を鳴らしたり、展覧会場はにぎやかになるのですが、親子の幸せそうな姿が見られる大好きな展覧会でした。この展覧会を通して、いろいろな鑑賞方法を学びました。
 鑑賞者の動きを定点観測したのもこの頃です。その結果、「遠足のついでに来た小学生」の動線と、「アートカードなどで出前授業を経験した小学生」の動線が異なることが分かりました(※14)。気づかせてくれたのは、展示室に座っている「監視さん」の言葉です。「今日の子どもたちは、作品の前に立っているねえ」と教えてくれたのです。彼女らは、来館者を常に観察し、様々な情報を蓄積しており「頼りになる存在」でした。美術館の貴重な鑑賞資源として成立していたと思います。

「遠足のついでに来た小学生」の動線「出前授業を経験した小学生」の動線、
作品の前で止まっていることが分かる

地域と美術館

 北海道出張で、ある美術館の学芸課長が語った「かつて美術品は地域の中にありました。地域全体を美術館と考えてはどうでしょうか?(※15)」という言葉は今も忘れられません。
 美術館の中にだけ美術品があるわけではないのです。学校ができると「勉強」や「しつけ」など教育のほとんどが学校に吸い込まれますが、同様に、美術館ができると「保存のノウハウ」「売買ネットワーク」「鑑賞方法」なども美術館に吸い込まれます。美術館は地域の結節点としてとらえ、それを開いていく仕組みや組織などが必要だと思いました。
 ちょうど、街づくりの活動に参加していたので、個人的な実践に取り組みました。「みやざき子ども文化センター」(※16)の事業に参加し、商店街に設置されている彫刻や、仕立て屋さんの服をつくる「動き」などが「街の美術品だ」と定義し、それを鑑賞する「街角美術館」を実施したのです。子どもたちが街角の美術品を認定する「認定・街角美術館」まで行いたかったのですが、それは実現しませんでした(※17)

 2000年代前半は、学校で鑑賞を独立して取り扱えるようになったこと、美術館と学校の連携の視点が加わったこと、美術館の経営に伴う普及活動への着目など、学校と美術館の両方で美術鑑賞に対する関心が高まっていった時代でしょう。美術鑑賞の雑誌も発行されていました(※18)し、自分自身の実践も一気に充実していくことになります。
 その後、2005年に文部科学省の教科調査官として直接学習指導要領の作成に携わることになり鑑賞教育により深く関わっていくようになります(以下次号)。

※1:ギュスターヴ・クールベ『嵐の後のエトルタの断崖』1870年 オルセー美術館蔵
※2:授業前後のアンケート調査

※3:宮崎大学教育学部の上山先生(当時、現:三重大学)から『現代思想 1991年6月号 特集 教育に何ができるか 状況論アプロ―チ』共立出版を紹介してもらいました。
※4:平成10年小学校学習指導要領解説図画工作編作成協力者
※5:小学館が発行する「月刊教育技術」には巻末に授業実践が掲載されていたが、その高学年担当で、いろいろな先生に実践をお願いしていました。
※6:板良敷敏・奥村高明 編 東脊振村立東脊振小学校(現:吉野ヶ里町立東脊振小学校) 樋口和美(現:福岡女子短期大学)著「図画工作科 粘土に生命(いのち)がふきこまれたよ!!」『小六教育技術9月号』小学館(1998)
※7:文部科学省『小学校学習指導要領解説 図画工作編』日本文教出版(1999)
※8:鱸利彦『厨房の伊太利娘』
http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/details/view/945
※9:丸田省吾『おしろい花』
http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/details/view/700
※10:みやざきデジタルミュージアム
http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/details/view/1077
※11:トルッビアーニの彫刻のお話は、図工のみかた<06号>「学習指導要領 思考力、判断力、表現力ってなんだ?②」でも触れています。
https://www.nichibun-g.co.jp/data/education/zuko-mikata/zuko-mikata06/
※12:アートカードの経緯は以下論文が詳しい。深澤悠里亜『アートカードを使用した鑑賞法の研究―アートカードの分析と使用法の考察―』大学美術教育学会「美術教育学研究」第49号(2017) pp.337–344
https://www.jstage.jst.go.jp/article/uaesj/49/1/49_337/_pdf/-char/ja
※13:以下に詳しい。「特集 こうあるべきだのミュージアム像から、少し離れて1 宮崎県立美術館の10年「たんけんミュージアム」の冒険は続く!?」「特集 こうあるべきだのミュージアム像から、少し離れて3 作品も観客も仕掛けも、すべてが等しい教育資源 宮崎県立美術館/ユニークな鑑賞研究」『ミュージアムマガジン・ドーム 79』日本文教出版(2005)
※14:奥村高明「状況的実践としての鑑賞―美術館における子どもの鑑賞活動の分析-」美術科教育学会『美術教育学第26号』(2005)
※15:その優れた実践の一つが台湾にあります。学び!と美術<Vol.81>「美術館を開く~台湾、北師美術館の挑戦~」
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art081/
※16:NPO法人「みやざき子ども文化センター」代表 片野坂 千鶴子
「まちで学び、まちで遊ぶ」。宮崎市の橘通にある熊本洋服店、日高本店前モニュメントなどをギャラリートークしながら子供たちと見て回わりました。

※17:2007年に埼玉県加須市立加須小学校(校長:坂田英昭)の栗城敦志先生が中心となって「まちかど美術館」を実現してくれます。
※18:前掲書13 『ミュージアムマガジン・ドーム』日本文教出版

「ひらめき」が生まれる授業

 「いいこと考えた!」造形活動で必ず聞こえる声です。多くの先生方が、この何か「ひらめいた」ときの声を楽しみに授業をしているといっても過言ではないでしょう(※1)
 近年の認知科学において、「ひらめき」は「個人の才能」というよりも、試行錯誤や協働性などをもとにした「どこにでもある」現象だととらえるのが主流だそうです。阿部慶賀先生の「創造性はどこからくるか 潜在処理、外的資源、身体性から考える(※2)」という本をもとにしながら、子どもの「ひらめき」が生まれる授業について考えてみましょう。

なぜ「ひらめいた」と思うのか

 人は何かを思いついた瞬間を味わった経験があります。そのとき、多くの人は突然「ひらめいた!」と思います。しかし、それは突然ではなく、人が正解に近づいていることを「自覚できない」ことによって起きる感覚のようです。
 本書では、「着実な進歩」が自分の中で起こっているのに「自覚することができない」事例が複数示されています。例えば「43□」「51□」など、三桁の数字の空欄□を言い当てる課題で、三桁の数字を連続して提示すると、人の眼球の動きは、まず、4-3-□、5-1-□、のように横に動きます。でも、答えは、三桁の数字の関連ではなく、□が一定の規則で進むことです(例:4→7→0→3)。そのうち、眼球の動きは□だけを追い始め、縦に動くようになります。そして、正解にたどりついたとき「ひらめいた!」となります。
 このとき重要なのは、正解を発見した時に目の動きが変わるのではなく、それ以前に変わり始めていることです。「ひらめく」ための準備は着々と進んでおり、それが眼球の動きとして示されるのです。しかし、人はそれを自覚することはできないので、「ひらめき」が突然生じたように感じるわけです。
 確かに、授業が始まったとたんに「いいこと考えた!」と叫ぶ子どもには出会ったことはありません。「いいこと考えた!」は、しばらく授業が進んでから聞かれる言葉であり、経験的には授業の2/3程度の頃です。それは突然生まれるのではなく、一定の時間が必要であることを示しています。すると「いいこと考えた!」は、「子どもが発想した瞬間」ととらえるだけでなく、それまでに「ぼく、いろんなことやってみたよ」という「その前」の「かけがえのなさ」を表している言葉だと考えた方がよいでしょう。

「ひらめく」ために必要な資源

 「ひらめく」ために必要な資源とはどのようなものでしょうか。本書が挙げるのは、場所や時間、協働する友人や拡張する身体などです。

作業環境
 作業環境には、ある程度の広さ、適度な乱雑さ、適度なにぎやかさ、適切な雰囲気などが必要です。本書では、天井の高さによって活性化される概念が異なったり、完全に静かであるよりも適度に会話や音があった方が好成績を出したりする事例が紹介されています(※3)
 少々都合のよい解釈かもしれませんが、図工室や美術室は、たいてい広くて、様々な材料や道具などが置いてあって、いろいろな声が飛び交っている空間です。「ひらめく」ための条件を満たしているかもしれません。
 また、その環境において「目標伝染(※4)」も重要です。例として挙げられているのは、大学などに導入されている「ラーニングコモンズ」と呼ばれる施設です。最近の図書室やラーニングセンターなどの共同的な学習環境では、個人を仕切らない見通しのいい空間が用意されています。勉強に励んでいる様子が見合える状況は、学習の活性化に役立つというわけです。
 図工室や美術室では、多くの場合、全員が前を向くというよりも、お互いの様子が見えるように構成されています。「ひらめき」が生まれやすい作業環境が保障されているといえるのではないでしょうか。

あたためる時間
 人は「ひらめき」の前に、試行錯誤を繰り返したり、あえて作業から離れたりします。そのような時間を、一定の役割がある「あたため」ととらえ、この時期に「無意識的処理が働いている」ことを示す研究があるようです(※5)
 まず、思考には意識的処理と、無意識的な思考の二つがあります。意識的処理は狭い範囲の情報に集中し、トップダウン的で収束的です。一方、無意識的処理は、多数の情報を並列的に処理し、ボトムアップ的で発散的です。この二つが並行に作動しているとしましょう。その上で、いろいろな実験をしたところ、意識的処理が止まっている時期に潜在的な情報処理が行われていることや、無意識処理の方が多様なアイデアを探索できることなどが分かったそうです。「あたため」の時間は有効なのです。
 図画工作や美術の授業で、子どもたちが最も多く時間をかけるのは「試行錯誤の時間」でしょう。時には「ぼ~っ」としているだけの様子を見せることもあります。このような時間が「ひらめく」ための潜在的な解決への準備の時間=「あたため」だとすれば、もっと大切にしてもよいのかもしれません。

言葉やスケッチ
 言語化やスケッチも「ひらめき」を助けるために有効だそうです。言語化は、振り返りや理解だけでなく、探索活動を広げたり、新しい視点を獲得したりすることにつながります。スケッチは、自分のアイデアを視覚化することで再探索や再解釈を容易にします。また、図式化によって問題の新しい側面の発見や、多様な角度から見直すことなどが可能になるようです(※6)
 中学校美術科の解説書では、他者と交流し合うことが主題を深めるために重要で、構想を伝えたり,その感想や評価などを受け取ったりすることが有効に働くとされています。アイデアスケッチが自分の考えを広げたり、発想や構想を整理したりする効果があることも指摘されています(※7)。図画工作の解説書でも、話し合ったり,言葉で整理したりするなどの重要性が示されています(※8)。ただ、小学生の場合、アイデアスケッチは「一つの表現として完結」しがちで,むしろ発想や技能などの広がりを妨げる場合があることも指摘されています。本書の知見に基づけば、新しい側面の発見や見直しなどに目的を絞り、簡単なスケッチに留めるのが適切でしょう。

