学び!と美術

学び!と美術

描写のできること
2013.07.10
学び!と美術 <Vol.11>
描写のできること
奥村 高明(おくむら・たかあき)

 図画工作や美術でつけたい力というと、よく出る話題が描写の問題です。中教審ではあまり話題になりませんが、現場では切実かもしれません(※1)。例えば、よく見るのが「アンケートをとる」→「図画工作・美術が嫌いな子がいる」→「上手く描けないからと答える」→「描き方を教える」です。でも描写はそれほど単純な問題ではありません。本稿ではこのアンケートに代表されるような描写の問題について検討します。

「描写の複雑性」

 美術系の大学や学科にいた人なら、石膏像の「手前側の目」と「向こう側の目」がなかなか上手く描けなかったことを覚えているでしょう。お化粧でも右目の眉を描いたら、左の眉を描くのが難しいようです(※2)。「部分は描ける、でも全体は…」、これは立体を平面に置き換える際に「部分を関係づけて配置する能力」が必要なことを示しています。描写は、単純に「対象を見て描く」という実践ではありません。部分を描く、バランスをとる、輪郭を抽出する、骨格や構造をとらえるなど複数の能力が必要です(※3)。描写は複雑な能力構造で成り立っているのです。
 では、どのような指導をしたらよいのでしょう。議論を分かりやすくするために、あえて算数で考えてみましょう(※4)。例えば、文章題ができないときにひたすら計算練習をさせる先生はいません(※5)。先生は文章題を「言葉から数量を取り出し」「その数量同士を関係付け」「頭の中で表や図にして」「それを整理して式にしていく」という要素に分けて考えます。そしてどこで躓いているかを明らかにした上で「等しいものは何か、AとBではどちらが大きいのかなどを確認する」「確認したことを図などに表す」などの指導を工夫します。何より、そのプロセス自体を子どもが主体的に進められるようにします。
 描写でも同じでしょう。例えば、描写の能力を分けて「部分を小さな紙に描いて、それを画用紙に配置する」「描写を数種類の要素に分けてメニュー化し、それを選んで、組み合わせて描く」などの工夫が考えられます。あるいは、ねらいを明確にして「中心をとらえるために、棒人間だけで描く」「輪郭を空間としてとらえるために、輪郭を描かずに、まず対象の周りを描き、次に空白で残った対象の中を描く(※6)」「光と影の関係を考えるために、真っ黒な画面から消しゴムで形を描き出す」などの工夫もあるでしょう。子どもが自分で問題を見付け出すプロセスを重視して、「複数の異なるデッサンを提示し、その描き方を自分で探り、その方法にもとづいて描く(※7)」という方法もあります。

「『思い』の不在」

 次に子どもの「思い」の問題があります。そもそも子どもが夢中になれない題材を提案しておきながら、描けないのを子どものせいにしてないか、ということです。
 あまりいい例ではありませんが、三十年前の私の経験です。中学校である方式の実践をしました。雑草を抜いてきて、脇において、少しずつ少しずつ描かせました。一見、全員が描写を追求し、出来栄えも上々に見えました。でも何か腑に落ちませんでした。そこで次の年、「40人の植物図鑑」と題して、「雑草でも命なんだよね、引っこ抜くってことは死ぬんだよね、だから雑草の命を写すように描いてみようよ」と言いました。結果的に、前年度以上の描写になりました。「なんだ、そういうことか。子どもは自分の思いが込められれば、よく観察するし、夢中になって描くんだ」と思いました。
art2_vol11_01 もう一つは、その30年後に出会ったある中学校の実践です(※8)。先生の提案は「私の宝物を持っておいで、それをデッサンしようよ」です。スパイク、ボール、ラケット、宝箱…いろいろな対象が画用紙に鉛筆で描かれていました。私は、あるランドセルに引きつけられました。鉛筆で何かを質感を描き出そうという思いを感じたからです。紹介文を読んでその理由が分かりました。「これは、亡くなったおじいちゃんが買ってくれたランドセルです。このランドセルは僕にとってはおじいちゃんそのものです。6年間しょい続けました。途中で肩の部分が外れて、途中から他のにしましたが、このランドセルは今でもしっかり保管しています。」そして周りを見渡したとき、どの子も自分の宝を描き出そうと懸命に表現を工夫していたことに気付きました。
 「思い」の問題については、多くの先生が言及しています。例えば「生徒が最初に出会うのは題材名だ。『風景を書こう』より『光のある風景』の方がいいと思う(※9)」「『ジャングルを描こう』ではだめだが、『ジャングルの「命」』なら描ける(※10)」「描けないのは技能がないからではなく、主題がないからだ」などです。いずれも描くという行為に子どもの「思い」が欠かせないことを語っています(※11)。

