学び!と人権

2026.07.06 <Vol.31>

「障害の人権モデル」とは何か?(その2)

森 実(もり・みのる)

「障害の人権モデル」とは何か?(その2)

日本語での「障害」の表記法と意味

 「障害」を日本語でどのように表記すべきかという点については、政府の設置した「障がい者制度改革推進会議」が検討し、2010年に報告を出しました。「障害」「障がい」「障碍」などを検討し、様々な団体によるそれぞれの表記法への肯定的意見や否定的意見を紹介した上で、最終的には「様々な主体がそれぞれの考えに基づき、『障害』について様々な表記を用いており、法令等における『障害』の表記について、現時点において新たに特定のものに決定することは困難であると言わざるを得ない」(「『障害』の表記に関する検討結果について」2010年、12頁)としています。それで、結局2013年に制定された法律も「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」(障害者差別解消法)という名称になって、「障害」という、従来通りの表記が用いられることになりました。
 最近では、自治体行政などが「障がい」とひらがなを使って表記する場合が増えています。「害」という文字が、「公害」「害虫」「加害」などの負のイメージを伴っているからだというのです。いくらひらがなを使っても、上のような意味で英語なら2類になっている言葉が日本語では同じ一つの言葉で表記されるのですから、混乱しやすいことに変わりはありません。「障害」表記であろうと「障がい」表記であろうと意味は同じです。「障がい」と表記するのは、社会モデルに立っているからだとしている場合もありますが、個人モデルによるといわざるをえない場合もあります。「害」という文字に対する否定的イメージだけで論じている場合もあります。そのような場合、「害」という文字をさけるのは、障害者に「害」があると考えていると思われたくないためです。(念のため言えば、もしも「害」の文字に問題があると考えるなら、「障」(しょう=さしさわり)という文字の方をなぜひらがなにしないのかということも分かりません。)

障害者自身や家族らが出席し、開かれた「障がい者制度改革推進会議」の初会合(2010年)

 「障碍者」という表記を基本にするという考え方もあります。この「碍」という文字は、もともと「礙」という文字だったのですが、戦後になって「礙」という文字が当用漢字から外されたため、それに替えて「碍」が用いられかけたといういきさつがあります。では「礙」という文字にはどんな意味があるのでしょう。「礙」という文字は、「妨げる」という意味であり、大きな岩の前に立って人が困っている状態を表しています。これはまさに、社会モデルが示唆する「社会的バリア」のことだとも言えるでしょう。政府が設置した「障がい者制度改革推進会議」も「礙」や「碍」という文字の使用も検討しているのですが、両方とも常用漢字や当用漢字に含まれていない という点や、すでに「障害」という表記で何十年も用いられてきた点などを考慮して、「礙」や「碍」に変えることに踏み切れなかったとしています。

「尊厳」「アイデンティティ」と人権の発展

 障害を意味する英語には、ほかにも、「handicapped」「incapacity」などのことばがあります。Handicap という言葉は、イギリスで行われていたゲームのなかで不利な立場にある人を公平にするためにとられた「公正のための調整」を意味するところから生まれました。しかし、その後、「handicapped」という言葉が障害のある人を指す意味にも用いられるようになりました。障害者がかつて道ばたで帽子を差し出して寄付などを求めたことに由来するのだという説があります。この説に立てば、handicap という言葉は、最初から障害者を見下した言葉だったことになります。一方、Incapacity というのは、一時的もしくは特定の領域についてなんらかの能力が弱いことを指すことが多いようです。たとえば、「後見人になるだけの判断力がない」と判断される場合です。あるいは「高熱が長く続いた予後なので、まだ外を出歩いて回る力がない」といった場合です。
 impairment と disability を分ける考え方は、社会モデルにとっては不可欠のものでした。しかし、考えてみれば、「人間としての尊厳」や「障害者としてのアイデンティティ」を考えるとき、この、二つに分ける考え方にはどれほどの意味があるでしょうか。人間としての尊厳は、国際的な人権を考えるとき、抜きにできない概念だと言えるでしょう。障害者は様々な不利益を被ってきたと言えますが、それらは単に不利益や不便があったというだけではなく、人間としての誇りや尊厳を傷つけられてきたということだと言わざるをえません。障害者だというだけで低く見られたり、判断力のない存在として対応されたりするのです。人間としての尊厳はすべての人に認められているのであり、機能損傷があろうとなかろうと人間としての尊厳は誰にでも適用されるはずです。アイデンティティについても同様です。アイデンティティとは、自分が自分であるうえで、抜きにできない特性・属性を意味します。社会モデルでは、アイデンティティをめぐる議論は十分に扱えていないという批判もあります。しかし、人権にあっては、アイデンティティは人権保障の重要な要素となっています。人種差別撤廃条約・女性差別撤廃条約・障害者権利条約など、様々な個別課題に関わる一連の人権条約が生まれたのは、世界人権宣言などにおいて白人・男性・健常者が暗黙の前提とされていたからであり、それに対する抵抗運動がアイデンティティの旗印の下に広がったからではないでしょうか。存在を否定されることによって自己否定的なアイデンティティが広がりやすくなります。それを社会の側の問題としてとらえ直すことによって逆転が起こり、自己肯定的なアイデンティティへと変貌するのです。「Black is beautiful.(黒は美しい)」「吾々がエタであることを誇りうるときがきた」「元始女性は太陽であった」「我らは、健全者文明を否定する」など、被差別者の宣言のなかには、くりかえしこのようにアイデンティティの転倒が出てきます。アイデンティティという概念は、この逆転と変貌をよく表現してくれます。さらに、差別の交差性についてはどうでしょうか。「障害のある女性」の権利は、社会モデルによってどう位置づけられているでしょうか。長く生きられないのではないかという不安、人間としての苦しみや痛み、悩みなどはどうでしょうか。こうした点は、障害の人権モデルによって整理できます。

【引用・参考文献】

  • 閣府ウェブサイト
  • 安岡孝一氏「『碍』と『礙』」(「人名用漢字の新字旧字」第77回、三省堂ウェブサイト、2010.12.2)
  • 「水平社宣言から100年、その精神とは 原文と現代語訳」(朝日新聞ウェブサイト、2022.2.27)
  • 全国青い芝の会ホームページ
  • 写真:共同通信イメージズ