大事な「他者」
 本書では「他者」や協働性が「ひらめき」に欠かせないことが言及されています。人は本来的に「他者」の振る舞いをもとに自分の方略を検討する生き物であり、観察や対話など「他者」との協働的な行為から問題をとらえ直し「ひらめき」につなげるというわけです(※9)
 特に、文字通りの「他人」よりは、協同作業の経験がある「仲間」の方が、問題解決には有効だとする研究は興味深いと思いました(※10)。それは、図工室や美術室で「友達」と一緒に学習することの大切さを再確認させてくれたからです。
 そもそも「私」は「他者」がないと成立しません。世界に一人しかいなければ「(他の誰でもない)私」という意識を持つことは不可能です。「私」と「他者」は、お互いを成り立たせている共通の資源だととらえ、指導を工夫したいものです。

何より身体
 「ひらめく」ために身体は重要です。思考や判断と身体は常に不可分に結びついています。
 本書では、見知らぬ人の印象評価をさせるときに、「温かい飲み物」を持たせると「温かい性格の人だ」と評価する傾向がある(!)ことが紹介されています。触覚の思考や判断に対する影響は、手触り感、座り心地などでも生じるようです(※11)
 図画工作や美術では、材料の手触りや筆跡などを重視した題材がありますが、それは知覚自体を豊かにするだけでなく、思考や判断など造形活動全体に影響するといえるでしょう。
 また、人が漢字を思い出そうと「空書き」するように、「私たちの記憶や表象には運動の成分(※12)」が含まれており、創造的な思考へ影響があることも指摘されています。
 以前、子どもが紙の上でしきりに「空書き」をしている場面を見たことがあります。それは「音を色や形で表現する」ためのアイデアの現れでした(※13)。子どもたちの動作が、本人も自覚していない「心の変化の発露」や「思考を方向付けでガイドする営み」だとすれば(※14)、指導に生かさない手はないでしょう。
 さらに、人は用いる道具と一体化します(※15)。身近な例でいえば、砂利道を感じるのはタイヤなのに、私たちは自分で感じていると思います(※16)。自動車の四隅の感覚は、運転するときには容易につかめても、後部座席に座ると消えてしまいます。
 図画工作では、子どもたちが金槌や彫刻刀などの用具と一体化したり、自らの身体を用いて材料とアイデアの関係を確かめたりする姿がふんだんに見られます。子どもたちが自らの身体を活性化させながら、材料や用具などに働きかけ、様々な情報を得ながら「ひらめき」を獲得する姿を、ぜひ学習評価につなげたいものです。

「いいこと考えた!」が生まれる授業を目指して

 「いいこと考えた!」が授業で生まれるために何が必要でしょうか。本稿で検討したことをもとにすれば、まず「ひらめき」を個人の仕業だと考えずに、時間や空間、友達や協働性、感覚や身体など、多層な資源のつながりによって起きる出来事だと考えることでしょう(※17)。以前、本連載で検討したように、授業で取り扱う知識や概念が複数の資源で構築されていることもふまえる必要があると思います(※18)
 その上で、「ひらめく」授業をデザインするのは「教師」です(※19)。どこで活動を行うか、友達との交流をどのように設定するか、どの程度の時間を配分するのかなど、学習者の「ひらめき」が起きるように、多角的に授業をデザインすることが大切だと思います。そこで生まれる「いいこと考えた!」は「教師」へのご褒美です。その言葉を楽しむように、子どもたちの造形活動と付き合いたいものです。

※1:「ひらめく」瞬間をどのようにとらえるかによって指導の在り方は異なります。「ひらめき」を「独創的な個人の行い」と考える人にとっては、協働性よりも静かに熟考することの方が重要でしょう。一方、友達が欠かせないと考える先生であればディスカッションやコミュニケーションを重視するでしょう。
※2:阿部慶賀著『日本認知科学会 越境する認知科学2 創造性はどこからくるか 潜在処理、外的資源、身体性から考える』共立出版 2019
※3:前掲書pp.61-71
※4:他者の姿が視界に入っているだけで自分の行動まで変化すること。「私たちは意識せずに周囲で行動する人物の目標を推察し、それによって自身の行動も変えてしまう」前掲書p.67
※5:前掲書p.46
※6:「他者とのアイデアと情報の共有から生じる意見の違いが、新しい問題解決への視点を生み、発見のきっかけとなることもある」前掲書p.84
※7:文部科学省「中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 美術編」日本文教出版 2018
※8:低学年では「言葉や動作など」が一体的であること、無理に言語化するよりも「自然に発する言葉に着目」することなど、発達に応じた配慮が加えられてます。文部科学省「小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 図画工作編」日本文教出版 2018
※9:「他者」の試行の観察、仮説を出し合って根拠を説明するなどの活動。前掲書pp.85-87
※10:ある実験で、ペアで作業した場合に、協同的な経験のある方が問題解決をしやすい結果が示されています。前掲書p.89
※11:前掲書p.107
※12:前掲書p.110
※13:写真1:指をはねるように何度も動かしています。写真2:「下描き」カラーペンで描かれた線の端がかすれています。写真3:作品題名「合奏」音をあらわす様々な線が交差しています。筆のかすれがポイントです。奥村高明『マナビズム―「知識」は変化し、「学力」は進化する』東洋館出版 2018 pp.173-175
※14:前掲書p.120
※15:前掲書pp.123-132には、高い帽子をかぶったシェフが厨房やホールを自在に移動する例や、熊手を使用できる状況になると脳活動の範囲が拡大するニホンザルの例など、興味深い例が掲載されています。
※16:市川浩は、私たちが道具をいつのまにか身に組み込み、身体化していることを指摘しています。(市川浩『〈身の構造〉』講談社学術文庫 1993)
※17:一定のヒントや画像の提示など知識的な事項も有効です。
※18:学び!と美術<Vol.92>『問いが生まれる知識の構造~バンコク調査報告(2)~』
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art092/
※19:ある先生が等々と説明をしていると、「先生、ぼく考えることなくなっちゃうよ」と言ったそうですが、そのようにはなりたくないですね。

コロナ禍のアートと美術教育

 筆者は毎年「美術検定」の監修をしています。2020年は、COVIT-19(新型コロナウイルス感染症)の拡大により1~4級のすべてをオンラインで実施しました(※1)。本稿では、1級問題の解答から、コロナ禍における美術館やアートの動向、そして美術教育のこれからについて考えます。

はじめに

 「美術検定」の1級問題では思考力や論理的な構成力などを問うために、毎年1200字程度の「記述式問題」が出されています。これまで指定の会場で一斉に問題を解いていましたが、2020年は期間を提示した上で、記事や文献などを参照・引用しながら解答を作成し、それをアップロードなどで提出する形式としました。その問題が以下です。
 「あなたは、ある公立美術館のボランティア代表として、美術館の評議委員に加わっています…(中略)…評議委員会でコロナ禍における館の今後の方針について、あなたは意見を求められています。以下の条件に沿って、ボランティア代表として意見を述べてください。」
 この解答を分析した結果、解答者の意見は主に4つに分類できることが分かりました。

1.人の減少

 コロナ禍において当然ながら、美術館に来る人は減ります。予約制で少々鑑賞はしやすくなったのですが、美術館の収益は減少します。アーティストも含め関係者は収入源を迫られます。そこで行われたのが様々な資金調達や支援でした。
 例えばMoMA (ニューヨーク近代美術館The Museum of Modern Art)では、希少本販売で展覧会資金を集めました(※2)。ワタリウム美術館はクラウドファンディングを行いわずか1日で目標金額の倍を達成したそうです(※3)。他にも様々な方法による資金調達が行われたようです。ただこれまで必要性を訴えられてきたことが、コロナ禍においてより鮮明になったと言えるでしょう。
 また、様々な組織や団体がアートに対して社会的な支援を行いました。東京藝術大学では同大出身作家のために基金を設立したそうです(※4)。京都市はアーティストや文化拠点の支援として「ふるさと納税型クラウドファンディング」を実施しています(※5)。文化芸術振興議員連盟は文科省へ500億円の給付を要望しました(※6)。海外においても、アメリカの政府組織が雇用維持のための最大約3200万円の支援を行ったり、イギリスでアーティスト支援のための賞が続々と設立されたりしているようです(※7)
 ウェブ版「美術手帖」の橋爪編集長は「政治との距離を適切にとりつつ、豊かな社会には文化が必要である、ということを主張し、いざというときに支援を引き出す。それは自由な表現のためにも必要」だと述べています(※8)。コロナ禍において、これまで脆弱だった資金や支援の問題がクローズアップされたと考えられそうです。

2.デジタル化

 コロナによる閉館を余儀なくされた美術館が、さっそく取り組んだのは展示や普及活動のデジタル化でした。
 展示のデジタル化では、東京国立近代美術館の「ピーター・ドイグ展」で展示室の360度画像が公開され(※9)、森美術館では「未来と芸術展」を3D空間で再現し(※10)、ビクトリア国立美術館ではバーチャルツアー配信(※11)などARやVRを駆使しながら様々な取組が活発に行われました。ただ、デジタル化が可能な人材や部門を持つ美術館と、それをもたない美術館では、切実な違いが生まれたようです。美術館にデジタル化を勧めている私の知人は、多くの美術館から「広報課も、情報課も、人材も予算もない」という答えが返ってきたとつぶやいていました。
 教育普及のデジタル化では、東京国立近代美術館がオンライン対話鑑賞プログラムを開始したり(※12)、角川ドワンゴ学園 N高と大原美術館のオンライン・アートイベントが開かれたりしています(※13)。北海道博物館から全国のミュージアムに広がった『おうちミュージアム』では、子どもたちが自宅で学べる塗り絵、工作、ゲームなどが数多く提供されました(※14)。海外でも、ファン・ゴッホ美術館が塗り絵を公開したり(※15)、ゲティ美術館が「SNSの名画再現チャレンジ」(※16)を企画したり、様々な取組が行われています。
 同時にデジタル化は、美術館の活動を再確認する動きも生みだしました。美術館によっては、デジタル化の必要がない美術館もあります。ミッションの再確認は必要です。また、これまで積み重ねてきた経験も大切です。東京国立近代美術館のオンライン対話鑑賞を実施するためには、20年かけて育成してきた解説ボランティアの力量が欠かせません(※17)。美術館の目的や実績を問われるのがデジタル化なのでしょう。
 また、デジタル体験のとらえ方についても配慮が必要です。デジタル体験を実物への導入と考えるのは妥当だと思いますが、「デジタル体験は仮想に過ぎない」という把握では、これまでの多くの人々の印刷物や画像などによる鑑賞体験を偽物にしてしまいます。
 「本物―偽物」の二元論にならないように配慮しつつ、デジタル化は「これまで来館できなかった多くの人が美術館や美術作品に関われるようになった」と積極的にとらえるべきなのでしょう。その上で、今まで、美術に興味ある「来館者」を対象にしていた取組みから、不特定多数の「市民」を対象に開かれる方向で検討を進めることになるだろうと思います(※18)