 もちろん、描写の問題はこれだけではありません。例えば視点や時間を固定して対象を描く方法は歴史的な産物で、その文化に属する人の固有の見方です(※12)。子どもたちはその文化とせめぎ合っている過程にあります。また、「私の見たもの」を「誰が見てもそっくりに描く」ためには、私・対象・他者という意識がはっきりと成立する必要があります。メタ認知や発達の問題が絡んでいます。その他にも描画材料との関係、教科の歴史、学力観の変化など、様々な要素が入り込んでいます。
 それなのに、子どもが「真っ白い画用紙に何か対象を描く題材」だけしか思い浮かべられない状況で、「描けない」という選択肢を用意し、その回答をもとに「描けない→技能が大切」というのは、あまりに予定調和ではないでしょうか。誘導的なアンケートや、アンケートによる大人の概念の刷り込みは勘弁してほしいものです。
 描写は面白いほど深い問題です。今、求められているのは「様々な情報の中から適切に必要な情報を選び出し、それを組み合わせて妥当な解答を、主体的に作り出す能力」です。この視点からは描写が内包する複雑な構造は、むしろ描写に関する題材の可能性、つまり描写のできることの豊かさを示しているように思います(※13)。


※1:中教審では教科の必要性や学力などの根本的な問題が話し合われるので描写は中心的な検討事項になりにくい。
※2:そういえば、かつて右の眉を抜いて、同じように左の眉を抜くと、ちょっと形が違って、また右の眉を抜いて…眉がなくなってしまったという中学生がいた(^^;)。
※3:デッサン力といっても、彫刻家のそれと画家のそれは、かなり違っている。
※4:以前も述べたが、算数・数学と図画工作・美術は似ている。様々な情報や学習経験の中から自分が使えるものを見付けて組み合わせ、妥当な解答を出す。それが唯一同じ解になるか、それぞれ個人の解になるかしか違わない。
※5:同様に「同じテーマ、同じ書き方」で作文を書かせる先生も少ない。
※6:テート美術館編集 奥村高明・長田謙一監訳「美術館活用術~鑑賞教育の手引き~」美術出版社(2012)105pより。
※7:例えば、藤江充の紹介する米国のNAEP(National Assessment of Educational Progress)が行ったエゴン=シーレとケーテ・コルヴィッツを提示し、その方法を分析させ解答させる調査(2008)。
※8:函館市立銭亀沢中学校木村伸仁の実践(2010)。
※9:文部科学省調査官東良雅人の講演から。
※10:品川区立第三日野小学校図画工作専科教諭の内野務の授業から(2010)。
※11:全員に縦笛や靴を描かせる理由が、もし「出来栄え」や「デッサン力」だけなら再考した方がいいと思う。子どもの「思い」が不在だと、その子にとって意味の薄いドリルになりかねない。
※12:例えば、今も、世界的に見れば透視図法を用いない文化、透視図法が立体に見えない人々は多い。「戦前まで日本もそうだった」という指摘もある。
※13:私自身は「知識や技能は上手に使う」という立場だ。ある学年からは、子どもが図法や技法など文化的な教育資源を主体的に選び、用いることは効果的だと思う。しかし、自分たちの前提を問い直さないまま「描けないから技法を教える」のは、自分の実践を棚に上げて子どもだけに責任を押しつけているようで、何だか子どもがかわいそうな気がする。