3.新たな空間やロボットの登場

 デジタル化に伴って、新たな空間やロボットも登場しました。
ポーラ美術館 ホームページより 話題になったのは、「あつまれどうぶつの森」というオンラインゲームの活用です(※19)。北京の木木美術館にはじまり、メトロポリタン美術館、箱根のポーラ美術館、太田美術館など、様々な美術館が収蔵作品をオンライン・コミュニティに開放しました。オンラインとはいえ「自分の部屋」に名作を飾るということが実現したわけです。美術館に「来館せねば味わえない」という美術館空間が拡張されたことは興味深い現象です。
 遠隔操作可能な移動式ロボットを用いた鑑賞も行われました。イギリスのヘイスティングス現代美術館は「テレプレゼンス」ギャラリーツアーを行っています(※20)。用いられているのは、移動できるPC画面と呼べるような比較的シンプルなロボットです。東京藝大美術館「あるがままのアート─人知れず表現し続ける者たち─」でも拝見しましたが、美術館スタッフと一緒に移動式ロボットで鑑賞者が移動する姿は、これからの美術館の姿を見るようでした。
オリィ研究所 本連載でも取り上げた「OriHime」を用いた鑑賞も行われています。病気のため中々外を歩きまわれない小学2年生の古川結莉奈さんが、自分でOriHimeを操作し、友達と一緒に「ヨコハマトリエンナーレ2020」の会場を回っています。「音声を介した会話以上に、モーションで感情を表現する機能が二人の心理的なつながり」(※21)がつくりだされたようで、やはり、OriHimeは「外出困難者という概念を消すデザイン(※22)」として新しい社会参加を創造しているようです。オリィ研究所の鈴木メイザさんは「新しいアートアクセスの可能性をつくりだしたい」と述べています(※23)。今後この分野の開発が進めば、これまでのコミュニティや人という概念が変化していくことは必須でしょう。

4.アートへの着目

 最後の視点は「これほどアートが語られた1年間はないのでは?」ということです。
 例えば、バンクシーが医療従事者の感謝(※24)やステイホームの活動などを表現するたびに(※25)、全国ニュースは繰り返しこれを報道しました。ダミアン・ハーストが医療従事者への敬意を示す新作を公開したこと(※26)、ルイ・ヴィトンがロックダウンしたパリの本社をアートで覆ったことなども話題になりました(※27)
 日本でも、多摩美術大学彫刻学科が「バーチャル彫刻展」を行ったこと(※28)、全国各地で子どもたちに黒板アートがエールを送ったこと(※29)など、多くのアートに関するニュースが数多く報道されました(※30)。コロナに直接的な関係はないものの、アーティストが壁画を制作したこと(※31)、アートなワークスペースが着目されていること(※32)など、アートが全国的に取り上げられる現象は今も続いています。
 本連載で有元先生が言及した「生存価(※33)」という概念を借りれば、コロナ禍において、人々は自分が生き残っていくために芸術や文化が欠かせないと実感したのだろうと思います。
 また、亡くなられている方がいる中で不謹慎だとは思いますが、「今回のパンデミックは、アートにとって本当に大切なものは何だろうかという核心的な価値観にも立ち返らせてくれた(アーサー・デ・ビルパン)」「危機はこうした悪影響をもたらすと同時に、市場における再構築とイノベーションのまたとない機会にもなり得る(マカンドリュー)」という意見もあります(※34)
 いずれにせよ、コロナ禍において、アートの役割が人々に強く自覚され、期待されていることは間違いないように思われます。

5.おわりに

 先に紹介した記事の中で、橋爪編集長はコロナ禍をきっかけに、これから、より「アートを社会に実装させる」必要があると訴えています(※35)。おそらく学校教育や美術教育でも同じことが指摘できるだろうと思います(※36)
 人の減少への対応は随分前から求められています。少子化-予算の縮小による美術の時数減は直面する問題です(※37)。また、緊急事態宣言下におけるデジタル化への対応は、いままで学校教育が「学校にこれる子」だけを対象にしてきたことを痛感させました。1人1台の端末やギガスクール(個別最適化学習)の推進、AIやロボットの登場などは、新しい学校や教室の登場を示唆しているようです。「どこにいても学習できる」ことが露呈した以上、教育は学校に来る「児童・生徒」から、より広範囲な「子ども」という概念を対象に考えられていく方向に進むでしょう。
 そのような状況で、美術教育もいっそう着目されていくだろうと思います。ただ、すでにカリキュラムマネジメント、STEAM、SDGs等、教育は「教科の学力」から「教育課程の学力」へ舵を切っています。美術のための美術教育から、教育全体に美術教育を拡張し「美術教育を教育に実装させる」、できれば「美術教育を社会に実装させる」をめざすことが、これからの方向だろうと思います。
 最近行われた研究会の企画文には、以下のような美術教育への期待が述べられていました。
 「中世ヨーロッパのペストの大災禍の後に、あのルネサンスが訪れた…(中略)…人々が生き残るために様々にこらした努力と工夫は、新たなイノベーションとなり、次代の世界を作り上げてきました。…(中略)…変革が起きる時に必要とされる創造的な思考は、美術教育でこそ育まれる能力でありましょう」(※38)
 「子ども」が「生存価」を高め、それを多くの人々が実感する教育実践を行うことが、この期待に応える方法なのだろうと思います。

※1:主催:一般社団法人 美術検定協会「2020年美術検定オンライン試験」。1~3級の実施は11月7・8日
https://www.bijutsukentei.com/test-guideline
※2:美術手帖「MoMAが120点の稀少本をオンラインで販売中。35万円のペーパーバックも」
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/21765
※3:美術手帖「ワタリウム美術館の運営資金クラウドファンディング、わずか1日で目標金額の倍を達成」
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/22580
※4:美術手帖「東京藝術大学が同大出身の若手芸術家を支援する基金を開設。新型コロナウイルスでの活動自粛を受けて」
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/22107
※5:京都市「文化芸術活動の再開支援のためのふるさと納税型クラウドファンディングの開始について」
https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000275115.html
※6:NHK「文化芸術の救済支援策に500億円を要望 議連」
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/37614.html
※7:ART BEAT NEWS「アート界はコロナ危機にどう対応しているか(3月23日~5月19日)」
https://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2020/03/covid19_artworld.html
※8:「美術検定」の解答者に最も引用された記事。BuzzFeed「アートは不要不急?コロナでどう変わった? 美術手帖・編集長にきく」
https://www.buzzfeed.com/jp/daichi/atohakoronadedowatta-nikiku
※9:Artlogue「3DVRは展覧会の新しい楽しみ方!?『ピーター・ドイグ展』3DVRが公開」
https://www.artlogue.org/node/8655
※10:森美術館「「未来と芸術展」3Dウォークスルー特別公開」
https://www.mori.art.museum/jp/digital/03/
※11:美術手帖「KAWSの個展や7万5000点のコレクションを自宅で楽しむ。ビクトリア国立美術館のバーチャルツアーをチェック」
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/21613
※12:東京国立近代美術館「オンライン対話鑑賞プログラムを開始しました」
https://www.momat.go.jp/ge/topics/am20201111/
※13:学校法人角川ドワンゴ学園 N高等学校「オンライン・アートイベントを開催しよう」
https://nnn.ed.jp/news/blog/archives/10781.html
※14:北海道博物館「おうちでミュージアム」
https://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/ouchi-museum/
※15:美術手帖「ゴッホ作品を塗ろう。ファン・ゴッホ美術館が塗り絵データを無料で公開」
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/21696
※16:美術手帖「自宅で名画を「再現」しよう。Instagramの新たなトレンド「#tussenkunstenquarantaine」とは?」
https://bijutsutecho.com/magazine/insight/21644
※17:この部分は東京国立近代美術館一條彰子主任研究員の指摘をもとにしています。
※18:美術手帖「新館長・鷲田めるろが語る十和田市現代美術館のポテンシャル。「日本の美術館界に一石を投じるものになりうる」」
https://bijutsutecho.com/magazine/interview/21381
鷲田館長は、「美術館は「基地」みたいなもので、「舞台」は街のような感じ。」と述べています。
※19:ポーラ美術館「#あつ森でポーラ美術館(飾ろう編)」
https://www.polamuseum.or.jp/acnh/
※20:「Robot Tours」
https://www.hastingscontemporary.org/exhibition/robot-tours/
※21:Artscape、田中みゆき「いま、ここにいない鑑賞者──テレプレゼンス技術による美術鑑賞」
https://artscape.jp/report/topics/10165277_4278.html
※22:奥村高明「学び!と美術<Vol.88>「OriHimeから考える「デザイン」~その2」」
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art088/
※23:日本美術教育連合・美術教育力養成講座第3回「ロボットやWebを用いた新しい鑑賞教育のデザイン」における発言より。
※24:BBC「バンクシーの新作、英病院に登場 医療従事者に感謝のメモ」
https://www.bbc.com/japanese/52568993
※25:美術手帖「バンクシーも自宅で仕事中? 新作をInstagramで公開。「妻が嫌がる」」
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/21717
※26:美術手帖「約4億円を調達。ダミアン・ハーストがチャリティー販売の結果を発表」
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/22035
※27:美術手帖「ルイ・ヴィトンがパリ本社をアートで覆う。ロックダウンの首都に彩りを」
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/21885
※28:多摩美術大学
http://www.idd.tamabi.ac.jp/art/exhibit/vc2020/
※29:佐賀新聞「黒板アートで新入生祝福 古賀さん(西九州大)「子どもたちを笑顔に」」
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/510917
※30:NHK「コロナ禍でうまれた“クリエーション”がNHKプラスクロスSIBUYAに集結!」
https://www.nhk.or.jp/event-blog/exhibition/441434.html
※31:川崎経済新聞「アーティストが壁画を制作する風景」
https://kawasaki.keizai.biz/photoflash/2394/
※32:美術館で仕事や会議をする空間「はたらける美術館」
http://art-housee.com/yoyogi/
※33:奥村高明「学び!と美術<Vol.98>「対談:生存価としての図画工作・美術」」
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art098/
※34:美術手帖「メガギャラリーはコロナ禍をどう乗り越えるのか? その戦略を探る」
https://bijutsutecho.com/magazine/insight/22807
※35:前掲8
※36:アートと社会を二元的にとらえ過ぎないように配慮する必要はあります。
※37:そのような中で、35人学級の成立教育支援はうれしいニュースでした。
※38:真住貴子「ウィズ・コロナの美術教育 変わること、変わらないこと」美術教育研究会、第26回美術教育研究大会・オンライン大会プログラム大会企画文より

「先生! 評価計画の作成で悩みます……」

 大学で「図画工作教育法」という授業を担当しています。学習指導要領や題材等を理解し、指導案が書けるようになるという内容です。学習指導要領の目標→図画工作科の内容→評価規準→指導方法→指導計画→評価計画と順序良く学習していきます。その中でも、評価計画は、実際に評価したことがない学生を悩ませるようです。本稿では、学生の感想を取り上げながら「評価」について考えてみましょう。

1.評価で悩むのは正しい

指導案の目標や指導計画などと評価を連係させるのが大変でした。評価というのは、教師の指導方法を振り返るきっかけになるのだなあと思いました。

 学生は、具体的な「評価計画」を書く場面になって、はじめてこれまでの内容を見つめ直すようです。「この題材でいいのかな……」「目標や指導観などは妥当かな」など、評価は自分が設定した題材全体の「振り返り」になっているわけです。そうであれば、評価で行き詰ったり、困ったりするのは正当な行為だと言えるでしょう。

評価を通して、指導の一つ一つの場面や単元の目標などを再設定できることがわかりました。評価を考えることも授業を作るための大事な役割なんですね

 全くその通りです! すべての教科等において評価は、教師の「振り返り」に役立ちます。

2.指導と評価は、ほぼ同時に行われます

評価をすることに一生懸命になって指導がおろそかになってしまいそうで心配です。

評価方法が難しすぎると授業や指導に手が回らなくなってしまうと思いました。

 授業が始まったら、評価のことは考えなくても大丈夫! 指導を頑張ればよいのです。
 なぜなら、人は、誰かに何かしたとき、その直前に相手を評価しているからです。例えば、何か工夫した子に「へえ、そうしたんだ」と声をかけたとすれば、それは「工夫が妥当な状態」だと認めた証拠です。のこぎりの取扱いに困っている子に駆け寄ったとすれば、それは先生が「支援しなければならない状況だ」ととらえたからです。どちらの場合も、指導する直前に評価が行われています。
 指導と評価を分けて考えないことがコツかもしれません。授業中は、子どもの支援や助言などに専念してください。後で落ち着いたときに、自分のしたことを思い出し、座席表や名簿、フィールドマップなどにメモするだけでも十分な評価資料になるのです。

3.評価方法はたくさんあります

小学校に補助員として通っています。「子どもたちの成績をつけることは難しそう」、「授業を行うことに精一杯で、毎時間子ども一人一人の評価を行うことはとても大変そう」だと、いつも感じていました。でも今は「自分を助けてくれるような評価方法は沢山ある! もっと気持ちを楽に考えよう」と思っています。

指導案の評価の部分を考えることは、子どもたちの成績を決めることにつながるという責任を感じますし、難しく感じることもあります。でも、活動の流れを見たり、学習指導要領の解説などの様々な資料を参考にしたり、子どもたちの姿を思い浮かべたりしながら丁寧に作成していけば評価できると思いました。

 指導にいろいろな方法があるように、評価にもいろいろな方法があります。様々な資料に詳細に書いてありますし、年々、新しい方法が開発されています(※1)。その中から、題材や子どもの状態に応じた最適の方法を選べばよいのです。指導と同じように、経験をつめば次第に身に付きますから焦る必要もありません。
 大切なのは教師の考え方や子どもへの態度です。指導案を書くときは、我がことのように「子どもたちの姿を思い浮かべ」、思いを寄せながら評価方法を考えましょう。方法はあくまでも方法、子どもと一緒に学習活動を楽しむことが一番大切です。

4.評価は長期スパンで

図画工作は他の教科と違って、正解や不正解があるものではない教科だと感じているため、評価するのは難しいと思いました。そのため、一回一回の授業ごとの評価ではなく、長期的な視点に立ち、1年間で子どもがどれだけ成長したのか、1年前は出来なかったけど、1年たったらこれができるようになったなどという評価が大事だと思いました。

 そう、そう。毎時間ごとの評価は、それほどこだわらなくてもいいのです。図画工作は、題材ごとに評価をまとめ、それを総括して、学期や年間の評価が決まります。後で修正することも可能です。長いスパンで考えればよいと思います。
 また、先生もスーパーマンではありません。毎回の授業で、すべての子どもをとらえられるわけではありません。そんなときは、「ごめんね、うまく見ることできなかったよ」という気持ちでA、B、Cを付ければいいと思います。「自分は完全ではない」という気持ちを持ちつつ、まずは題材レベルの評価、次にその積み重ねと、大きく構えればいいと思います。
 なお、国立教育政策研究所が『「指導と評価の一体化」のための学習評価に関する参考資料』を出していますが、A、B、Cと判断する部分が学生には難しいようです。そこで、次のように説明しています。

  • 「え~っ凄いなあ」と思ったらA
  • 「ふんふん、なるほどね」と思ったらB
  • 「あ~、ちょっと待って」と駆け寄ったらC

 「先生思いつかなかった」と想定を超えていたらA、評価規準として設定した想定内であればB、即座に支援すべき状況がCと、簡単にとらえることが大切です。それを詳しく記述しているのが指導資料・事例集だと考えてはどうでしょうか。

5.評価は子どもに温かく寄り添う活動です

ひとりひとりの感性の違いや、絵をうまくかく技術、思っていることを表現する能力など評価観点はたくさんあります。適切な評価というのは、完成した作品の上手い下手だけを見て評価することではなく、「子どもをよく見る」ということだと思いました。

 その通り。評価は、本来的に温かいものです。項目に従ってひたすらチェックするような、冷たい作業ではありません。その子に寄り添って「どんな支援をしていくか」「どのように子どもの良さを見付けるか」など、子どもをよく見て「その子の伸び」や「あの子の克服」などをとらえたいものです。
 そのために、その子に同化していくような姿勢が必要なのです。

どんなことを感じながら取り組んでいるのかを、児童と先生が、お互いに共有しながら授業を進めたいと思いました。

 頼もしい! 評価は、教師と子どもがお互いに感じたことや考えたことを共有する活動なのですね。授業という複雑な資源が絡み合う全体的な活動の中で、評価を通して、先生と子どもが認め合える温かな関係が成立できたら、それは素敵だと思います。

6.評価は、子どもとの楽しい対話

評価計画を考えることで、実際に自分が指導している姿がイメージできて、とても楽しかったです。子どもたちがこんなところを頑張っているからと座席表に記録したり、工夫しているところをカメラで写真に収めたりすると思うと、やはり教師になりたいと思えました。

児童が活動する風景を想像して評価計画を作成しました。子どもが目を輝やかせながら作品に取り組んでいる様子が浮かんできて、そういうところを評価できる人になりたいなと感じました。

 よく分かっていますね~(^^)。実際に、評価は楽しい活動です。大学の授業もオンラインになって、課題に対する採点や教員コメントなどが膨大な量になりました。でも、採点・コメントは学生との対話のようで、顔は見えないのに、顔が見えるような気持ちになる楽しい活動だと改めて思いました。図画工作の授業も同じです。評価は、子ども一人ひとりとの対話です。その対話をまとめたものが手元に残る評価資料だと考えればいいと思います。

 造形活動や作品などは、本来、その子だけで達成されたわけではありません。友達、材料や用具、場所、学習課題など様々な資源が織りなして生まれるものです。でも、評価は子ども一人ひとりに行わないといけなくて、それは致し方のないことです。
 だからこそ、評価を積極的にとらえたいと思います。「評価を通して授業を見つめ直す」~評価は教師自身のメタ認知活動です。「評価を特別視しない」~評価は不断に行われている活動であり、指導を頑張れば、自然に評価も頑張っています。「評価を通して教師の姿勢を考える」~評価は教師自身が変化する可能性を持っています。「評価は楽しい」~評価は子どもを感じ、対話する行為です。みなさんもぜひ評価を楽しんでください。

※1:学び!と美術<Vol.48>「図画工作の授業(3)~評価方法のいろいろ」
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art048/
「指導と評価の一体化」のための学習評価に関する参考資料
・図画工作 https://www.nier.go.jp/kaihatsu/pdf/hyouka/r020326_pri_zugak.pdf
・美術 https://www.nier.go.jp/kaihatsu/pdf/hyouka/r020326_mid_bijyut.pdf

子どもの「作品」とは何か(『学び!と美術』100号記念)

 「子どもの作品は(神聖なものだから)絶対トリミングしてはいけない」という人がいます。確かにそのような面はあるでしょう。学習指導要領解説にも「作品はかけがえのない子ども自身だ」と書かれています(※1)。でも、それは「作品」を「完成品」ととらえる意味ではありません。本稿では、子どもの「作品」とは何かについて考えたいと思います。

「作品」は切り取っていい?

 小学校4年生の頃、私は夏になると田舎にある従兄弟の家に泊まりに行っていました(※2)。ある日、夏休みの宿題をかこうとなり、家の庭に並び座って、道を隔てた景色をかき始めました。ところが、なかなかうまくかけません。二階の一部だけは立体的にかけたのですが、全体がまとまらないのです(※3)。私は「ここはうまくいってるんだけど……(矢印部分)」とつぶやいたら、従兄弟が「先生が『うまくかけたところがあれば、そこだけ切り取ってとっておけばいい』って言ってたよ」と教えてくれました。私はその言葉にすごく安心し、強く「そうだ」と思いました。それから50年たちましたが、いまでも、この場面と出来事を鮮明に覚えています。
 幼児の頃、かくことがただただ楽しかったのに、いつぐらいから「作品」という「完成品」を求められるようになったのでしょう。できあがった「完成品」にすべて満足している子どもが何人いるのでしょう。子どもにとって「作品」の完成は、「うまくいった」というその子の部分的な思いよりも大切なことなのでしょうか。

子どもの造形活動を「作品」にする大人

 附属小学校の教官をしていたときの話です。ある研究会(※4)で図画工作部の後輩が研究授業をしました。中学年の題材で、自分を型取りそれをいろんな材料で飾るという学習課題でした。授業の後半、一人の子どもが、つくった「モノ」を窓から落とし始めました。何度も窓から落としては拾いにいって、それを落とすことを繰り返しました。その活動を、参観していた教育委員会の指導主事が指導講評で取り上げました。「自分の作品を大切にしないのは問題」で「適切に指導すべきだ」と言います。私は、即座に言い返しました。「それは違います。あの作品は、あの子自身です。あの子は、あの時、空を飛んでいたのです」。指導講評を否定するなど若気の至り、「失礼なことをしたな」と今は思います。
 確かに、道徳的には自分の作品を大切にするのは正しいことでしょう。でも、子ども側から見たとき、どうなのでしょう。子どものつくった何かを「作品」だと見るのは誰でしょうか。「作品」という罠にはまっているのは、大人のような気がします(※5)。それは、何度も窓から「作品」を落としながら、ヒラヒラと落ちていく様を見つめていた子どもの見方とは異なります。

「造形遊び」と「作品」

 図画工作は、行為をすることそのものから学ぶ傾向の強い教科です。特に「造形遊び」は、手順や方法を知ってから製作するというよりも、自分たちの活動を通して学ぶ性質を持っています。学習課題、材料、用具、場所、友達など、多様な資源と戯れる「遊びに近い即興性」が特徴で、子どもたちには「『造形的な活動をつくりだすこと』に浸ること」が保障されます。そこでは、表現は個人の内面に閉じ込められず、「作品」を仕上げることも強要されず、協同的に「行為を通して新しい『私』になる」ことが達成されていくのです。
 「造形遊び」には反省や願いなどもこめられています。「遊びと学習が学校教育で別物になってしまったことへの反省」「予定調和的な児童画の苦しさから子どもたちを解放し、即興性を造形活動に取り戻す願い」、あるいは「内にあるものを表出するという二元論的な表現主義への異議申し立て」などです。今、その考え方は絵や立体、工作、鑑賞などにも広がり、図画工作の学習指導要領と、現在実践されている多くの題材を貫いていると思います。
 本稿に関わる視点としては、「造形遊び」では子どもたちが「作品の制作をめざさない」ということでしょう。子どもがつくるのは活動であり(結果的に「作品」になったとしても)、その過程で自らの成長や発達を(同時に友達やコミュニティの発達を)学ぶことが重視されています。あえて言えば、材料や用具、関わる人々、時間や場所などの全体が「作品」なのです。

通りすがりの人にいじられる「作品」

 今年、久しぶりにボーダレス・アートミュージアムNO-MAの展覧会に行きました(※6)。そこで展示されていた「作品」の一つは、数年前に亡くなられた坂本三次郎さんの作品の再現でした。坂本三次郎さんは岩手県の福祉施設に入居していた方で、日々、拾い集めてきた草、木、石などを大地に並べ置く行為を続けていました(※7)。再現したのは美術家の椎原保さん、「よしきりの池」とよばれる藪やため池のある場所で、広場やあぜ道に石や枝、草などを様々な方法で並べていました(※8)。椎原保さんにいろいろ話を伺うと面白いことを教えてくれました。次の日になると「作品」は、並び変えられていたり、並ぶものが換えられていたりするのだそうです。近所の人や通りすがりの人などが、いつのまにか(おそらくそれを「作品」とも思わずに)「参加」しているらしいのです。それを含めて坂本三次郎×椎原保の「作品」なのだそうです。
 ここで「作品」は、ガラスケースやパーティションに閉じ込められていません。材料、場所、街、作家、鑑賞者、参加者などはすべて同じ地平に広がり、協働的で開かれた創造性がそこにありました。必要なのは、「完成品」という成果を重視する創造性ではなく、「作品」を越えた関係性や全体に着目するまなざしです。そこに居合わせるだけで「作品とは何か」「表現とは何か」「鑑賞者とは……」「街とは……」など、様々な問いが広がっていきました。

 子どもの「作品」を大切にするということはどのようなことでしょうか。
 まず、「作品」を固定的・教条的にとらえる必要はないと思います。これまで「学び!と美術」で紹介してきたように(※9)、学習場面では、自分たちが一度つくった作品を切り取ったり、壊したりすることも必要です。
 そして、「作品」であるかどうかは、大人が決めることではなく、子ども側から見ていくべきことでしょう。子ども自身「作品」をどのようにとらえているかが大事な視点であり、案外、子どもは「作品の全体にいる」というより「作品の部分にいる」ことが多いものです。
 私が『子どもの絵の見方』(2010)を書いた理由もそこでした(※10)。あえて子どもの「作品」をトリミングし、拡大し、子どもの思いや考えを「作品」から取り出そうとしました。大人が、子どもの思いや考えに気付くことによって、子どもの「作品」は、はじめて完成すると思ったからです。
 「坂本三次郎×椎原保」の視点も重要です。坂本さんの「作品」は、草、木、石などの材料から生まれ、施設と関係者、さらに多くの人々を巻き込みながら、今も生き続けています。個人に閉じ込められた「作品」ではなく、社会に開かれた「現象」となっているのです。
 「作品」は部分に宿ることもあれば、大人と子どもの関わりから成立することもあります。「作品」自体が時間や場所を越えて広がることもあります。おそらく、「作品」と私たちが呼ぶものは、前号の有元先生の言葉を借りれば、様々な動きや流れの中の「スナップショット」なのでしょう(※11)。その全体をまるごととらえることが、子どもの「作品」を大切にすることではないでしょうか。

 最後に『学び!と美術』98号で紹介したロイス・ホルツマンの言葉を紹介しましょう。彼は『「知らない」のパフォーマンスが未来を創る』(2020)という近著の中で、次のように述べています(※12)

「私たちが生きられた生(lives-as-lived)において、人類はありのままの自分でも、あるべき自分でもありません。私たちはなりつつある自分なのです(太字筆者)」

 これを「作品」に置き換えれば、実体論的な「ありのままの自分」は「作品」ではなく、切迫感のある「なるべき自分」も「作品」ではなく、学習課題、材料、周りの人々、コミュニティや社会と関わりながら「なりつつある自分」こそが「作品」なのです。本稿で取り上げたエピソードも、すべて同じことを指摘しているように思います。
 「作品」という見方を拡張しましょう。子どもが、身の回りの資源から、活動を、自らを、自らの周りを創造していることを、造形活動という「作品」から実感しましょう。それは大人である私たちにとっても、子どもの頃に忘れた何かを取り戻すために大事なことだと信じます(※13)。だってパブロ・ピカソもこういっているではないですか。

『全ての子供たちは芸術家だ。問題となるのは、子供が成長するときにどうやって芸術家のままであり続けるかということだ。』

 よいお年をお迎えください。

※1:小学校学習指導要領解説図画工作編「作品や活動は,表現した人そのものの表れであり,作品や活動をつくりだすということは,かけがえのない自分を見いだしたりつくりだしたりすることだといえる。」 日本文教出版、2018、24p
※2:武家屋敷の並ぶ宮崎県の日南市飫肥地区
※3:当時かいた絵を記憶に基づいて再現したもの
※4:附属学校が授業を提供し、指導主事が講評や授業参観の方法について研修するクローズドな研修会でした。
※5:100年以上前、1914年に、デュシャンはあえて街で買った男性用便器を拒絶されることを見越して展覧会に出品しました。そして「作品化するのは、誰だ」と問い、様々な資源から共同的につくりだされる美術という概念を批判したと言われています。
※6:ボーダレス・エリア近江八幡芸術祭『ちかくのまち』。2020年9月19日(土)~11月23日(月・祝)
https://www.no-ma.jp/town_of_perception。ボーダレス・アートミュージアムNO-MAのおかげで「アール・ブリュット/交差する魂」(2008年)で澤田真一さんの作品に出合い、「対話の庭 Dialogue of Garden―まなざしがこだまする」(2013年)で講演とギャラリートークを行ったときに坂本三次郎さんを知ることができました。
※7:以下を参照。NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ[AIT/エイト]『「リビング – 日々の世界の奏でかた」展』
http://www.a-i-t.net/ja/future_archives/2014/01/living-exhibition.php
※8:坂本三次郎 × 椎原保『Untitled』
※9:学び!と美術<Vol.95>『題材とステージ』で紹介した実践
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art095/
※10:奥村高明著『子どもの絵の見方―子どもの世界を鑑賞するまなざし』東洋館出版社、2010
※11:学び!と美術<Vol.99>『対談:ともにかなでる教育実践』の有元典文先生の発言より
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art099/
※12:ロイス・ホルツマン著、岸磨貴子・石田喜美・ 茂呂雄二翻訳『「知らない」のパフォーマンスが未来を創る―知識偏重社会への警鐘』ナカニシヤ出版、2020、99p
※13:私たちの業界ではよく引用される言葉です。パブロ・ピカソの英語名言・格言50選!
https://english.chicken168.com/pablopicasso/

対談:ともにかなでる教育実践

横浜国立大学教授 有元典文先生筆者

 前回は、「アートの生存価がある」という話と、「教育実践を主客不分離にとらえる」ことについて考えてみました。今回、引き続き有元先生がご登場いただき、事例を通して「教育実践をどのように眺めるか」まとめてみたいと思います。

授業はグループワーク

筆者:事例で取り上げるのは、鈴木陽子先生の連載「ともにかなでる図工室」における実践です(※1)。着目したのは鈴木先生がKくんに「声をかけない」と「声をかける」という二種類の指導を使い分けていることです。
 まず、鈴木先生は、「私は途中で『いろいろな用具も使ってみる?』と声をかけることができませんでした」と語っています。たぶん鈴木先生は「声をかけてはいけない」と直感的に察知したのでしょう。「K君に、いろいろな用具は今必要ないと思った」と述べていますが、それは察知した後に考えたことで、声をかけなかったのは、むしろ集中して製作する子どもの姿を我が事のように感じた自然な態度だろうと思います。
 一方で、積極的に子どもに主題や理由などを尋ねる場面もあります。鈴木先生は「何を感じているのかな。どんなイメージが広がりつつあるのかな」など子どもの発想や構想を知るのが「何より楽しみ」だからです。「楽しみ」とは、教師と子どもが同じ位置にいる感覚から生まれる言葉だと思います。また「尋ねる」は、発想や構想という訳のわからないものを、お互いに可視化する行為です。
 「声をかけない」からこそ子どもに能力の発揮が保障される。一方で「声をかける」ことで子どもとイメージを共有し、発想を確かにする。どちらも等しく「子どもの能力」を実現させていて、それを一緒に達成する共同実践者が子どもと教師です。
有元:校内研でいろんな授業を拝見してると、私には「授業とは歴史を通したグループワークだ」という風に見えます。「教師→生徒」という一方通行ではなく、「授業として観察可能な文化社会歴史的実践の45分だけのスナップショット」だ、と思うのです。そこに参加する皆が「共同の意志(いっしょにやろう)」を持って、共同に寄与する「何かをして」、あるいは、寄与しない「何かを積極的にしないことをして」、その上で授業は成り立っている。まさにグループワークでしょう。
 難しい学校も拝見するのですが、少なくとも授業が成立していることは、まずもって、そこにいる多くの参加者に「共同の意思」が「共有された事態」です。授業では、子どもたちが「そこにいること」をしていて、「出ていくことをしない」のです。同様に「手をあげること」をしたり、「頭を使うこと」をしたり、「話してる子を見ること」をしたりします。また、「ロッカーにしまったカブトムシの世話をしに行くことをしないこと」をしたり、「立ち歩くことをしないこと」をしたりしています。街角の「雑踏」にはこれほどの「共同の意思」はないです。
筆者:なるほど「雑踏」と「授業」を比べれば、「共同の意思」は実感しやすいですね。当たり前に授業が成立していることこそ、かけがえのない実践だと思えます。
有元:授業はグループワークで、学習は共同で、これに気付けば、そこを子どもに価値づけてあげれば、もっと多くの共同に満ちた将来の生活への練習に良いのではないかと考えています。

あたりまえの授業が素晴らしい

筆者:同時に、私は鈴木先生の実践を「子どもに素晴らしい能力」があって、それを「ベテラン教師が上手く見取った」という風にとらえてはいけないと感じました。その見方をしてしまうと「子ども万能主義」か「スーパーティーチャー主義」か、どちらにしても発展しないし、応用もできません。特別な出来事にしてしまってはいけないと思うのですが……。
有元:確かに先生たちは「共同の意志」のような日常的な「共同の価値」よりも、何か特別な「他の価値」に目を向けることが多いですね。私は、校内研講師として呼ばれることが多いのですが、そこでは、すでに先生や子どもたちが日常的に「もうできてること」「もうやっていること」を伝えるのが仕事だと考えています。「事実と指導が同時に生まれている(事実←→指導)」という原因と結果の同時生成に気付いてほしいからです。道具と学習の結果が同時に生成されていることの素晴らしさにも気付いてほしいですね。それは人間社会の成立と同じ素晴らしさです。このことについて、「パフォーマンス心理学入門」(※2)の拙稿で以下のように書きました。

 教育を皆が共同で発達する実践だ、と読み替えていきたい。
 教育はみんなで唄う歌のようなものだ。歌は誰かの声が歌なのではなく、個々の声の総和以上の全体が歌だということだ(※3)。教師と児童生徒は、拍手における右手と左手である。拍手の音はどちらの手のひらから出ているか?今その場で、拍手をしてみて、確かめてもらいたい。よく見て、よく聴いて、何度も繰り返して、確認してみよう。拍手の音声は右手からも左手からも鳴ってはいない。拍手の音声は右手と左手の関係の効果として一体として空気を震わす。水がその構成要素である酸素そのもの、水素そのものとは異なる性質を持つように、全体は部分の総和をこえている。ヴィゴツキーは共同作業の意義について以下のように記した。
 集団を形成した一人一人の子供は、ある種のより大きな存在と同化することで、新たな質と特殊性を獲得した。集合的活動(コレクティブ・アクティビティ)と協同の過程において、かれの水準は高められる。前からそこにあったというわけではなく、まさにグループづくりのその過程において、新たな形の生き方(人格)があらわになるのだ。(Vygotsky、2004、p.211)
 社会の縮尺図である教室は、個々の要素の足し算を超えている。できる−できない、うまい−下手、関与−無関与、初心−熟練、そうした多様な要素が混じり合って全体の効果をつくりあげるアンサンブルであり、その意味で社会の小宇宙だと言える。教科を学ぶだけではない。教科を学ぶことを通して、社会生活の基礎である「一緒に生きる技術」(※4)を、教科で学んでいる。

筆者:なるほど。そういえば、鈴木先生は、別の実践で、教科を通して共に学ぶことにも触れています。ある子どもが、自分で集めた「土」を絵の具にして絵をかくうちに、「雨や太陽、ざっそう、葉っぱ、虫、人とかが土といっしょになると、いい土になって未来に続く」ことに気付いたそうです。その後、「『大地はなぜ命を生み出すのだろう』というとても深い問い」を立てます。そのことを鈴木先生はすごく喜んで、「子どもたちが問い続けていくことのできる授業を編み続けたい」と述べています(※5)
 「編み続けたい」なんですよね。子どもも教師も、絵も、土も、主題も……。授業におけるすべてを並置された資源としてとらえ、それを編み続けるのが「授業だ」というとらえ方なのでしょう。
有元:「編む」というのはぴったりの表現だと思います。並置されたバラバラの糸を組み合わせて全体として一つのかたちを作ることだからです。教育は一緒に生きることで、皆が共同で発達する実践です。「発達の最近接領域」「足場かけ(スキャフォールディング)」「特別支援教育」「ユニバーサルデザイン」「障害の社会モデル」「指導と評価の一体化」など、様々なとらえ方がありますが同じことだと思います。結局、私たちは人間に関して「全体は部分の総和に勝る」(※6)ということを話し合っているのです。こうして久しぶりに対話するうちに徐々に創発してきた私たちの興味は「教育実践の基礎としての人間の弁証法的理解」といったところでしょうか? 教育、啓蒙、指導、支援、援助、治療と言った実践は、一方通行のようでいて、実は相手がいないと成立しない。子どもたちがいるから、私たちは「教育」をできているのです。そこで強調したいのは、「教育とは教育が適切に機能するための教え手と学び手による共同作業だ」、ということです。とても対話的なことなのだ、どちらともが共同で発達する実践なのだ、という事実です。
筆者:教育実践を見たり語ったりするときの基礎は、教育を「皆が共同で発達する実践」として見ることなのですね。学習指導案上は「子どもの事実→教師の指導」という因果になるけど、現場の実際は違っていて事実と指導は常に同時に生まれています。言語や式などの認知的な道具、あるいは文字通りの小刀や絵の具などの道具なども、学習成果や能力と同時に成立しています。それは、特別なことではなくて、まさに大勢の先生たちが実践している「普通」のことですよね。
 鈴木先生の連載の題名を、あらためて見ると「ともにかなでる図工室」なんです。子ども、先生、材料や用具、窓や光など、それらすべてがアンサンブルするインプロビゼーションの現場、それこそが「教育実践の基礎としての人間の弁証法的理解」なのかなと思いました。
 2回にわたった対談、多くの知見を得ることができました。有元先生、ありがとうございました。

※1:「ともにかなでる図工室 第四回 データの海」
https://www.zukonomikata-nichibun.net/tomonikanaderu04/
※2:香川秀太、有元典文、茂呂雄二著『パフォーマンス心理学入門—共生と発達のアート』pp.12-15、2019、新曜社
※3:「全体は部分の総和に勝る」アリストテレス The whole is greater than the sum of its parts.
※4:「教育において殻を破り自分を広げるべきは誰か?:いっしょに生きる技術としての発達の最近接領域(ダンスがひらく 学びの世界:殻を破る・自分を広げる)」『女子体育 59(6・7)』pp.12-15、2017、日本女子体育連盟
※5:「ともにかなでる図工室 第五回 大地はなぜ命を生み出すのだろう」
https://www.zukonomikata-nichibun.net/tomonikanaderu05/
※6:前掲註3

対談:生存価としての図画工作・美術

横浜国立大学教授 有元典文先生筆者

 コロナ禍における図画工作・美術の役割についてちゃんと向き合いたくなったので、横浜国立大学有元典文先生(※1)をお招きして考えてみました。

アートには「生存価」がある

筆者:今、コロナ禍のもと、図画工作や美術の意味が今一つはっきりしないという状況にあります。例えば、校長先生から「図画工作の時間を削って算数に」と言われて悔しい思いをしたという先生の声を聞きました。一方で、ドイツの文化大臣の言葉を借りて(※2)、図画工作・美術こそ大事だとか声高に主張する人もいます。ただ、理屈が前に立つというか、その人の価値観にすり替えられているというか、どうにも響いてこないのです。
有元:美術やアートについて考えるとき、よく「飯を食うのに不要」と言われますよね。そこは否定しにくいでしょう。でも、その条件についてじっくり考える必要があると自分自身の体験から思い知らされました。私はバンドをやっているのですけど、3ヶ月くらい、練習も毎月のライブもできませんでした。ライブミュージックは、生きることを前にした剥き出しの状況で真っ先に割りを喰ったのです。先日、久しぶりに仲間と会って、みんなでポロポロと楽器を弾いて、歌い出したら……びっくりするほど、脳からなんか出るほど楽しかったんです。おそらく「飯を食うのに不要」だと思えていたのは「音楽を失うことが決してない」と安心していたからでしょう。「失って気付くことがある」というやつですね。この体験から「飯を食うのに不要なはずのアートに生存価(survival value)があるのが人間かもしれない」と思いました。
筆者:アートは「飯を食うのに不要」、それを了解した上で、でも「生存価」がある……どういうことですか?
有元:「生存価」とは、進化心理学の人たちと話していて知った概念です。その「種」の生き残りやすさに寄与する性質のことです。例えば脂肪には「生存価」があり、脂肪の形でエネルギーを蓄えられた方が飢餓に強いでしょう。言語にも「生存価」がありますね。言葉を交わし合えれば、生きるために必要な共同作業の精度が上がるので、その「種」は生き残れます。この観点から言えば、歌やお絵かきはどうでしょう? 「歌わない種」より「歌う種」の方が、「お絵かきしない種」より「お絵かきする種」の方がより生き残っていたとしたら、興味深いですよね。これは「飯を喰うのに不要」の反証になり得ます。「飯を喰うのには不要」だけど「生きるのには必要」なわけです。
筆者:なるほど、目の前の「飯を喰うのには不要」かもしれないが、それだけでは滅びてしまう。人類は、今、共に歌い、共に描く「文化」の中にありますが、それは「歌うことや描くことに生存価があったからだ」ということができるわけですね。

「生存価」を自覚するインプロゲーム

HANDSON:http://www.hxon.net/pepakura/
Johan Scherft:https://jscherft.wixsite.com/website-johan-3/papercraft
筆者:私も、自粛期間中なぜか紙工作に没頭していました。その理由がその時は分からなかったのですが、今考えると誰にも会えない苦しい状況の中で、生存するためだったのかもしれません。「生存価」は実践を通してこそ感じられるものなのでしょうね。図画工作や美術などは、まさにそういう教科で、学習活動では、その都度の瞬間に、材料や私や友達などが成立すること、言い換えれば生きていること、「生存価」がここにあることなどが実感できます。ただ、その「生存価」の必要性を言葉で理解してもらうのは、とても難しいです。私自身、原稿や講演などで、「こういう考え方がある」「こんな実践がある」と講釈を「垂れる」んですけど、それよりも、小さなワークショップで何かつくったり描いたりした方がよほど楽しくて、伝えたいことも伝わるような気がします。大事なことは「実践」を通して理解したほうが早いというか……有元先生も「インプロ」(※3)を通して、学習や発達について考察されていますよね。
有元:横浜国立大学でも対面の市民講座が始まって、担当する私は、奥村先生から伝授された「ラウンドスケッチ」(※4)を使いましたよ(笑)。あれは楽しいし、「他の人間のいる意味」が直感できて素晴らしいです。「主体」を個人ではなく「個人間のアンサンブル(協働作用)そのもの」だと考えることに役立ちます。そういうことって、頭でわかる人もいるんでしょうが、身体でわかって心で理解できるのがいいと思うんですよね。このことは、「インプロゲーム」でずいぶん経験しました。「インプロ」というのは「どうやればいいか前もって分からない」(ロブマン、2016)ような、共同的で創造的な即興演劇のことです。例えば、二人の人間が一人の人間として息を合わせて発話する「ワンボイス」というゲームでは、「主体性のアンサンブル性」が体感できます。ぜひ試してほしいのですが、二人でペアになって、何かに近付いて、それを指さして、その名前を言うだけなんです。ただ、相談なしにぴったりと声をそろえて行うのは難しくて、腹を抱えるほどおかしい。同時に、アンサンブルの一員として意思決定し行動すること、さらにその喜びを味わうことが分かります。このゲームを通して、「私」という主体が共同的に達成されることが意識化され、可視的になれば、その人は共同性に貢献することを積極的に目指せるようになるでしょう。日々が発達環境になるし、人が共同し合う社会そのものが学校になるし、また教科書にもなります。「インプロゲーム」を始めて、いろんなワークショップに参加して、そのころ感じたセンセーションについては、短い文章にまとめています。ヴィゴツキーを引き合いに出して「学習は共同だ」と書きましたので、詳しくはそれを読んでください(※5)
筆者:なるほど、「ラウンドスケッチ」や「インプロゲーム」のような活動を実践すると、人間は共同的に成立することは、すぐに実感できますね。一方、言葉だけで理解することの困難さはどうでしょうか。

図画工作・美術は修行?

有元:私や奥村さんは長く状況論的に世界や実践や教育・学習を眺めてきたので、この世を主客不分離にみる練習を積んできたのだと思います。主客不分離というのは、主体と客体、見るものと見られるもの、働きかけるものと働きかけられるものの関係が、主→客のような要素にはバラせない、ということです。しかし現代人の理解の根底にある素朴な主客分離可能主義、要素還元主義、物心二元論は非常に強力ですね。教育学部の学生にしても、校内研でお話しする先生方でも、世界・子ども・教育・能力等を主客不分離にとらえるのは難しいです。
筆者:大学で図画工作科の学習指導案の書き方について教えますが、学習指導案自体が、要素に還元して説明するメディアですよね。材料、用具、児童の実態、学習指導要領など、その題材が成立する要素を細かく分解して、その上でそのつながりを考える。教師の手立てが子どもにどのような効果があるかを考える。そんな練習を積めば積むほど、要素の関係は明確になって「分かったような気」になるのですけど、一番大事なことが忘れ去られていくように感じます。
有元:デカルトのせいなのか(笑)、言語の文法の影響なのか、そもそも人間の脳がそうなのか、人は世界を因果律(コーザリティ)でとらえます。要素が意味をつくる、と。少なくとも子どもの学びを説明したり、指導案を作ったりするときはそうなりますね。一方、ホルツマン(※6)先生は、tool-for-result(原因があるから結果がある説)ではなく、tool-and-result(原因と結果の弁証法)でとらえることを人間理解の基底に置こうとしています。「因→果」というのは自然科学ではそういう事象が多いかも知れないけど、人間の場合はそんな単純ではないですよね。「因←→果」のように、因果は弁証法的一体だと思います。例えば、結果が原因を作ることもよくあることです。
 A:「こんにちは」
 B:「ふんっ」
Aさんの発話の意味はBさんの発話によって遡って規定されます。事件を知った後に、あの時の行動の意味を理解した、みたいなバックワードの理解はいくらでもあります。
筆者:Bさんは何かAさんに怒っているのですね。Aさんはそのことに、今、気付いたのかもしれないし、そもそも何かの問題を解消しようとして「こんにちは」と働きかけているのかもしれない。少なくともBさんの発話の後は「こんにちは」が「普段の挨拶」のままではいられないですね。
有元:教育は特に因果を個体内に設定しがちですよね。○○だから△△できる/できない、とか。以前、質的心理学辞典(※7)の「個体主義パラダイム」の項目に以下のような例を書きました。

認識や行為の参照枠を個人に設定した場合に「花子が自転車に乗れた」と記述され得る事態は、参照枠を広げ、事態が埋め込まれた状況が見渡せるようにカメラをズームアウトした場合、「花子が自転車に乗れた、という事態が観察可能(可視)になるような、補助者、仲間、人工物、課題の構造を含む状況がそこに成立している」と表現される。

筆者:教育の成果や発達は、つい、子どもがどうした、どうなったと個人に閉じ込めて語りがちですけど、ちょっと引いてみれば、それを成立させる多層で多様な資源のリゾームがありますよね。でも、なぜか、その資源は不問にする傾向があります。子ども中心主義というか、何でも子どものすばらしさで済ませようとする。でも、それでは本当のところ指導もできないし、指導案も書けない。
有元:私がヴィゴツキーに帰依したのは、できるできないが「個人内」ではなく「個人間」の問題だからです。これは特別支援教育では基本的なことですよね。個人の出来なさにスポットライトを当てるというのは、今や相当筋の悪い昭和の教育手法だし、それでは教育実践を前に進めることはできないと思います。学びや発達の因果律的理解には期待はできません。ヴィゴツキーのたとえを借りれば、水は「酸素」と「水素」という構成要素に分解できるけれども、「火を消す」という性質は、この要素還元では説明できません(※8)。水の性質は、水そのものとして見るしかないのです。人間の発達を理解するためにも、その場で起きていることを丸ごととらえる視点が大切です。「物事は同時に起きる」というか、「私が世界に働きかけるという見方はしない」というか、「私と世界は同時に成り立っていく」というか……大学の講義で共同作業を主に行う理由を、学生には「人生はグループワーク(Life is group work.)だから」だと説明していますが、その「ライフ・イズ・グループワーク」という見方が、鮮烈に、身体と心で理解できるのが「ラウンドスケッチ」であり、即興で共同のいろんな「インプロゲーム」なのだと思います。
筆者:なるほど。コロナ禍で自分自身の成立自体が怪しくなって痛感しましたが、人が成立することは「あらかじめ分かり切った因果律」に従うことではないですね。少なくとも図画工作や美術が担っている役割は、そこではない。実践を通してこそ「生きる力」を身に付けるというか、学校でイヤというほど行う「因→果」のような指導ではなく、多様な資源とのアンサンブル、ジャズやロックのインプロビゼーションのような即興性を通して「因←→果」を実感する、それこそが「生存価」なのかもしれませんね。
有元:悟りのための修行ってあるじゃないですか。頭でいくら考えてもわからないので、修行という手法をとるわけです。すると、図画工作や美術は悟りのための修行といえるかもしれませんね!!(笑)
筆者:いいですね、それ! 今まで誰も「美術は修行だ!」とかいいませんでしたよ(笑)。頭で分からない、言葉で伝わりにくい、でも美術実践という修行で、人の共同的な成立や、社会を生きる力をつくる……まだまだ、深く考えてみたいテーマですね。

※1:有元先生との出会いは、ある雑誌の論文でした。明快な論理に目が覚めるような思いをしたことがきっかけです。それ以来『初等教育資料』に原稿をいただいたり、美術科教育学会で講演していただいたり、いろいろな場で一緒にお仕事をさせていただいています。コロナ禍のもと、図画工作や美術は何を求められているのか、対談を通して、何かヒントを得たいと思い、登壇いただきました。有元典文「教育のチューリング・テスト」『現代思想6月号 特集 教育に何ができるか 状況論的アプローチ』青土社、1991、pp.157-165
※2https://note.com/hasebehiroshi/n/naa206880e815
※3:インプロは、インプロビゼーション(Improvisation)の略。以下に詳しい。香川秀太・有元典文・茂呂雄二編「パフォーマンス心理学入門—共生と発達のアート」新曜社、2019
※4:学び!と美術<Vol.78>「ラウンド・スケッチ~人気の鑑賞アクティビティ」2019
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art078/
※5:有元典文「論説 教育において殻を破り自分を広げるべきは誰か?―いっしょに生きる技術としての発達の最近接領域―」『女子体育vol.59-6/7』日本女子体育連盟、2017、pp.12-15
https://ci.nii.ac.jp/naid/120006344914
※6:ロイス・ホルツマンはアメリカの発達心理学者。インプロの実践と分析を通して、インプロの集団のアンサンブル性にもとづいた、個体主義的能力観や二元論の批判などをおこなっている。
※7:能智正博・香川秀太・川島大輔・サトウタツヤ・その他編『質的心理学辞典』新曜社、2018
※8:水素はそれ自体が燃えるし、酸素はものの燃焼を助け、そのどちらにも消火能力は備わっていない。

〔共通事項〕が目指した「私」

 〔共通事項〕が生まれて、すでに12年。本稿では〔共通事項〕が目指したことや提案された当時の経緯などについて、少し変わった視点から振り返ってみます。

「音」から成立する「私」

写真1 クリック or タップで音が出ます。 音楽を流しながら作業をしている時、ある「音」が響くと私は「ズズッ」とその方向に引き込まれます。それは、ひずんだ重いギターの音です(写真1をクリック or タップして下さい)。この音を聞くと、私の顔は、その音に夢中になった思春期の少年になってしまいます。
 それは、「音」から、年齢不詳の「私」が立ち上がった瞬間です。同時に「音」が意味をもって現れる瞬間でもあります。音が「世代の心を奪った音楽」になるのは、その後の話です。
 旋律やリズム、構造などではなく「音」なのです。「音」と「私」が同時に成立する。ギターの音が鳴り響いた時、私におきているのは、そのようなことでしょう。

「新聞紙」から成立する「私」

 造形で考えてみましょう。

写真2写真3

 写真2の「新聞紙」は、ただのゴミです。写真3が示すのは、ただの子どもです。でも、それが触れ合うと「新聞紙に手を伸ばし、カサカサとした音と感触を楽しむ1歳児」が成立します(写真4)(※1) 。同時に「新聞紙」は、子どもの遊びを保証する「材料」になることができます。「遊び」が展開されるのはその先の話です。

写真4

 同じ様に、「ポタンと墨を和紙に垂らす」「真っ黒にした画用紙を消しゴムでスッと消す(写真5)(※2) 」「ビリビリと紙を破る」など、その都度の瞬間に、「色や形」、「材料」などが成立し、同時に「私」が生まれ、「私」が動き始めます。

写真5

 造形活動という学習や、その結果としての作品などは、その後の話であり、多くの場合「その子」のまなざしとは異なる立場から語られます。

「作品」から成立する「私」

 「作品」から成立する「私」もいます。
 「みやざきアートセンター」は、文化を通して街の活性化に取り組んでいます(※3)。展覧会場や図書館、子どもの遊び場などを持った「よくある文化施設」なのですが、少し違っているのは、毎回、展覧会や講座などによってどのような市民が生まれたかを検証しながら事業に取り組んでいることです。
 例えば、2010年の「仮面ライダーアート展(※4)」で生まれたのは、仮面ライダーに詳しい「物知りパパ」です。子どもの手をにぎり案内する「頼れるママ」も成立しました。日頃「厳しい部長」として過ごす男性は、孫を抱っこする「優しいジジ」になれました。

写真6
©石森章太郎プロ ©石森プロ・テレビ朝日・ADK・東映ビデオ・東映
写真7
©石森章太郎プロ ©石森プロ・テレビ朝日・ADK・東映ビデオ・東映

 目指したのは、単なるサブカルチャーの展覧会ではなく、仮面ライダーという「作品」を通して「家族」をつくりだし、文化的な市民と街の回遊を実現しようとする試みでした。「みやざきアートセンター」は「何をしたか(作品の展示)」ではなく、「何が創造されたか(個人及び文化や社会も含んだ人々の成立)」を大切にする施設なのかもしれません。

〔共通事項〕から成立する「私」

 〔共通事項〕が考案された2008年当時、教育に関する世論はPISAショックに始まった学力低下論争が猛威を振るっていました。中央教育審議会では、教科ならではの「基礎的基本的事項」の明確化が要求され、その答えとして提案されたのが図画工作・美術の〔共通事項〕です(※5)。表現及び鑑賞の活動において共通に働く資質や能力として「形や色など」「イメージ」が示されました。
 しかし、提案した側の思いとしては、〔共通事項〕は単なる「基礎的基本的事項」ではありません。「共通」という言葉には、解説書にも記載されているように「絵画とデザインの共通」「小学校と中学校の共通」「私と友達の共通」など様々な意味が込められています。でも、最も大切にしたのは「私と世界の共通」です。「形や色など」と響き合って「私」が立ち上がり、「自分のイメージ」が世界と響き合いながら造形活動が展開することでした(※6)
 〔共通事項〕から、どのような子どもが成立するのでしょう。どのような仲間が生まれ、どのような学習がおこるのでしょう。それはどのように社会や文化へとつながるのでしょう。そこには、きっと「私」が貫かれているはずです。
 〔共通事項〕は、制度的には「造形要素」とも呼べるような教科の「基礎的基本的事項」です。しかし、それに絡み取られることなく、「音」や「新聞紙」、「作品」のように、かけがえのない「私」を立ち上げるための要素であってほしい。一人の子どもにおきることではあるけれども、「人々」や「文化や社会」などを視野に入れてほしい。その意味で〔共通事項〕を視点に題材計画や学習指導を考えてもらいたい。そんなことを今も願っています。

※1:「たんぽぽ保育所八広園」の保育より https://tanpopohoikusho.ed.jp/yahiro/guide/
※2:『図画工作教科書5・6上』日本文教出版、2020年、5頁
※3:みやざきアートセンター https://miyazaki-ac.com/
※4:みやざきアートセンター仮面ライダーアート展 https://miyazaki-ac.com/past-exhibition/post-1606/
※5:まず、図画工作・美術が提案し、その後、音楽も同様に共通事項を提案します。
※6:立教大学の大嶋先生は以下のように発言されています。『「シニフィエ(意味内容)」に対して「シニフィアン(意味作用)」の優位とはアクティブラーニングそのものだし、主体的・対話的で深い学びはそこで生じるものと思います。これはイコール「造形遊び」です。造形遊びの本質が実はここにあると私はずっと思っていて、10年前の学習指導要領の改訂で、奥村先生が文部科学省の教科調査官だったころ「共通事項」が出されましたが、その共通事項で「シニフィアン」の優位が明確に書かれていて驚きました』第68回日本美術教育学会学術研究大会東京大会共同討議Ⅱ」より。コーディネーター梅澤啓一・パネリスト大嶋彰・奥村高明・苅宿俊文。大嶋先生の指摘は『小学校学習指導要領解説図画工作編』日本文教出版、2008、19-20頁の部分と思われます。

もう一人の私

 子どもたちが学習を振り返ったり、調整したりすることは「主体的・対話的で深い学び」の重要な要素です。本稿では、学習を調整する子どもの姿を確認するとともに、それを支える教科書の役割について考えてみたいと思います。

学習を調整する姿

図1図2 ある低学年の教室。となりの友達の絵をじっと見つめている子どもがいます。その後、自分の絵をかき始めました。どうやら友達のアイデアを取り入れたようです。
 さて、この子に「それ、誰が考えたの?」と尋ねたら何と言うでしょう。多くの場合「ぼく!」「わたし!」と即答するでしょう。友達も、自分も、材料や用具も、全て一体的なのが低学年の特徴です。
 でも、小学校中学年あたりから「友達のアイデアを取り入れた」と言えるようになります。高学年くらいからは、意図的に作品や活動を見なおすことができるようになります。例えば、図1のように、体を引く姿からは、「計画通りに進んでいるかどうか」を確認していることが分かります(※1)。図2の友達の様子を見る姿からは、「自分の作品に取り入れられるかな」と考えていることがうかがえます(※2)

鑑賞学習で生まれる
「もう一人の私」

 中学生くらいからは、自分の学習活動を意識的に見つめ直し、学習を調整しながら進めるようになります(※3)。事例として、鑑賞に関する調査結果を紹介しましょう(※4)
 私たちの研究グループは、鑑賞学習を教育課程の中心に位置づけた中学校で、生徒の意識や学力の変容を調査しました(※5)。その一つに「鑑賞学習自己評価尺度」を用いた調査があります。「知識・技能(知識)」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」をもとに50項目の自己評価尺度を作成し、学習活動の前後に実施したのです。分析すると興味深いことが分かりました。
 「知識」と「思考・判断・表現」を分けて尋ねたのですが、因子を探ってみると一体的に働いていました(※6)。鑑賞活動において、生徒は知識と思考を分けてとらえていないようです(※7)。一方で、「主体的に学習に取り組む態度」では、学習に向かおうとする因子と、学習を調整しようとする因子に明確に分かれました(※8)。生徒は別々に意識しているということでしょう(図3参照)。

図3

 一般的に「意欲的な学習態度」があれば熱心に「学習する」と思われがちです。しかし、調査からは、まず「鑑賞に向かう態度(第Ⅰ因子)」が基盤にあって、それが「鑑賞に関する知識・思考(第Ⅱ因子)」を動かし、さらにそれを調整しようとする「鑑賞に関する知識・思考調整(第Ⅲ因子)」が働くという学習モデルが想定できます。鑑賞学習において、生徒は、知識や思考を調整する「もう一人の私」を持っており、それを意識的に活用しているようです(※9)

「もう一人の私」としての教科書

 「もう一人の私」という視点から、教科書の役割について考えてみましょう。
 小学校では学習の順序が大切です。先生は、今、単元のどのあたりにいるということを、授業の最初で押さえます。子どもたちは、それを理解して学習を進めることが求められます。図画工作科の教科書でも、学習の流れが分かるように作成されています。「ここからはじめて…」「次にこうなって…」と順番を意識することが大事なのです。
 でも、中学生にもなると、教科書のページを開きさえすれば、「何をつくるのか」「どのような方法で行うのか」などは一瞬で分かります。教科書に、学習の概要や進み方を解説する役割はそれほど強く求められません。むしろ、「制作活動を新しい視点で見つめなおす」「自分の概念をくつがえす」など学びを深くする手立てが要求されるのです(※10)
 例えば、令和3年度新版教科書『美術 2・3下』p44-45「人が生きる社会と未来」(図4)では、制作方法や生徒作品は右側の1頁にまとめられています。左側の1頁は、視野を社会や環境に広げ、日常を美術的な視点でとらえ直したり、生徒が新しい価値観を持ったりするために用いられています。
 令和3年度新版教科書『美術 1』p58-59「発想・構想の手立て」(図5)では、プロの作家さんのインタビューやスケッチ、作品などを、まるで雑誌のように「読む」構成になっています。自分の発想を様々な角度から検討したり、思いを実現する方法をつかんだりするためだけの2頁です。

図4図5

 学びを深くするために学習を自己調整する役割、それを教科書が果たしてくれるとすれば、これほど心強い存在はないでしょう(※11)。生徒が学習を調整し、より深く進むための教科書。それは、ただの本や資料というよりも、生徒にとって「もう一人の私」のような存在かもしれません。

※1:ときおり、計画書を見る姿もありました。奥村高明「マナビズム―「知識」は変化し、「学力」は進化する」東洋館 2018 より。
※2:実際に、この後に友人の技法を取り入れました。奥村高明「美術教育における相互行為分析の視座-状況的学習論を基にした相互行為分析による指導法の改善-」筑波大学大学院博士論文 2011。
※3:「自己調整学習」の研究は1980年代から行われています。自己調整学習研究会 編著「自己調整学習: 理論と実践の新たな展開へ」北大路書房 2012より。
※4:「美術教育における学力分析 ~ルーブリックを用いた鑑賞学習の効果測定~ 2017-2019 基盤研究(C)課題番号17K04810」奥村高明他。
※5学びと美術<Vol.66>『「朝鑑賞」で学校改革』2018。
※6:例えば「観察したことを手がかりにします」という知識に関する項目と、「作品について知ったことや分かったことなどを組み立てるように考えます」という思考に関する項目が同じ因子として働いていました。
※7:鑑賞の学習活動では、知識と思考が分かちがたく結びついているのかもしれません。
※8:例えば「できるだけ自分自身で考えます 」という学習に向かおうとする態度と「作品についての先生や友達の説明、自分の考えなどを比べながら考えます」という学習を調整しようとする態度は別々に働いています。
※9:宮本 友弘、奥村 高明、東良 雅人、一條 彰子「中学校における美術鑑賞学習の自己評価尺度の開発 ―資質・能力の三つの柱の観点から―」東北大学 高度教養教育・学生支援機構 紀要第6号 2020 p.45
http://www.ihe.tohoku.ac.jp/cahe/wp-content/uploads/2020/04/211756b6f053aea6bac90752bed77f3e.pdf
※10:「深い学習」がどこかにあって、それを目指すのではなく、当たり前の学習を「深くする」という視点が重要でしょう。
※11:今回のように、自粛せざるを得ない状況では、特に有効だと思います。